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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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第9章:人間は自由に耐えられるのか 9-1:管理社会への帰還命令

9-1:管理社会への帰還命令う


 未登録区域で迎えた朝は、玲央にとって奇妙な静けさを持っていた。


 管理都市の朝なら、起床時刻はORACLEが最適に調整してくれる。


 睡眠効率。

 体温。

 脳波。

 心拍数。

 前日の疲労。

 当日の業務負荷。


 それらを解析し、最も負荷の少ない瞬間に照明が明るくなる。

 突然の音で目を覚ますこともない。

 不快な寒さや暑さを感じることもない。

 起きた瞬間には、その日の予定も、朝食も、服装も、通勤ルートも、すでに整えられている。


 だが、この朝、玲央を起こしたのは人の声だった。


 外で誰かが水を運ぶ音。

 容器がぶつかる低い音。

 遠くで子どもが笑う声。

 古い扉がきしむ音。

 誰かが朝の挨拶を交わす声。

 そして、窓の隙間から差し込む少し冷たい光。


 玲央は、しばらく天井を見つめていた。


 泊めてもらった小さな部屋の天井には、木目と古い染みがあった。

 管理都市の居住空間のように、視覚刺激が調整されているわけではない。

 寝具も硬く、身体の状態に合わせて変化することはなかった。


 眠りは深くなかった。


 だが、不思議と、目覚めた瞬間に強い不快感はなかった。


 端末は枕元に置かれている。


 画面は暗い。

 ORACLEの通知は届いていない。


 いや、届いていないのではない。

 接続が不安定なため、通知が遅れているだけだ。


 その沈黙が、玲央には不思議だった。


 不安でもあり、少しだけ穏やかでもある。


 いつもなら、起きた瞬間に自分の状態が数値として示される。


 睡眠効率。

 感情安定指数。

 推奨行動。

 今日避けるべき会話量。

 朝食の内容。


 だが今は、それがない。


 自分がどれくらい眠れたのかも、今日の体調がどの程度なのかも、ORACLEはまだ教えてくれない。


 玲央は、自分の身体に意識を向けた。


 少し疲れている。

 肩が重い。

 頭の奥に眠気が残っている。

 けれど、動けないほどではない。


 自分で感じるしかない朝。


 それは不慣れだったが、完全に悪いものではなかった。


 玲央が起き上がると、端末が急に震えた。


 短く、一度では終わらない振動だった。


 画面に、いくつもの通知が遅れて表示される。


 通信接続が一時回復しました。

 瀬川玲央さんの現在位置を確認しました。

 未登録区域への立ち入りを検知。

 職務適合スコアに変動があります。

 至急、管理都市へ帰還してください。


 玲央は画面を見つめた。


 通知は続く。


 人生最適化庁・適合支援局より帰還命令。

 発信者:神崎透真 管理官。

 理由:職務範囲外行動、管理外区域滞在、心理的偏りの可能性。


 帰還命令。


 玲央は、その文字をしばらく見つめた。


 忠告ではない。


 今度は、明確な命令だった。


 胸の奥が重くなる。


 昨日までは、どこかで分かっていた。

 自分が境界を越えつつあることを。


 自由選択区域への訪問だけなら、まだ説明できた。

 担当市民の安全確認。

 支援情報の収集。

 自由選択権行使後の追跡。


 ORACLEの推奨には反していても、職務上の理由を示すことはできた。


 だが、未登録区域まで来たことで、その説明はほとんど成り立たなくなった。


 玲央の行動は、職務の範囲を超えている。


 水無瀬の安全確認という目的はあった。

 だが、それだけなら、追跡支援班へ引き継ぐこともできた。

 自由選択区域で情報を集めた時点で、管理都市へ戻るべきだった。


 それでも、玲央はここまで来た。


 自分で決めて。


 端末には、さらに詳細な評価が表示された。


 直近七十二時間における変化。


 一、ORACLE推奨外行動の増加。

 二、管理外区域滞在時間の延長。

 三、自由選択権行使者への心理的同調。

 四、自己選択に関する認知的揺らぎの拡大。

 五、職務中立性の低下可能性。


 玲央は、小さく息を吐いた。


 ORACLEはやはり見ていた。


 自分が通知を閉じたこと。

 自由選択区域へ向かったこと。

 未登録区域へ入ったこと。

 水無瀬と話したこと。

 自分の過去を思い返したこと。

 管理社会に対する疑問を強めていること。


 すべてが数値化され、分類され、評価されている。


 その正確さに、以前なら安心しただろう。


 自分では分からない変化をORACLEが捉えてくれる。

 危険な偏りがあれば知らせてくれる。

 感情が乱れているなら、整える方法を示してくれる。


 それは支援だった。


 だが今は、少しだけ息苦しかった。


 自分の中で生まれた問いまでも、異常や偏りとして整理されていくように感じた。


 端末には、神崎からの文章も表示されていた。


 瀬川職員。

 直ちに管理都市へ帰還すること。

 帰還後、行動報告および心理評価を実施する。

 水無瀬蒼に関する接触記録は、追跡支援班へ提出。

 以後、単独での管理外区域接触を禁ずる。


 簡潔で、無駄のない文面だった。


 いつもの神崎らしい。


 玲央は端末を閉じた。


 外へ出ると、朝の空気が冷たかった。


 未登録区域の集落は、すでに動き始めていた。


 誰かが水を運び、誰かが畑に向かい、誰かが古い屋根の上で作業を始めている。

 子どもたちは大人の邪魔にならないように走り回り、集会所の前では数人が今日の仕事について話していた。


 管理都市の朝とは違う。


 効率的ではない。

 整っていない。

 予定通りでもない。


 けれど、そこには確かに朝の生活があった。


 少し離れた場所で、莉奈と水無瀬が話していた。


 莉奈は玲央の表情を見て、すぐに察したようだった。


「帰れって?」


 玲央は頷いた。


「命令が出ました」


 水無瀬の顔に、申し訳なさが浮かんだ。


「僕のせいですね」


「違います」


 玲央は即座に言った。


「ここへ来ると決めたのは、私です」


 その言葉を口にした瞬間、玲央は自分でも少し驚いた。


 以前なら、こうは言わなかったかもしれない。


 職務上必要だった。

 状況がそうさせた。

 担当者として避けられなかった。

 水無瀬の安全確認が優先された。


 そんなふうに説明したはずだ。


 自分の判断ではなく、役割や状況に理由を置いただろう。


 だが今は違った。


 自分で来た。


 それは、玲央にとって小さくない事実だった。


 水無瀬は、静かに玲央を見た。


 その表情に、少しだけ安心したような色が浮かんだ。


「そう言えるようになったんですね」


 玲央は答えられなかった。


 莉奈は腕を組み、集落の向こうに見える白い都市の方角を見た。


「戻るんだね」


「はい」


「怒られるよ」


「分かっています」


「たぶん、いろいろ評価される。感情の偏りとか、職務中立性とか」


「すでに表示されています」


「だろうね」


 莉奈は少し苦笑した。


「考えが変わるかもしれないよ。向こうに戻れば、またORACLEの声が近くなる。支援も戻る。ここで感じたことも、ちゃんと名前をつけられて、処理されるかもしれない」


 玲央は少しだけ黙った。


 それは、玲央自身が恐れていたことだった。


 管理都市へ戻れば、生活は整う。

 睡眠不足は改善される。

 感情負荷は評価される。

 未登録区域での体験は、心理的揺らぎとして整理される。

 水無瀬への共感も、職務上の偏りとして分類されるかもしれない。


 楽になる。


 きっと、今よりずっと楽になる。


 だが、その楽さの中で、自分の中に生まれた問いまで薄れてしまうのではないか。


 玲央はそれが怖かった。


 それでも、一度戻らなければならない。


 自分の仕事がある。

 神崎と向き合う必要がある。

 見たものを報告しなければならない。

 そして、管理都市の中でこそ考えなければならないことがある。


「それでも、一度戻ります」


 玲央は言った。


 水無瀬は玲央を見た。


「瀬川さんは、何を選びたいのか、少し分かりましたか」


 玲央は、すぐには答えられなかった。


 何を選びたいのか。


 その問いへの答えは、まだない。


 管理都市に戻る。

 人生最適化庁で働く。

 ORACLEの支援をどう考えるのか。

 自由選択権をどう捉えるのか。

 自分自身の人生をどうするのか。


 どれも、簡単には決められない。


 だが、以前のように完全に沈黙することもなかった。


「まだ分かりません」


 玲央は言った。


「でも、分からないまま戻ります。分からないことを、消さないために」


 水無瀬は小さく頷いた。


 莉奈は少しだけ笑った。


「管理都市の人っぽくない答えになってきたね」


「そうでしょうか」


「うん。前なら、そんな曖昧なこと言わなかったと思う」


 玲央は、自分でもそう思った。


 以前なら、分からないという状態をそのまま口にすることは避けていた。

 補足し、整理し、分類し、何らかの結論へ向けようとした。


 だが今は、分からないことを分からないまま持ち帰ろうとしている。


 それは、玲央にとって初めてに近いことだった。


 水無瀬は言った。


「僕も、まだ分かりません。でも、ここで考え続けます。戻るか、残るか。それを自分で決められるまで」


「はい」


 玲央は頷いた。


「あなたの選択を、私は止めません」


 水無瀬は少し驚いたように玲央を見た。


 玲央は続ける。


「ただ、生きていてください。戻るとしても、残るとしても、それを選べる状態でいてください」


 水無瀬は、しばらく黙っていた。


 そして、深く頷いた。


「分かりました」


 それは約束と呼ぶには頼りない言葉だった。


 だが、今の水無瀬が言える、誠実な答えなのだろうと玲央は思った。


 莉奈が、軽く肩をすくめた。


「私は途中まで送るよ。自由選択区域までは一緒に戻る」


「あなたも戻るのですか」


「未登録区域は、私にも長居する場所じゃないからね」


 莉奈はそう言って、少しだけ笑った。


「それに、瀬川さんが帰り道で迷ったら困るでしょ」


「地図はあります」


「その地図を信じすぎるから心配なんだよ」


 そのやり取りに、水無瀬が小さく笑った。


 玲央も、ほんの少しだけ笑った。


 管理都市へ戻る前の朝に、自分が笑っている。


 そのことが、玲央には少し不思議だった。


 玲央は、遠くに見える白い都市を見た。


 そこには、自分の生活がある。


 自分の仕事がある。

 自分の部屋がある。

 ORACLEの声がある。

 そして、自分が向き合わなければならない神崎がいる。


 玲央は端末を手に取り、帰還ルートを確認した。


 通信は不安定ながらも、ORACLEはすぐに最も安全なルートを表示した。


 未登録区域から自由選択区域へ戻る道。

 自由選択区域から管理都市西端連絡駅へ向かう経路。

 乗るべき列車。

 到着予定時刻。

 帰還後に受けるべき健康確認。

 心理評価の予約候補。


 その案内は正確で、分かりやすく、迷いがなかった。


 玲央は思った。


 自分は、今からあの迷いのない世界へ戻る。


 だが、もう以前のようには戻れない。


 ORACLEの案内に従って歩くことはできる。


 管理都市の支援を受けることもできる。


 職員として報告書を書くこともできる。


 けれど、自分の中に生まれた問いを、もうなかったことにはできない。


 ここから先は、別の意味で難しい道になる。


 未登録区域の荒れた道よりも、もしかすると難しいかもしれない。


 整った場所で、整えられすぎないように生きること。


 支援を受けながらも、自分で選ぶ余地を手放さないこと。


 玲央は端末を握りしめた。


 帰還命令は、まだ画面の上部に残っている。


 従う。


 だが、ただ従うのではない。


 玲央は、自分の意思で戻る。


 その違いを、今の玲央ははっきりと感じていた。


 未登録区域の朝の光の中で、玲央は水無瀬に向き直った。


「水無瀬さん」


「はい」


「また、会いに来ます」


 水無瀬は、少しだけ目を見開いた。


「非推奨になりますよ」


「おそらく」


「怒られますよ」


「その可能性もあります」


「それでも?」


 玲央は、少しだけ考えた。


 そして、静かに答えた。


「まだ、話したいことがあります」


 その言葉は、玲央自身の中から出てきた。


 水無瀬は、ゆっくり頷いた。


「待っています」


 莉奈が歩き出す。


 玲央も、その後に続いた。


 未登録区域の小さな灯りは、朝の光の中で目立たなくなっている。

 けれど、消えたわけではない。


 玲央は一度だけ振り返った。


 水無瀬は、修繕小屋の前に立っていた。


 まだ答えを持たないまま。

 まだ迷いの中にいるまま。

 それでも、自分の選択のそばに立っている。


 玲央は小さく頭を下げた。


 そして、管理都市への道を歩き始めた。


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