5-4:正解がない場所
5-4:正解がない場所
古本屋の中は、紙の匂いがした。
玲央は思わず足を止めた。
乾いた紙。
湿気を吸った古い紙。
木の棚。
長い間、人の手に触れられてきた本の匂い。
管理都市にも本はある。
ただし、多くは電子化され、読む人間の理解度や心理状態に合わせて表示内容が調整される。難解な文章には補足が入り、不安を強める表現には注意が添えられ、必要なら要約も提示される。
読書さえ、個人に最適化されている。
紙の本は、保存資料として扱われることが多い。
歴史的価値のあるもの。
原本性が重要なもの。
電子化前の記録として保管されているもの。
日常的に紙の本を読む人は少ない。
だが、この店には本が積み上がっていた。
棚には入りきらず、床にも、椅子にも、窓辺にも、本が置かれている。
分類も曖昧だった。
哲学書の隣に料理本がある。
古い旅行記の上に詩集が重なっている。
政治思想の本の間に、子ども向けの図鑑が挟まっている。
背表紙の文字が消えかけたものもあれば、誰かの書き込みが見えるものもあった。
玲央は、無意識に棚の規則性を探そうとした。
著者順なのか。
分野別なのか。
発行年代順なのか。
利用頻度順なのか。
だが、どれにも当てはまらない。
まるで、本がそれぞれ自分の都合でそこに置かれているようだった。
店主らしき老人は、奥の椅子に座って新聞を読んでいた。
白い髪は整えられておらず、眼鏡は鼻の下までずれている。
古い茶色の上着を羽織り、膝の上に広げた新聞へ目を落としていた。
莉奈が声をかける。
「昨日、管理都市から来た男の人、ここに寄らなかった?」
老人は新聞から顔を上げた。
その目が、まず莉奈を見て、それから玲央を見た。
「管理都市から来た人間なんて、最近は珍しくもない」
「三十代くらい。細身。静かな感じ」
「静かな男なら、昨日来た」
玲央は一歩前に出た。
「名前は水無瀬蒼ですか」
「名前は聞いていない」
老人は新聞を畳んだ。
「ここは役所じゃない。来た人間にいちいち名前は聞かん」
玲央は、一瞬だけ返答に詰まった。
管理都市では、来訪者の確認は基本だった。
誰が、いつ、どこへ、何の目的で訪れたのか。
必要な範囲で記録し、支援や安全確認につなげる。
だが、この店にはその仕組みがない。
「何をしていましたか」
玲央は尋ねた。
老人は少し考えた。
「本を探していた」
「何の本ですか」
「自由について」
玲央の胸が小さく鳴った。
「自由について?」
「そう。自由という言葉が、昔はどう使われていたのか知りたいと言っていた」
老人は、玲央をじっと見た。
「変な男だったよ。管理都市の人間らしく、話し方は丁寧で、服も整っていた。だが、目だけが迷っていた」
玲央は言葉を失った。
水無瀬は、ここで自由について調べていた。
ORACLEの人生プランを拒否したあとに。
最適化された人生から離れ、支援を手放し、記録されることを避けてこの区域へ来た。
そして古本屋で、自由という言葉の意味を探していた。
自由とは何か。
それを、ORACLEではなく、古い本の中に探していた。
「どんな本を見ていましたか」
玲央は聞いた。
老人は立ち上がり、棚の方へ歩いた。
腰は少し曲がっていたが、足取りは意外にしっかりしている。
「ここらへんだ」
彼は、棚の一角を指さした。
そこには、古い思想書や随筆、法律に関する本、誰かの手記のようなものが雑然と並んでいた。
「自由と責任。自由からの逃走。市民社会と個人。そんな題の本を見ていたな。借りてはいない。しばらく立ち読みして、何冊かめくって、最後にひとつだけ言った」
「何をですか」
「自由って、答えじゃなくて問いなんですね、と」
玲央は黙った。
自由は答えではなく、問い。
その言葉が、店の紙の匂いの中で、静かに玲央の胸へ落ちていった。
老人は新聞を椅子の上に置いた。
「そのあと、未登録区域の話をしていたな」
玲央は顔を上げる。
「未登録区域へ向かったのですか」
「知らん。行き方を聞かれただけだ」
「教えたのですか」
「大まかにはな」
老人は悪びれた様子もなかった。
「危険な場所です」
玲央が言うと、老人は薄く笑った。
「ここに来る役所の人間は、みんなそれを言う」
「事実です」
「そうだろうな」
「なら、なぜ教えたのですか」
老人は少し黙った。
そして、本棚に指を滑らせながら言った。
「行くなと言って、止まる目じゃなかった」
玲央は、その言葉を受け止められなかった。
行くなと言って、止まる目ではなかった。
水無瀬の目。
面談室で、整った人生プランを見つめていた目。
幸福なのかもしれないと言いながら、生きている感じがしないと呟いた目。
自由という言葉を探して、古い本のページをめくっていた目。
「その後、どこへ行ったか分かりますか」
玲央は改めて尋ねた。
老人は首を振った。
「知らん。未登録区域へ行ったかもしれんし、途中でやめたかもしれん。どこかの店で酒でも飲んでるかもしれん」
「酒、ですか」
「人間、答えが出ないと酒を飲むこともある」
玲央は返答できなかった。
老人は、畳んだ新聞をまた手に取った。
「ただ、あの男は何かを探していた。ここにある本では足りなかったんだろう」
玲央は莉奈を見た。
莉奈は小さく肩をすくめた。
「やっぱりね」
その声には、驚きよりも確認の響きがあった。
玲央は店主に礼を言い、古本屋を出た。
外の光が、少し眩しく感じた。
店の中の紙の匂いから、自由選択区域の雑多な匂いへ戻る。
揚げ物、土、人の汗、古い木材。
誰かの声。
自転車のベル。
遠くの音楽。
玲央は、しばらく黙って歩いた。
手がかりは得られた。
だが、確定ではない。
水無瀬が未登録区域へ向かった可能性は高い。
しかし、具体的な場所も、目的も分からない。
古本屋に来た。
自由について調べていた。
未登録区域の行き方を聞いた。
それだけだ。
管理都市の記録なら、もっと確かな線で示されるはずだった。
何時何分にどこへ行き、誰と接触し、次にどの交通手段を使ったか。
そこから行動予測が立てられる。
ここでは、言葉の断片だけが残っている。
自由について調べていた。
未登録区域の話をしていた。
止まる目ではなかった。
どれも曖昧で、頼りなく、しかし無視できなかった。
「ここでは、いつもこんなふうなのですか」
玲央はぽつりと尋ねた。
莉奈が隣を歩きながら、顔だけ向ける。
「こんなふうって?」
「情報が曖昧で、誰も確かなことを言わない。行き先も、理由も、何も保証されない」
莉奈は少し考えてから言った。
「まあ、そうだね」
「不安ではないのですか」
「不安だよ」
玲央は彼女を見た。
莉奈は当然のように答えていた。
不安だよ。
その言葉には、否定も飾りもない。
「でも、それが普通」
莉奈は通りを歩きながら言った。
「管理都市では、正解が先に出るんでしょ。どの道が安全か。どの仕事が向いてるか。誰と付き合えば安定するか。何時に寝ればいいか。何を食べればいいか」
「はい」
「ここでは、そんなものはあまり出ない。だから自分で選ぶ」
「間違えたら?」
「間違える」
莉奈は即答した。
玲央は黙った。
そのあまりの早さに、反論する言葉を見つけられなかった。
「間違えるのですか」
「そりゃあね。人間だから」
「それを避けようとは思わないのですか」
「思うよ。誰だって失敗したくない。でも、全部は避けられない」
莉奈は歩く速度を少し落とした。
「間違えたら、戻ることもある。謝ることもある。やり直すこともある。たまに、やり直せないこともある」
「それは危険です」
「そうだね」
莉奈は立ち止まり、玲央を見た。
その目には、笑いはなかった。
「でもね、間違えたことまで誰かのせいにできないっていうのは、苦しいけど、少しだけ救いでもあるんだよ」
玲央には、その意味がすぐには分からなかった。
「なぜ救いなのですか」
「自分のものだから」
莉奈の声は、先ほどまでより少しだけ静かだった。
「成功も、失敗も、後悔も、傷も。誰かに決められた結果じゃなくて、自分で選んだ結果なら、痛くても自分のものだと思える」
玲央は、水無瀬の言葉を思い出した。
幸福なのかもしれません。
でも、生きている感じがしないんです。
水無瀬が失っていたものは、それなのだろうか。
自分のものだと思える感覚。
幸福も、安定も、将来も、すべて整っている。
けれど、その人生が自分のものだと思えない。
だから、生きている感じがしなかったのか。
莉奈は続ける。
「ここには正解がない。だから迷う。間違える。後悔する。でも、正解がないからこそ、自分で選んだって感覚が残る」
「それが自由ですか」
「さあ」
莉奈は少し笑った。
「私は学者じゃないから、定義は知らない。でも、少なくとも私にとってはそう」
玲央は通りの向こうを見た。
人々が行き交っている。
誰かが道を間違え、戻ってきたところを知り合いに笑われている。
店主が客と言い合いをし、すぐ隣で別の客がそれを面白がっている。
子どもが走って転び、泣きそうになったところへ、通りすがりの女性が手を貸す。
男が荷物を落とし、周囲の数人が文句を言いながら拾っている。
予定通りではない。
効率的でもない。
正確でもない。
美しく整ってもいない。
だが、そこには確かに、人が自分の足で動いている感覚があった。
管理都市では、人々は迷わない。
迷う前に道が示される。
不安になる前に支援が届く。
間違える前に警告が出る。
それは優しい。
きっと正しい。
だが、この街の人々は、間違えながらも互いに声をかけている。
怒り、笑い、立ち止まり、やり直し、また歩き出している。
玲央は、自分の足元を見た。
ここへ来たのは、ORACLEの推奨ではない。
神崎の命令でもない。
庁の正式な調査でもない。
自分で来た。
その事実が、まだ少し怖かった。
なぜなら、その結果がどうなるのか、誰も保証してくれないからだ。
水無瀬を見つけられるかもしれない。
見つけられないかもしれない。
自分の職務に問題が生じるかもしれない。
神崎に失望されるかもしれない。
ORACLEの評価が変わるかもしれない。
それでも、ここにいる。
玲央はその事実を、まだ完全には受け止めきれなかった。
莉奈が歩き出す。
「未登録区域に行くなら、準備がいるよ」
玲央は顔を上げた。
「案内してくれるのですか」
「まだ決めてない」
「なぜですか」
「あなたが何をしたいのか、まだ分からないから」
玲央は黙った。
莉奈は、前を向いたまま言った。
「水無瀬さんを心配してるのは分かる。でも、それだけじゃないでしょ」
玲央は返せなかった。
莉奈の言葉は、いつも少し乱暴だった。
けれど、不思議と核心を外さない。
「行こう」
莉奈は通りの先を指さした。
「共同食堂に行けば、もう少し話が聞けるかもしれない。たぶん」
玲央は、その「たぶん」にもう反応しなかった。
確かなものは少ない。
正解は表示されない。
それでも、自分で次の一歩を選ぶしかない。
玲央は、小さく頷いた。
「行きます」
その言葉を口にしたあと、胸の奥がわずかに揺れた。
怖さはある。
けれど、その怖さは、自分で選んだ一歩の形をしていた。




