9-2:神崎との対話
9-2:神崎との対話
人生最適化庁の管理官室は、以前と変わらず静かだった。
白い壁。
整った机。
都市全体の安定指数を示すパネル。
不必要なものが一切ない空間。
床には埃ひとつなく、空調の音もほとんど聞こえない。
光は強すぎず、弱すぎず、室内にいる者の感情を乱さないよう均一に調整されている。
以前の玲央なら、その空間に安心していただろう。
余計な刺激がない。
不快な音もない。
視線を乱すものもない。
会話に集中できる。
よく整えられた、理想的な執務空間。
だが、未登録区域の不揃いな建物や、古い工具の音や、人の声が混じった空気を見てきた玲央には、その静けさが以前よりも冷たく感じられた。
整いすぎている。
その言葉が、ふと胸に浮かぶ。
神崎透真は、窓際に立っていた。
壁面には、管理都市全体の安定指数が表示されている。
犯罪予兆抑制率。
雇用再配置成功率。
孤独リスク低減率。
生活破綻予防率。
自由選択権行使者の再接続状況。
数字は、今日も安定していた。
玲央が入室すると、神崎はゆっくり振り返った。
「戻ったか」
「はい」
玲央は静かに答えた。
神崎の表情は、大きく変わらなかった。
怒りを露わにすることもない。
声を荒げることもない。
だが、その目は鋭かった。
「命令がなければ、戻らなかったか」
玲央は少し間を置いた。
以前なら、すぐに答えたはずだった。
命令がなくとも、適切な時点で帰還していました。
職務上の必要範囲内で行動していました。
管理外区域への長期滞在は想定していません。
そう答えることはできた。
だが、それは今の自分の本心ではなかった。
「分かりません」
玲央は言った。
神崎の目が細くなる。
「以前の君なら、そうは答えなかった」
「そうかもしれません」
「自由選択区域と未登録区域で、何を見た」
玲央は、すぐに答えなかった。
何を見たのか。
不便な街。
予定通りに進まない生活。
失敗した人々。
戻りたい人。
それでも残る人。
莉奈の過去。
黒木の言葉。
水無瀬の現在。
苦しいけれど、自分の人生だという声。
未登録区域の診療小屋。
不安定な仕事の掲示板。
水をめぐる言い争い。
戻る者と残る者の話し合い。
それらを短く説明することはできない。
玲央は静かに言った。
「人が迷っていました」
「それだけか」
「失敗していました。後悔していました。生活も不安定でした」
神崎は頷いた。
「なら分かったはずだ。自由は人を幸福にするとは限らない」
「はい」
玲央は素直に認めた。
「自由は、人を苦しめます」
神崎は椅子に座り、玲央にも座るよう促した。
玲央は向かいの椅子に腰を下ろす。
面談室の椅子と同じように、管理官室の椅子も座る者の姿勢を自然に整える角度になっている。
疲労を減らし、対話の集中度を高めるためだ。
神崎は端末を操作し、壁面に古い社会記録を表示した。
ORACLE導入以前の映像だった。
雑然とした街。
人であふれる駅。
疲れ切った表情で歩く人々。
画面は次々に切り替わる。
就職に失敗した若者。
夢を追い、借金を抱えた人。
孤立した高齢者。
過労で倒れた労働者。
家庭内の衝突。
貧困。
精神的な追い詰め。
そして、自己責任という言葉に押し潰されていく人々。
「かつて人間は、自由に選べる社会を理想だと考えた」
神崎の声は静かだった。
「だが、その自由は、すべての人間にとって祝福だったわけではない。選択肢が増えれば、人は迷う。迷えば不安になる。失敗すれば後悔する。そして社会は、その失敗を本人の責任だと言った」
玲央は画面を見つめていた。
過去の映像は、研修で見たものと似ていた。
だが、今は以前と違う見え方をしていた。
かつての人々は、自由に傷ついていた。
それは確かに事実なのだろう。
だが、その傷の中にも、自分で選んだ痛みがあったのかもしれない。
そう思う自分がいることに、玲央は気づいていた。
神崎は続ける。
「どの学校へ行くか。どの仕事を選ぶか。誰と結婚するか。どこに住むか。夢を追うか、安定を取るか。人々は、何度も人生の分岐点に立たされた。そして選択を間違えれば、自分を責め続けた」
画面には、過去の相談記録が映る。
自分で選んだ道なのに、どうしてこんなに苦しいのか。
もっと別の選択をしていれば。
失敗したのは、自分が弱かったからなのか。
誰かが語る声。
震える手。
疲れた顔。
画面の中の人々は、助けを求めていた。
神崎は言った。
「自由は、人に可能性を与える。同時に、自責も与える。自分で選んだのだから、苦しみも自分のせいだと思い込む」
玲央は、水無瀬の言葉を思い出した。
苦しいです。
でも、初めて自分の苦しみだと思えました。
水無瀬にとって、それは救いだった。
しかし神崎にとっては、おそらく危険に見えるのだろう。
自分の苦しみだと思うこと。
それは、自分の人生を引き受ける感覚であると同時に、自分を責め続ける危険にもつながる。
その両方がある。
「ORACLEは、それを防ぐためにある」
神崎は壁の映像を消した。
管理官室の白い壁が戻る。
「選択の苦しみを減らす。失敗を予測する。孤独を早期に検知する。破綻する前に支援する。人間が自分を責めて壊れてしまう前に、別の道を示す」
神崎は玲央を見た。
「それは支配か?」
玲央は答えられなかった。
以前なら、迷わず「いいえ」と答えただろう。
それは支配ではない。
支援です。
人間を守るための仕組みです。
そう言えた。
今も、その答えは間違っていないと思う。
ORACLEは多くの人を救っている。
自由に疲れた人を支えている。
失敗の前に手を差し伸べている。
生活破綻を防ぎ、孤独を減らし、無数の傷を小さくしている。
それは支配という言葉だけでは語れない。
だが、支援という言葉だけでも語りきれない。
神崎は続けた。
「君が見てきた未登録区域には、自分で選んだと語る者たちがいるだろう。だが、その陰で、選びきれずに壊れる者もいる。失敗を抱えきれず、戻る力さえ失う者もいる」
「見ました」
「なら、なぜまだ迷う」
玲央は顔を上げた。
「自由が危険だと分かったからです」
神崎の眉がわずかに動いた。
玲央は続けた。
「危険だと分かったからこそ、考えています。危険なものをすべて取り上げれば、人は本当に救われるのかと」
管理官室に沈黙が落ちた。
神崎の目に、初めてわずかな鋭さが宿った。
「それは、水無瀬蒼の影響か」
「水無瀬さんだけではありません」
玲央は答えた。
「自由選択区域で、管理社会へ戻りたい人に会いました。自由は重すぎると言っていました。未登録区域でも、再接続を選ぶ人たちを見ました。私はその人たちを否定できません」
「当然だ」
神崎は短く言った。
「だからORACLEが必要なのだ」
「はい」
玲央は頷いた。
「ORACLEは必要です。その考えは変わっていません」
神崎は、少しだけ目を細めた。
その答えは予想外だったのかもしれない。
玲央は続けた。
「でも、ORACLEが必要であることと、人が自分で選ぶ余地を失っていいことは、同じではありません」
神崎は沈黙した。
「未登録区域は危険でした。医療も不十分で、仕事も安定せず、人間関係も衝突していました。あそこを理想だとは思いません。誰にでも勧められる場所ではありません」
玲央は、神崎の目を見た。
「それでも、そこには自分で選ぼうとしている人たちがいました。戻ることを選ぶ人も、残ることを選ぶ人もいました。その選択は、幸福指数だけでは測れないものに見えました」
「幸福指数だけでは測れない」
神崎は、玲央の言葉を繰り返した。
「君は今、非常に危うい表現をしている」
「分かっています」
「測れないものを重視し始めると、人は判断を誤る。感情、直感、衝動、自尊心。そういった不安定なものに引きずられて、人生を壊す」
「それも分かります」
「分かっていない」
神崎の声が少し低くなった。
「君は、外側で見た一部の人間に感情移入している。彼らが語る言葉は魅力的だ。自分の人生、自分の苦しみ、自分の選択。だが、その言葉に酔ってはいけない」
玲央は、何も言わなかった。
神崎は続ける。
「人間は、自分の苦しみに意味を与えたがる。失敗にも、後悔にも、傷にも意味があったと思いたがる。そうしなければ耐えられないからだ」
その言葉は、玲央の胸に刺さった。
水無瀬の言葉も、莉奈の言葉も、黒木の言葉も、苦しみに意味を与えるためのものなのか。
そうかもしれない。
だが、それで終わらせていいのか。
「意味を与えることは、間違いなのでしょうか」
玲央は尋ねた。
「苦しみに意味を与えすぎると、人は苦しみから離れられなくなる」
神崎は即座に答えた。
「自分で選んだ苦しみだから耐えなければならない。自分の失敗だから受け入れなければならない。そうして、助けを求めることが遅れる」
玲央は、三枝を思い出した。
自由は重すぎました。
戻りたいと語った女性。
神崎の言う危険は、確かにある。
「支援は、人間が苦しみを美化しないためにも必要だ」
神崎は言った。
「自分だけで背負わなくていいと示すために、ORACLEがある」
玲央は、ゆっくり息を吸った。
「それでも」
神崎の視線が鋭くなる。
「それでも、苦しみをすぐに処理することで、自分が何に苦しんでいるのか分からなくなる人もいます」
水無瀬のメモが、玲央の中によみがえる。
ORACLEは、僕が苦しまないようにしてくれる。
でも、苦しまないように整えられるたびに、僕は自分が何に苦しんでいたのか分からなくなる。
玲央は言った。
「苦しみを放置すべきだとは思いません。支援は必要です。ただ、すべての苦しみを同じように異常として扱えば、人は自分の望みの輪郭まで見失うことがあります」
神崎は何も言わなかった。
玲央は続けた。
「水無瀬さんは、不幸ではありませんでした。幸福指数も安定していました。でも、生きている感じがしないと言いました。あの苦しみは、数値上では危険域に入っていませんでした」
「だから危険なのだ」
神崎は静かに言った。
「明確な危機ではないからこそ、本人はそれを過大に意味づける。安定した生活の中にある小さな違和感を、人生全体の問題だと錯覚する」
「本当に錯覚でしょうか」
玲央の声は、自分でも驚くほど静かだった。
神崎は玲央を見る。
「何?」
「問題がないのに苦しい。幸福指数は安定しているのに、自分の人生だと思えない。それを錯覚として処理していいのでしょうか」
「処理ではない。支援だ」
「では、その支援を受けるかどうかを、本人が選ぶ余地はどこにありますか」
神崎の表情が硬くなった。
玲央は、自分が踏み込んでいることを理解していた。
これは単なる業務報告ではない。
神崎の信じてきたものに触れている。
それでも、言葉を止めることはできなかった。
「ORACLEの推奨に従うことは、制度上は強制ではありません。でも、推奨から外れれば支援は減ります。自由選択権はありますが、その代償は大きい。多くの人は、自由を選ばないのではなく、選べないのではありませんか」
神崎は沈黙した。
室内の空気が、さらに冷たくなったように感じられた。
「君は、自由選択権の制度そのものに疑義を呈しているのか」
「疑義というより、問いです」
「同じことだ」
神崎の声には、抑えた硬さがあった。
「その問いは、社会の基盤に関わる。慎重に扱え」
「はい」
玲央は頷いた。
「だからこそ、考える必要があると思います」
神崎は、しばらく玲央を見つめていた。
かつてなら、その視線だけで玲央は言葉を引っ込めただろう。
だが今は、引っ込められなかった。
神崎の言葉は正しい。
自由は危険だ。
人は選択に苦しむ。
自己責任は人を壊す。
ORACLEは必要だ。
そのすべてを認めてもなお、玲央の中には問いが残っている。
危険だからといって、すべての選択を先回りしてよいのか。
苦しみを減らすために、人が自分の苦しみを知る機会まで奪ってよいのか。
間違えない人生は、本当にその人の人生と言えるのか。
神崎は、ゆっくりと息を吐いた。
「瀬川」
「はい」
「君は今、非常に不安定な状態にある」
「自覚しています」
「ならば、まず評価を受けろ。行動報告を提出し、心理評価を受ける。それまでは水無瀬蒼の件から外れる」
玲央は、少しだけ息を止めた。
予想していた判断だった。
それでも、胸が重くなる。
「承知しました」
玲央は答えた。
職務命令には従う。
だが、それは問いを手放すことではない。
神崎は端末に何かを入力しながら言った。
「君が見たものは、無意味ではない。だが、君の解釈は偏っている可能性がある」
「分かっています」
「では、客観評価を受けろ」
「はい」
玲央は頷いた。
神崎は入力を止め、玲央を見た。
「最後にひとつ聞く」
「はい」
「君は、ORACLEを信じられなくなったのか」
玲央は、すぐには答えなかった。
ORACLEを信じられなくなったのか。
いいえ、と言うことはできた。
ORACLEは必要です。
人を救っています。
私はそれを否定しません。
それは事実だ。
だが、それだけではない。
玲央は、静かに答えた。
「信じています」
神崎の目がわずかに動いた。
玲央は続けた。
「ただ、すべてを預けていいとは、もう思えません」
管理官室に、また沈黙が落ちた。
それは、以前の玲央なら決して口にしなかった言葉だった。
神崎はしばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で言った。
「その考えが、君自身を苦しめることになる」
「かもしれません」
「それでも?」
玲央は、水無瀬の顔を思い出した。
苦しいです。
でも、初めて自分の苦しみだと思えました。
玲央は、ゆっくり頷いた。
「それでも、今はこの問いを手放したくありません」
神崎の視線が、さらに深くなった。
怒りではない。
失望でもない。
そこには、別の感情があるように見えた。
だが玲央には、それが何なのかまだ分からなかった。




