↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/59

9-2:神崎との対話

9-2:神崎との対話


 人生最適化庁の管理官室は、以前と変わらず静かだった。


 白い壁。

 整った机。

 都市全体の安定指数を示すパネル。

 不必要なものが一切ない空間。


 床には埃ひとつなく、空調の音もほとんど聞こえない。

 光は強すぎず、弱すぎず、室内にいる者の感情を乱さないよう均一に調整されている。


 以前の玲央なら、その空間に安心していただろう。


 余計な刺激がない。

 不快な音もない。

 視線を乱すものもない。

 会話に集中できる。


 よく整えられた、理想的な執務空間。


 だが、未登録区域の不揃いな建物や、古い工具の音や、人の声が混じった空気を見てきた玲央には、その静けさが以前よりも冷たく感じられた。


 整いすぎている。


 その言葉が、ふと胸に浮かぶ。


 神崎透真は、窓際に立っていた。


 壁面には、管理都市全体の安定指数が表示されている。


 犯罪予兆抑制率。

 雇用再配置成功率。

 孤独リスク低減率。

 生活破綻予防率。

 自由選択権行使者の再接続状況。


 数字は、今日も安定していた。


 玲央が入室すると、神崎はゆっくり振り返った。


「戻ったか」


「はい」


 玲央は静かに答えた。


 神崎の表情は、大きく変わらなかった。

 怒りを露わにすることもない。

 声を荒げることもない。


 だが、その目は鋭かった。


「命令がなければ、戻らなかったか」


 玲央は少し間を置いた。


 以前なら、すぐに答えたはずだった。


 命令がなくとも、適切な時点で帰還していました。

 職務上の必要範囲内で行動していました。

 管理外区域への長期滞在は想定していません。


 そう答えることはできた。


 だが、それは今の自分の本心ではなかった。


「分かりません」


 玲央は言った。


 神崎の目が細くなる。


「以前の君なら、そうは答えなかった」


「そうかもしれません」


「自由選択区域と未登録区域で、何を見た」


 玲央は、すぐに答えなかった。


 何を見たのか。


 不便な街。

 予定通りに進まない生活。

 失敗した人々。

 戻りたい人。

 それでも残る人。

 莉奈の過去。

 黒木の言葉。

 水無瀬の現在。

 苦しいけれど、自分の人生だという声。


 未登録区域の診療小屋。

 不安定な仕事の掲示板。

 水をめぐる言い争い。

 戻る者と残る者の話し合い。


 それらを短く説明することはできない。


 玲央は静かに言った。


「人が迷っていました」


「それだけか」


「失敗していました。後悔していました。生活も不安定でした」


 神崎は頷いた。


「なら分かったはずだ。自由は人を幸福にするとは限らない」


「はい」


 玲央は素直に認めた。


「自由は、人を苦しめます」


 神崎は椅子に座り、玲央にも座るよう促した。


 玲央は向かいの椅子に腰を下ろす。


 面談室の椅子と同じように、管理官室の椅子も座る者の姿勢を自然に整える角度になっている。

 疲労を減らし、対話の集中度を高めるためだ。


 神崎は端末を操作し、壁面に古い社会記録を表示した。


 ORACLE導入以前の映像だった。


 雑然とした街。

 人であふれる駅。

 疲れ切った表情で歩く人々。

 画面は次々に切り替わる。


 就職に失敗した若者。

 夢を追い、借金を抱えた人。

 孤立した高齢者。

 過労で倒れた労働者。

 家庭内の衝突。

 貧困。

 精神的な追い詰め。

 そして、自己責任という言葉に押し潰されていく人々。


「かつて人間は、自由に選べる社会を理想だと考えた」


 神崎の声は静かだった。


「だが、その自由は、すべての人間にとって祝福だったわけではない。選択肢が増えれば、人は迷う。迷えば不安になる。失敗すれば後悔する。そして社会は、その失敗を本人の責任だと言った」


 玲央は画面を見つめていた。


 過去の映像は、研修で見たものと似ていた。


 だが、今は以前と違う見え方をしていた。


 かつての人々は、自由に傷ついていた。

 それは確かに事実なのだろう。


 だが、その傷の中にも、自分で選んだ痛みがあったのかもしれない。


 そう思う自分がいることに、玲央は気づいていた。


 神崎は続ける。


「どの学校へ行くか。どの仕事を選ぶか。誰と結婚するか。どこに住むか。夢を追うか、安定を取るか。人々は、何度も人生の分岐点に立たされた。そして選択を間違えれば、自分を責め続けた」


 画面には、過去の相談記録が映る。


 自分で選んだ道なのに、どうしてこんなに苦しいのか。


 もっと別の選択をしていれば。


 失敗したのは、自分が弱かったからなのか。


 誰かが語る声。

 震える手。

 疲れた顔。

 画面の中の人々は、助けを求めていた。


 神崎は言った。


「自由は、人に可能性を与える。同時に、自責も与える。自分で選んだのだから、苦しみも自分のせいだと思い込む」


 玲央は、水無瀬の言葉を思い出した。


 苦しいです。

 でも、初めて自分の苦しみだと思えました。


 水無瀬にとって、それは救いだった。


 しかし神崎にとっては、おそらく危険に見えるのだろう。


 自分の苦しみだと思うこと。


 それは、自分の人生を引き受ける感覚であると同時に、自分を責め続ける危険にもつながる。


 その両方がある。


「ORACLEは、それを防ぐためにある」


 神崎は壁の映像を消した。


 管理官室の白い壁が戻る。


「選択の苦しみを減らす。失敗を予測する。孤独を早期に検知する。破綻する前に支援する。人間が自分を責めて壊れてしまう前に、別の道を示す」


 神崎は玲央を見た。


「それは支配か?」


 玲央は答えられなかった。


 以前なら、迷わず「いいえ」と答えただろう。


 それは支配ではない。

 支援です。

 人間を守るための仕組みです。


 そう言えた。


 今も、その答えは間違っていないと思う。


 ORACLEは多くの人を救っている。

 自由に疲れた人を支えている。

 失敗の前に手を差し伸べている。

 生活破綻を防ぎ、孤独を減らし、無数の傷を小さくしている。


 それは支配という言葉だけでは語れない。


 だが、支援という言葉だけでも語りきれない。


 神崎は続けた。


「君が見てきた未登録区域には、自分で選んだと語る者たちがいるだろう。だが、その陰で、選びきれずに壊れる者もいる。失敗を抱えきれず、戻る力さえ失う者もいる」


「見ました」


「なら、なぜまだ迷う」


 玲央は顔を上げた。


「自由が危険だと分かったからです」


 神崎の眉がわずかに動いた。


 玲央は続けた。


「危険だと分かったからこそ、考えています。危険なものをすべて取り上げれば、人は本当に救われるのかと」


 管理官室に沈黙が落ちた。


 神崎の目に、初めてわずかな鋭さが宿った。


「それは、水無瀬蒼の影響か」


「水無瀬さんだけではありません」


 玲央は答えた。


「自由選択区域で、管理社会へ戻りたい人に会いました。自由は重すぎると言っていました。未登録区域でも、再接続を選ぶ人たちを見ました。私はその人たちを否定できません」


「当然だ」


 神崎は短く言った。


「だからORACLEが必要なのだ」


「はい」


 玲央は頷いた。


「ORACLEは必要です。その考えは変わっていません」


 神崎は、少しだけ目を細めた。


 その答えは予想外だったのかもしれない。


 玲央は続けた。


「でも、ORACLEが必要であることと、人が自分で選ぶ余地を失っていいことは、同じではありません」


 神崎は沈黙した。


「未登録区域は危険でした。医療も不十分で、仕事も安定せず、人間関係も衝突していました。あそこを理想だとは思いません。誰にでも勧められる場所ではありません」


 玲央は、神崎の目を見た。


「それでも、そこには自分で選ぼうとしている人たちがいました。戻ることを選ぶ人も、残ることを選ぶ人もいました。その選択は、幸福指数だけでは測れないものに見えました」


「幸福指数だけでは測れない」


 神崎は、玲央の言葉を繰り返した。


「君は今、非常に危うい表現をしている」


「分かっています」


「測れないものを重視し始めると、人は判断を誤る。感情、直感、衝動、自尊心。そういった不安定なものに引きずられて、人生を壊す」


「それも分かります」


「分かっていない」


 神崎の声が少し低くなった。


「君は、外側で見た一部の人間に感情移入している。彼らが語る言葉は魅力的だ。自分の人生、自分の苦しみ、自分の選択。だが、その言葉に酔ってはいけない」


 玲央は、何も言わなかった。


 神崎は続ける。


「人間は、自分の苦しみに意味を与えたがる。失敗にも、後悔にも、傷にも意味があったと思いたがる。そうしなければ耐えられないからだ」


 その言葉は、玲央の胸に刺さった。


 水無瀬の言葉も、莉奈の言葉も、黒木の言葉も、苦しみに意味を与えるためのものなのか。


 そうかもしれない。


 だが、それで終わらせていいのか。


「意味を与えることは、間違いなのでしょうか」


 玲央は尋ねた。


「苦しみに意味を与えすぎると、人は苦しみから離れられなくなる」


 神崎は即座に答えた。


「自分で選んだ苦しみだから耐えなければならない。自分の失敗だから受け入れなければならない。そうして、助けを求めることが遅れる」


 玲央は、三枝を思い出した。


 自由は重すぎました。


 戻りたいと語った女性。


 神崎の言う危険は、確かにある。


「支援は、人間が苦しみを美化しないためにも必要だ」


 神崎は言った。


「自分だけで背負わなくていいと示すために、ORACLEがある」


 玲央は、ゆっくり息を吸った。


「それでも」


 神崎の視線が鋭くなる。


「それでも、苦しみをすぐに処理することで、自分が何に苦しんでいるのか分からなくなる人もいます」


 水無瀬のメモが、玲央の中によみがえる。


 ORACLEは、僕が苦しまないようにしてくれる。

 でも、苦しまないように整えられるたびに、僕は自分が何に苦しんでいたのか分からなくなる。


 玲央は言った。


「苦しみを放置すべきだとは思いません。支援は必要です。ただ、すべての苦しみを同じように異常として扱えば、人は自分の望みの輪郭まで見失うことがあります」


 神崎は何も言わなかった。


 玲央は続けた。


「水無瀬さんは、不幸ではありませんでした。幸福指数も安定していました。でも、生きている感じがしないと言いました。あの苦しみは、数値上では危険域に入っていませんでした」


「だから危険なのだ」


 神崎は静かに言った。


「明確な危機ではないからこそ、本人はそれを過大に意味づける。安定した生活の中にある小さな違和感を、人生全体の問題だと錯覚する」


「本当に錯覚でしょうか」


 玲央の声は、自分でも驚くほど静かだった。


 神崎は玲央を見る。


「何?」


「問題がないのに苦しい。幸福指数は安定しているのに、自分の人生だと思えない。それを錯覚として処理していいのでしょうか」


「処理ではない。支援だ」


「では、その支援を受けるかどうかを、本人が選ぶ余地はどこにありますか」


 神崎の表情が硬くなった。


 玲央は、自分が踏み込んでいることを理解していた。


 これは単なる業務報告ではない。


 神崎の信じてきたものに触れている。


 それでも、言葉を止めることはできなかった。


「ORACLEの推奨に従うことは、制度上は強制ではありません。でも、推奨から外れれば支援は減ります。自由選択権はありますが、その代償は大きい。多くの人は、自由を選ばないのではなく、選べないのではありませんか」


 神崎は沈黙した。


 室内の空気が、さらに冷たくなったように感じられた。


「君は、自由選択権の制度そのものに疑義を呈しているのか」


「疑義というより、問いです」


「同じことだ」


 神崎の声には、抑えた硬さがあった。


「その問いは、社会の基盤に関わる。慎重に扱え」


「はい」


 玲央は頷いた。


「だからこそ、考える必要があると思います」


 神崎は、しばらく玲央を見つめていた。


 かつてなら、その視線だけで玲央は言葉を引っ込めただろう。


 だが今は、引っ込められなかった。


 神崎の言葉は正しい。


 自由は危険だ。

 人は選択に苦しむ。

 自己責任は人を壊す。

 ORACLEは必要だ。


 そのすべてを認めてもなお、玲央の中には問いが残っている。


 危険だからといって、すべての選択を先回りしてよいのか。


 苦しみを減らすために、人が自分の苦しみを知る機会まで奪ってよいのか。


 間違えない人生は、本当にその人の人生と言えるのか。


 神崎は、ゆっくりと息を吐いた。


「瀬川」


「はい」


「君は今、非常に不安定な状態にある」


「自覚しています」


「ならば、まず評価を受けろ。行動報告を提出し、心理評価を受ける。それまでは水無瀬蒼の件から外れる」


 玲央は、少しだけ息を止めた。


 予想していた判断だった。


 それでも、胸が重くなる。


「承知しました」


 玲央は答えた。


 職務命令には従う。


 だが、それは問いを手放すことではない。


 神崎は端末に何かを入力しながら言った。


「君が見たものは、無意味ではない。だが、君の解釈は偏っている可能性がある」


「分かっています」


「では、客観評価を受けろ」


「はい」


 玲央は頷いた。


 神崎は入力を止め、玲央を見た。


「最後にひとつ聞く」


「はい」


「君は、ORACLEを信じられなくなったのか」


 玲央は、すぐには答えなかった。


 ORACLEを信じられなくなったのか。


 いいえ、と言うことはできた。


 ORACLEは必要です。

 人を救っています。

 私はそれを否定しません。


 それは事実だ。


 だが、それだけではない。


 玲央は、静かに答えた。


「信じています」


 神崎の目がわずかに動いた。


 玲央は続けた。


「ただ、すべてを預けていいとは、もう思えません」


 管理官室に、また沈黙が落ちた。


 それは、以前の玲央なら決して口にしなかった言葉だった。


 神崎はしばらく何も言わなかった。


 やがて、低い声で言った。


「その考えが、君自身を苦しめることになる」


「かもしれません」


「それでも?」


 玲央は、水無瀬の顔を思い出した。


 苦しいです。

 でも、初めて自分の苦しみだと思えました。


 玲央は、ゆっくり頷いた。


「それでも、今はこの問いを手放したくありません」


 神崎の視線が、さらに深くなった。


 怒りではない。


 失望でもない。


 そこには、別の感情があるように見えた。


 だが玲央には、それが何なのかまだ分からなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。