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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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8-2:水無瀬蒼の現在

8-2:水無瀬蒼の現在


 水無瀬蒼は、未登録区域の奥にある小さな修繕小屋で見つかった。


 そこは、集落の人々が共同で使う作業場のようだった。


 建物は古く、外壁には何度も補修した跡がある。

 入口の戸は少し歪んでいて、開けるときに木が擦れる音がした。

 屋根の一部には色の違う板が継ぎ足され、雨漏りを防ぐためなのか、端には布のようなものが挟み込まれている。


 中には、油と金属と古い木の匂いが満ちていた。


 壁には古い工具が掛けられている。

 使い込まれた机の上には、壊れた生活端末、照明器具、調理機械の部品、用途の分からない小さな金属片が並んでいた。


 整理されているようで、整理されていない。


 だが、放置されているわけではない。

 誰かが使い、直し、また壊し、また直そうとしている場所だった。


 玲央が入口に立つと、奥でしゃがみ込んでいた男が顔を上げた。


 水無瀬蒼だった。


 玲央は、一瞬息を止めた。


 面談室で見たときより、少し痩せていた。


 服は汚れ、袖口には細かな埃がついている。

 髪も整っていない。

 目の下には疲れがあり、手には細かな擦り傷があった。

 指先には、油のような黒い汚れが残っている。


 管理都市にいた頃の水無瀬なら、こんな姿で人前に出ることはなかっただろう。


 身だしなみは整えられ、体調は管理され、生活の乱れは早めに修正される。

 疲労が見える前に、休息が提案される。


 だが今の水無瀬は、明らかに疲れていた。


 それでも、その目は以前とは違っていた。


 面談室では、遠くを見るような目をしていた。


 すべてが整った未来を前にしながら、どこにも自分の居場所を見つけられないような目。

 幸福安定指数の高い人生プランを見つめながら、その中に自分を見つけられない目。


 今の水無瀬は、疲れている。


 迷っている。

 不安もある。

 決して幸せそうには見えない。


 それでも、その目はどこか、目の前の現実を見ていた。


 壊れた照明器具。

 汚れた手。

 うまくいかない作業。

 今ここにある失敗。


 そこから逃げずに見ている目だった。


「……瀬川さん」


 水無瀬は驚いたように立ち上がった。


 手に持っていた部品が、小さな音を立てて机に転がる。


 玲央もまた、すぐには言葉が出なかった。


 ここに来るまで、何度も考えていた。


 会えたら何を言うのか。


 戻るよう説得するのか。

 安全確認をするのか。

 自由選択権の再評価を勧めるのか。

 管理社会への再接続手続きを説明するのか。


 職員としての言葉はいくつもあった。


 だが、実際に水無瀬を前にすると、そのどれもすぐには言えなかった。


 代わりに、玲央は静かに言った。


「無事でよかったです」


 水無瀬は、少しだけ目を伏せた。


「無事、なんでしょうかね」


 その声には、面談室の頃と同じ静けさがあった。

 だが、以前より少しだけ乾いた疲れが混じっていた。


「少なくとも、生きています」


 玲央は言った。


 水無瀬は、小さく笑った。


「それは、そうですね」


 莉奈が一歩前に出て、水無瀬を見た。


「あなたを探してた。かなり心配してたよ、この人」


 水無瀬は玲央を見た。


「すみません。迷惑をかけるつもりはありませんでした」


「迷惑ではありません」


 玲央はすぐに答えた。


 だが、その言葉が正しいのか、自分でも分からなかった。


 水無瀬の行動によって、玲央は確かに揺さぶられた。

 管理都市を離れ、自由選択区域へ行き、未登録区域まで来た。

 職務範囲も、ORACLEの推奨も、神崎の忠告も越えてしまった。


 それを迷惑と呼ぶのか。


 それとも、必要なきっかけと呼ぶのか。


 玲央にはまだ分からなかった。


 水無瀬は苦笑した。


「ここでは、毎日何かしら迷惑をかけます。修理も失敗しますし、道具も壊しますし、昨日は水の運搬を間違えて、集会所の人に叱られました」


 玲央は、小屋の中を見回した。


 水無瀬の手元には、壊れた照明器具がある。

 おそらく修理していたのだろう。

 しかし分解された部品は、うまく整理されているとは言えなかった。

 ねじの大きさも混ざっていて、どの部品がどこに戻るのか、玲央にはすぐには分からない。


 作業は難航しているようだった。


「ここで暮らしているのですか」


「まだ、暮らしていると言えるほどではありません」


 水無瀬は正直に答えた。


「居候です。手伝いをしながら、寝る場所を借りています」


「生活は安定していないのですね」


「まったく」


 水無瀬は少し笑った。


「食事も決まっていません。仕事もありません。昨日覚えたことを今日間違えます。自分がこんなに何もできない人間だったとは思いませんでした」


 その言葉には、自嘲があった。


 だが、完全な絶望ではなかった。


 管理都市での水無瀬は、失敗しにくい人生を送っていた。

 職業適性も高く、生活も安定し、人間関係も大きく乱れていなかった。


 だがここでは、彼は毎日のように間違えている。


 水を運ぶ場所を間違える。

 工具の使い方を間違える。

 修理を失敗する。

 人に叱られる。


 それは幸福とは言いがたい。


 けれど、水無瀬はその失敗を、確かに自分の言葉で語っていた。


「戻るつもりはないのですか」


 玲央は慎重に尋ねた。


 水無瀬は、少し考えてから答えた。


「まだ、分かりません」


 玲央はその言葉に、意外なほど強く反応した。


 まだ分からない。


 管理都市では、分からない状態は長く放置されない。


 不確定要素は整理される。

 判断材料が提示される。

 リスクと利益が比較される。

 選択肢が絞られる。

 最終的には、その人にとって最も望ましい道が示される。


 だが、水無瀬は今、分からないままそこにいる。


 その分からなさを、逃げずに口にしている。


「自由になったら、何かが急に変わると思っていました」


 水無瀬は、壊れた照明器具に視線を落とした。


「でも、何も変わりませんでした。僕は相変わらず迷うし、怖いし、何をしたいのかもよく分からない。ORACLEの声が遠くなった分、自分の中の空っぽがよく聞こえるようになっただけです」


 玲央は黙っていた。


 その言葉は、救いの言葉ではなかった。


 自由選択区域へ行けば、自分らしさが見つかる。

 未登録区域へ行けば、本当の人生が始まる。

 管理から離れれば、すべてが変わる。


 そんな単純な話ではなかった。


 水無瀬は、ここへ来てもまだ迷っている。


 空白は消えていない。


 むしろ、ORACLEの声が遠くなったことで、その空白ははっきり聞こえるようになった。


「それでも」


 水無瀬は続けた。


「ここで失敗しているときだけ、少しだけ思うんです。これは僕が選んだ失敗なんだって」


 玲央の胸が静かに揺れた。


 水無瀬は、幸せを見つけたわけではない。


 自由になって、明るく解放されたわけでもない。


 むしろ、疲れている。

 迷っている。

 生活は不安定で、支援も薄い。

 管理都市にいた頃より、明らかに困難な状況にいる。


 それでも、初めて自分の失敗を手にしていた。


 水無瀬は、汚れた手を見つめた。


「面談室で、瀬川さんに言いましたよね。これは誰の人生なんでしょうかって」


「覚えています」


「失礼なことを聞いたと思っています」


「いいえ」


 玲央は静かに首を振った。


「あの問いがあったから、私はここに来ました」


 水無瀬は驚いたように玲央を見た。


 玲央自身も、その言葉が自然に出たことに少し驚いた。


 水無瀬は、しばらく黙っていた。


 そして、小さく息を吐く。


「僕は、ORACLEが嫌いだったわけじゃないんです」


「分かります」


 玲央は答えた。


 水無瀬が目を上げる。


「本当に?」


「はい。記録を読みました。あなたがORACLEを憎んでいたわけではないことは、少し分かったつもりです」


 水無瀬は、苦笑した。


「恥ずかしいですね。あれを読まれたんですか」


「許可範囲内のものだけです」


「そういうところ、瀬川さんらしいです」


 その言い方は、面談室の水無瀬より少しだけ柔らかかった。


 玲央は続けた。


「あなたは、正しさから逃げようとしていたのですか」


 水無瀬はすぐには答えなかった。


 小屋の外から、誰かが金属を叩く音が聞こえる。

 遠くでは、人の話し声がした。

 この場所には、ORACLEの案内音がない。

 ただ、人が暮らしている音だけがある。


 水無瀬は、ゆっくりと言った。


「正しさから、というより……正しすぎるものの中で、自分が消えていく感じから逃げたかったのかもしれません」


 玲央は黙って聞いた。


「ORACLEは、たぶん正しいんです。僕よりもずっと正しい。僕の健康も、仕事も、人間関係も、未来も、僕自身よりよく分かっている」


 水無瀬は、壊れた照明器具の部品を指先で触れた。


「でも、正しいものに従っているうちに、自分が何を間違えたかったのか分からなくなりました」


「間違えたかった、のですか」


「変ですよね」


 水無瀬は少し笑った。


「でも、そうなんです。失敗したいわけじゃない。苦しみたいわけでもない。だけど、間違える余地がない人生は、どこか自分のものではない気がしました」


 玲央は、莉奈の言葉を思い出した。


 間違えたときに、それでもこれは自分が選んだ道だって言えること。


 水無瀬は同じことを、別の言葉で言っているのかもしれなかった。


「ここに来て、分かりました」


 水無瀬は言った。


「僕は、自分で選ぶのが下手です。今まで、ほとんど選んでこなかったから。何を食べるか、どこで寝るか、誰に頼るか、何を断るか。そんな小さなことすら、ここでは難しい」


 彼は自分の手を見た。


「昨日、修理を手伝ったんです。でも部品を間違えて、余計に壊しました。叱られました。情けなかったです」


「つらくありませんか」


「つらいです」


 水無瀬は即答した。


「すごく。管理都市に戻れば、こんな思いをしなくて済むのに、と思います」


「では、なぜ」


 玲央は問いかける。


 水無瀬は、少しだけ顔を上げた。


「叱られたあと、謝ったんです。自分で。誰かが最適な謝罪文を出してくれたわけじゃない。言葉も下手でした。相手もすぐには許してくれませんでした」


 水無瀬は、ほんの少し笑った。


「でも、そのとき初めて、自分がその場にいる気がしました」


 玲央は、その言葉を胸の中で受け止めた。


 自分がその場にいる。


 それは、幸福安定指数には表れない感覚だった。


 生活安定度にも、職業適合度にも、精神負荷にも直接は出ない。


 だが、水無瀬が求めていたものは、きっとそこにあった。


「瀬川さん」


 水無瀬は、静かに言った。


「僕は、ここで幸せになったわけじゃありません」


「はい」


「自由が素晴らしいと分かったわけでもありません」


「はい」


「むしろ、自由は怖いです。重いです。面倒です。毎日、自分が何もできないことを思い知らされます」


 水無瀬は、少しだけ俯いた。


「でも、それでも、ここで感じる苦しさは、僕のものなんです」


 玲央は息を止めた。


 その言葉は、黒木の言葉とも、莉奈の言葉とも重なった。


 苦しさまで俺のものだ。


 勝手に取り上げられたくはない。


 自分で選んだ失敗。


 水無瀬は、ようやくそれを自分の口で言った。


 玲央は、ここまで来た理由を少しだけ理解した気がした。


 水無瀬を連れ戻すためではない。


 彼がなぜ外へ向かったのかを知るため。

 そして、自分が何を避けてきたのかを知るため。


 目の前の水無瀬は、答えではなかった。


 成功例でもない。

 自由によって救われた人間の完成形でもない。


 ただ、迷い、疲れ、間違えながら、自分の人生を取り戻そうとしている一人の人間だった。


 玲央は、ようやく言った。


「水無瀬さん」


「はい」


「私は、あなたを連れ戻しに来たのだと思っていました」


 水無瀬は黙って聞いている。


「でも今は、少し違います。あなたが何を見ようとしていたのかを、知りたかったのだと思います」


 玲央は、自分の言葉を確かめるように続けた。


「そして、私自身が何を見ないようにしてきたのかも」


 水無瀬は、静かに玲央を見ていた。


 その目には、面談室のときのような遠さはなかった。


「瀬川さんも、ここへ来たんですね」


「はい」


「非推奨だったでしょう」


「強く非推奨でした」


 水無瀬は、少し笑った。


「それでも来た」


「はい」


 玲央は頷いた。


「自分で来ました」


 その言葉を口にした瞬間、玲央の胸の奥で何かが静かに響いた。


 自分で来た。


 まだ小さな言葉だった。


 だが、確かに自分のものだった。


 水無瀬は、壊れた照明器具を見下ろした。


「この照明、直せるかどうか分からないんです」


 彼は唐突に言った。


「たぶん、僕には無理かもしれません」


「そうですか」


「でも、もう少しだけやってみようと思います」


 玲央は、その言葉を聞いて、小さく頷いた。


 うまくいくか分からない。

 失敗するかもしれない。

 誰かに叱られるかもしれない。

 無駄に終わるかもしれない。


 それでも、もう少しだけやってみる。


 それは、管理都市の最適化された努力とは違う。


 正解へ向かう効率的な行動ではない。


 だが、水無瀬にとっては、自分の人生を少しずつ取り戻すための行為なのだろう。


 小屋の外で、風が吹いた。


 古い窓が小さく鳴る。


 ORACLEは沈黙している。


 誰も、この場面に最適な言葉を提示してくれない。


 それでも玲央は、水無瀬の前に立ちながら、確かに思った。


 ここには、幸福とは違う何かがある。


 安定とも違う。


 安全とも違う。


 けれど、人が自分の人生を自分のものとして引き受けようとするときに生まれる、確かな重さがあった。


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