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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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8-3:苦しいけれど、僕の人生です

8-3:苦しいけれど、僕の人生です


 修繕小屋の外に出ると、夕方の光が未登録区域の道を赤く染めていた。


 管理都市の夕暮れは、照明によって滑らかに調整される。


 明るさの変化はゆるやかで、人の感情に過剰な影響を与えないよう設計されている。

 夕方特有の寂しさや不安が強くなりすぎないよう、街の照明は少し早めに灯る。

 帰宅する人々の動線も整えられ、夜へ向かう時間は静かに、穏やかに移行していく。


 だが、ここでは違った。


 光は急に傾き、影は濃く伸びる。


 壊れかけた屋根も、雑草の生えた道も、疲れた人々の表情も、すべてがそのまま夕方の色に染まっていた。


 誰も光を調整しない。

 誰も影を薄めない。

 誰も、夕暮れが人の心に落とす重さを和らげない。


 世界は、そのままそこにあった。


 玲央と水無瀬は、小屋のそばにある低い石段に腰を下ろした。


 石段は冷たく、表面には細かなひびが入っている。

 隙間から、小さな草が生えていた。


 莉奈は少し離れた場所で、集落の人と話している。

 何かを尋ねられているらしく、身振りを交えながら答えていた。

 その横では、子どもが古い車輪を転がして遊んでいる。


 しばらく、二人は黙っていた。


 沈黙は、面談室のものとは違っていた。


 あの部屋の沈黙は、空調音と人工の空の映像に包まれていた。

 言葉が途切れると、すぐに何かが不自然に感じられた。

 答えを求められているような、次の発言を探さなければならないような沈黙だった。


 だが、ここでの沈黙には、周囲の生活音が混じっていた。


 遠くで木箱を運ぶ音。

 誰かが工具を置く音。

 夕食の準備をしているのか、食器が触れ合う音。

 人の話し声。

 風に揺れる古い板の音。


 沈黙の中にも、誰かの生活が流れていた。


 先に口を開いたのは、水無瀬だった。


「瀬川さんは、どうしてここまで来たんですか」


 玲央は答えに迷った。


「担当職員として、あなたの安全を確認する必要がありました」


 それは事実だった。


 嘘ではない。


 玲央は水無瀬の担当職員だった。

 自由選択権行使後に消息を絶ち、未登録区域へ向かった市民の安全を確認する。

 それは、職務上の理由として成立する。


 だが、それだけではない。


 それだけなら、自由選択区域で得た情報を追跡支援班へ渡せばよかった。

 神崎の忠告に従い、管理都市へ戻ればよかった。

 ORACLEの推奨に従うなら、それが最適だった。


 玲央は少し間を置いてから続けた。


「それと……あなたが何を見ようとしているのか、知りたかった」


 水無瀬は静かに玲央を見た。


「見つかりましたか」


 玲央は首を横に振った。


「まだ分かりません」


 水無瀬は小さく笑った。


「僕もです」


 その笑みは、面談室で見た寂しげな笑みとは違っていた。


 弱く、疲れている。

 けれど、どこか自分の弱さを認めている笑みだった。


 あのときの水無瀬は、整った未来を前にして、自分の居場所を失っていた。

 今の水無瀬は、何も見つけていない。

 だが、見つけていない自分を、そのままそこに置いているように見えた。


 玲央は尋ねた。


「水無瀬さん。あなたは今、幸せですか」


 水無瀬はすぐには答えなかった。


 遠くで、誰かが木箱を運ぶ音がする。

 子どもが笑う声。

 どこかの家から漏れる食器の音。

 未登録区域の夕方は、静かなようでいて、生活の音に満ちていた。


 やがて、水無瀬は言った。


「幸せではないと思います」


 玲央は息を呑んだ。


 その答えは、予想していたはずだった。


 水無瀬の姿を見れば分かる。

 疲れている。

 痩せている。

 手は傷つき、服は汚れ、生活は安定していない。


 それでも、本人の口から「幸せではない」と聞くと、胸の奥が少し冷たくなった。


「少なくとも、ORACLEの基準なら、僕の幸福指数はかなり下がっているはずです。睡眠は不安定ですし、食事も偏っています。収入もなく、生活基盤もありません。将来の見通しもありません」


 水無瀬は淡々と、自分の不安定さを並べた。


「管理都市にいた頃の方が、ずっと安全でした。生活も整っていました。仕事もありました。誰かに迷惑をかけることも少なかった。あのまま行けば、きっと大きな問題のない人生だったと思います」


「では、なぜ」


 玲央の声は小さくなった。


「なぜ、戻らないのですか」


 水無瀬は、自分の手を見た。


 傷のある手。


 修理に失敗し、物を運び、慣れない生活の中で汚れた手。

 管理都市にいた頃なら、こんな手になる前に、別の役割を提案されていたかもしれない。

 不向きな作業は避け、適性に合った仕事を選び、怪我や失敗を防いでいたはずだった。


「苦しいんです」


 水無瀬は言った。


「ここに来ても、苦しい。むしろ、前より苦しいかもしれません」


 玲央は黙って聞いた。


「でも、その苦しさが、初めて自分のものだと思えたんです」


 その言葉が、玲央の胸を強く打った。


 水無瀬は続ける。


「管理都市にいた頃、僕は不幸ではありませんでした。むしろ、幸福だったのかもしれません。けれど、苦しみも悲しみも、不安も、全部すぐに整えられてしまった。自分が何に苦しんでいるのか分からないまま、毎日が正常に戻されていく」


 玲央は、水無瀬の私的メモを思い出した。


 僕は不幸ではない。

 だから、誰にも助けを求められない。

 でも、僕は生きている感じがしない。


 水無瀬の声は、少し震えていた。


「ここでは、誰も僕の苦しみをすぐに消してくれません。失敗すれば叱られるし、迷っても答えは出ないし、誰かを頼れば断られることもあります」


 彼は顔を上げた。


「でも、苦しい理由が分かるんです。僕が選んだから。僕がここに来たから。僕が間違えたから」


 玲央は何も言えなかった。


 水無瀬は静かに言った。


「苦しいです。でも、初めて自分の苦しみだと思えました」


 その一文は、玲央の中の何かを大きく揺さぶった。


 これまで玲央は、苦しみとは減らすべきものだと信じていた。


 不安も。

 後悔も。

 失敗も。

 悲しみも。


 できるかぎり避けるべきものだと。


 社会が支え、ORACLEが先回りし、人が壊れる前に手を差し伸べる。

 それが正しいと信じていた。


 そして今でも、その正しさを否定できない。


 耐えられない苦しみはある。

 支援がなければ崩れてしまう人もいる。

 選択の重さに押し潰される人もいる。


 三枝紗季の顔が浮かぶ。


 自由は重すぎました。


 彼女の言葉もまた、真実だった。


 だが、水無瀬は苦しみを求めていたわけではない。


 苦しみたいわけではない。


 ただ、自分の人生から生まれた苦しみを、自分のものとして感じたかったのだ。


「瀬川さん」


 水無瀬は言った。


「管理都市にいると、苦しみが悪いものとして扱われます。もちろん、本当に危険な苦しみもあります。助けてもらわなければならない苦しみもあります。でも、僕の中にあった苦しみは、もっと小さくて、曖昧で、名前のないものでした」


 玲央は静かに聞いていた。


「それなのに、何かが苦しくなりそうになるたびに、ORACLEが整えてくれる。睡眠を直す。食事を直す。人間関係を調整する。考えすぎないように通知する。落ち着いたころには、確かに楽になっている。でも、何が苦しかったのかは分からなくなる」


 水無瀬は、夕暮れの道を見た。


「楽になるたびに、自分が薄くなっていく気がしました」


 玲央は息を詰めた。


 薄くなる。


 それは、自分が昨夜感じたことでもあった。


 選ばなかった記憶。

 描かなかった絵。

 話し続けなかった人。

 行かなかった海。


 それらは大きな悲劇ではない。

 だが、確かに自分の人生を少し薄くしていた。


 水無瀬は続けた。


「ここに来て、僕は役に立ちません。失敗ばかりです。今日も照明を直せませんでした。昨日は水を運ぶ場所を間違えました。一昨日は食材の仕分けを間違えて、集落の人に呆れられました」


 彼は少し笑った。


「管理都市にいた頃の僕なら、こんな自分を見ることはなかったと思います。向いていないことは、そもそも選ばないようにしていたから」


「それは、悪いことではありません」


 玲央は思わず言った。


「向いていないことを避けることで、生活は安定します。失敗も減ります」


「はい」


 水無瀬は頷いた。


「それは本当にそうです。だから、僕も戻るべきなのかもしれません」


 玲央は、胸の奥が小さく揺れるのを感じた。


「でも」


 水無瀬は、自分の手を見た。


「向いていないことをして失敗しているとき、僕は初めて、自分がここにいる感じがするんです」


 その言葉は、静かだった。


 だが玲央には、強く響いた。


 自分がここにいる感じ。


 それは、幸福安定指数とは違う。


 快適さとも違う。

 安全とも違う。

 成功とも違う。


 むしろ、不快で、不安定で、うまくいかない状況の中で生まれるものだった。


 水無瀬は言った。


「僕はずっと、失敗しないように生きてきました。間違えないように。迷惑をかけないように。後悔しないように。そうしていれば、人生は安定する。でも、失敗しない人生の中で、僕は自分が何を望んでいるのか分からなくなりました」


 玲央は、俯いた。


 自分にも、同じものがある。


 失敗しないように。

 間違えないように。

 感情を乱さないように。

 誰かを傷つけないように。

 自分も傷つかないように。


 そうして、何を望んでいたのか分からなくなった。


「ここへ来たら、すぐに自由になれると思っていたわけではありません」


 水無瀬は続けた。


「でも、少なくとも、自分で間違える場所に来たかったんです」


「それで、満たされましたか」


 玲央は尋ねた。


 水無瀬は少し考えた。


「満たされた、とは違います」


 彼は、苦笑した。


「むしろ、空っぽなのは前よりよく分かります。ORACLEの声が遠い分、自分の中に何もないことがはっきり聞こえる」


「それは、つらいですね」


「はい」


 水無瀬は正直に頷いた。


「でも、その空っぽも、今は僕のものです」


 玲央は、水無瀬を見つめた。


 面談室で向かい合ったとき、水無瀬は自分の人生を誰かに奪われたように見えていた。


 今の水無瀬は、何かを手に入れたわけではない。

 成功もしていない。

 幸福でもない。


 ただ、自分の空白を自分のものとして見つめ始めている。


 それは救いなのか、苦しみなのか、玲央にはまだ分からない。


 だが、そこには確かに、水無瀬自身の輪郭があった。


「瀬川さんは」


 水無瀬がふいに言った。


「苦しいですか」


 玲央は、すぐには答えられなかった。


 その問いは、水無瀬の安否確認とは違う。

 職員と市民の会話でもない。

 ただ、一人の人間から、一人の人間へ向けられた問いだった。


 玲央は、自分の胸に意識を向けた。


 苦しい。


 その言葉は、確かに当てはまった。


 水無瀬の問いに揺さぶられ、自分の人生を振り返り、選ばなかった記憶を思い出した。

 ORACLEへの信頼は崩れきってはいない。

 だが、以前のようには戻れない。


 苦しい。


 けれど、その苦しみをすぐに消したくないと思っている。


 玲央は、ゆっくり答えた。


「苦しいです」


 水無瀬は、静かに頷いた。


「ORACLEに相談すれば、楽になるかもしれません」


「そうですね」


「でも、相談していない」


「はい」


 玲央は、自分の端末を思い出した。

 伏せた画面。

 閉じた通知。

 受け取らなかった呼吸調整。


「まだ、この苦しさを分かりたくないのだと思います。いや……正確には、すぐに分かったことにしたくない」


 水無瀬は、少しだけ目を細めた。


「分かったことにしたくない」


「はい」


 玲央は言葉を探した。


「私は、これまで分からないことを早く整理してきました。名前をつけ、分類し、対処法を探し、安定させる。それが正しいと思っていました」


「今は?」


「今も、それが必要なときはあると思います」


 玲央ははっきり言った。


「でも、すべてをすぐに整理してしまうと、何が自分の中から出てきたものなのか分からなくなるのかもしれません」


 水無瀬は、何も言わなかった。


 夕方の光が、少しずつ弱くなっている。


 未登録区域の影が、さらに濃く伸びていく。


 玲央は続けた。


「あなたの言葉を聞いて、少し分かりました。苦しみは、ただ取り除くものではないのかもしれません。少なくとも、すべての苦しみがそうではない」


 水無瀬は、小さく頷いた。


「苦しいですけどね」


「はい」


「できれば、苦しくない方がいい」


「そう思います」


 二人は、少しだけ笑った。


 その笑いは弱く、ぎこちなかった。


 けれど、面談室にはなかった種類の笑いだった。


 正しい答えを確認するための笑いではない。

 不安を和らげるために整えられた笑いでもない。


 苦しさを認めたうえで、そこに二人がいることを確かめるような笑いだった。


 水無瀬は、夕暮れの集落を見た。


「僕は、ここにずっといるかどうか分かりません」


「戻る可能性もあるのですね」


「あります」


 水無瀬は正直に言った。


「明日、怖くなって戻りたいと思うかもしれない。生活が立ち行かなくなって、再接続を申請するかもしれない。ここで何かを見つけるかもしれないし、何も見つけられないかもしれない」


 彼は、自分の手を軽く握った。


「でも、今の僕は、それを自分で決めたいと思っています」


 玲央は、その言葉を聞いて静かに頷いた。


 水無瀬は、まだ答えを持っていない。


 未来も決めていない。

 管理都市を完全に捨てたわけでもない。

 自由を絶対のものとして信じているわけでもない。


 ただ、自分で決めたいと言った。


 その小さな意思が、水無瀬の現在だった。


「瀬川さん」


「はい」


「僕は、自由が何かまだ分かりません」


 水無瀬は、ゆっくりと言った。


「でも、少なくとも僕にとっては、正解を選ぶことではありませんでした」


 玲央は黙って聞いた。


「正解から外れても、自分で引き受けること。間違っても、これは僕の選択だったと言えること。苦しくても、その苦しさを自分のものだと思えること」


 水無瀬は、少しだけ息を吐いた。


「それが、今の僕に分かる自由です」


 玲央の胸が、静かに震えた。


 自由とは、幸福になるための保証ではない。


 むしろ、苦しみを自分のものとして引き受けることなのかもしれない。


 そのことが、玲央には恐ろしくもあり、どこかまぶしくもあった。


 恐ろしいのは、それが人を傷つける可能性を含んでいるからだ。


 まぶしいのは、その中に、人が自分の人生を自分のものにするための確かな光があるように思えたからだ。


 日がさらに傾く。


 集落のあちこちに、小さな灯りがつき始めた。

 管理都市のように均一ではない。

 自由選択区域よりもさらに弱く、不安定な灯りだった。


 それでも、誰かがそこにいることを示す灯りだった。


 水無瀬は立ち上がった。


「照明、もう少しだけ直してみます」


 玲央も立ち上がった。


「手伝えることはありますか」


 水無瀬は驚いたように玲央を見た。


「瀬川さんが?」


「はい」


「失敗するかもしれませんよ」


「その可能性はあります」


 玲央は少しだけ考えてから言った。


「でも、やってみたいです」


 その言葉を口にした瞬間、玲央は自分の胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。


 やってみたい。


 それは、推奨ではない。


 義務でもない。


 最適でもないかもしれない。


 けれど、自分の中から出てきた小さな望みだった。


 水無瀬は、少しだけ笑った。


「じゃあ、一緒に間違えましょうか」


 莉奈が少し離れた場所からこちらを見て、呆れたように笑っていた。


 夕方の光の中で、三人は修繕小屋へ戻る。


 ORACLEは何も言わない。


 正しい手順も、成功率も、危険予測も示されない。


 それでも玲央は、壊れた照明器具の前に立った。


 自分で選んだ小さな失敗の可能性が、目の前にあった。


 不安だった。


 けれどその不安は、玲央のものだった。


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