4-5:自由選択区域到着
4-5:自由選択区域到着
自由選択区域の駅に着いたとき、最初に玲央を迎えたのは音だった。
人の声。
車輪の軋み。
遠くで鳴る音楽。
誰かが笑う声。
怒鳴るような話し声。
店先で食器がぶつかる音。
古いスピーカーから流れる、不明瞭な案内。
音が、多すぎた。
管理都市では、音は整理されている。
必要な情報は、必要な音量で届く。
不要な刺激は抑えられる。
人の声も、交通音も、店の案内も、公共空間に適した範囲へ調整される。
音は、生活を支えるものであって、人を疲れさせるものではない。
だが、ここでは違った。
音が重なり、ぶつかり、空気の中にそのまま流れ出している。
誰かの笑い声に、別の誰かの怒った声が重なる。
列車のドアが閉まる音の後ろで、古い案内放送が割れた音を立てる。
ホームの端では、荷物を引く車輪が床の補修跡に引っかかり、がたがたと鳴っていた。
玲央はホームに降りた瞬間、思わず周囲を見回した。
駅の壁には、規格のそろわないポスターが何枚も貼られている。
角が剥がれたもの。
手書きの文字が加えられたもの。
誰かが上から別の紙を重ねたもの。
もう終わった催しの案内らしきものも、そのまま残っていた。
管理都市なら、期限切れの掲示は自動で消える。
古い情報が残れば、誤認や混乱につながるからだ。
だがここでは、過ぎ去ったものが、まだ壁に貼られている。
案内表示も、古い電子板と紙の掲示が混在していた。
次のバス:たぶん二十分後
遅れることがあります
急ぐ人は歩いた方が早いかもしれません
玲央は、その掲示を見て、しばらく言葉を失った。
たぶん。
かもしれません。
公共交通の案内に、そんな曖昧な言葉が使われている。
到着時刻も、運行精度も、保証されていない。
利用者は、それを前提に判断しなければならない。
管理都市では、許容されない曖昧さだった。
だが、近くにいた男はその掲示を見て、舌打ちをしながらも笑っていた。
「またかよ。歩くか」
そう言って、隣の女と並んで駅の出口へ向かっていく。
怒っているようで、諦めているようで、それでもどこか慣れている。
玲央は、その反応にも戸惑った。
予定が守られないこと。
案内が曖昧なこと。
到着時刻が分からないこと。
それは、もっと大きな不安を生むはずだった。
しかし、ここの人々は、その不確かさの中で普通に動いている。
駅前に出ると、さらに雑然としていた。
狭い道沿いに、小さな店が並んでいる。
看板の高さも、色も、書体もばらばらだった。
光る看板もあれば、木の板に手書きされたものもある。
古い布を軒先に吊るしただけの店もあった。
揚げ物の匂い。
雨上がりの土の匂い。
古い木材の匂い。
人の汗の匂い。
湯気の立つ汁物の匂い。
湿った紙の匂い。
いくつもの匂いが混ざり合って、玲央の感覚を刺激した。
管理都市の匂いは薄い。
強い香りは、記憶や感情を不用意に呼び起こす。
だから公共空間では、匂いもまた管理される。
だが、ここでは匂いが隠されていなかった。
生活が、そのまま空気に溶け出しているようだった。
道端では、二人の男が何かを言い合っている。
少し離れた場所では、子どもたちが走り回り、誰かがそれを大声で叱っていた。
店の前では、老女が野菜の値段について店主と交渉している。
「今日は高いよ」
「昨日より葉が悪いじゃないか」
「じゃあ、二つ買うなら少し引く」
「三つなら?」
「欲張るねえ」
二人は真剣に言い合っているのに、最後には少し笑っていた。
玲央には、そのやり取りの意味がすぐには分からなかった。
値段は、管理されていないのか。
品質評価は表示されないのか。
交渉で変わるものなのか。
すべてが、予測しにくかった。
声が大きい。
動きが急だ。
人との距離が近い。
感情が、そのまま表に出ている。
笑うときは、本当に笑う。
怒るときは、その声が空気に響く。
困っている人は、困った顔をしている。
誰かに話しかけるとき、人は端末ではなく相手の顔を見る。
玲央は、無意識に端末を確認した。
位置情報は取得されている。
だが、推奨表示には遅延があった。
数秒間、画面が読み込みのまま止まり、ようやく文字が表示される。
自由選択区域内では、ORACLE支援精度が低下します。
周囲環境の不確実性が高いため、単独行動には注意してください。
それだけだった。
普段なら表示されるはずの詳細な経路案内もない。
混雑予測もない。
会話量の推奨もない。
周囲の人間との適切な距離も、行動優先順位も、すぐには示されない。
玲央は画面を見つめた。
ORACLEの声が、薄い。
完全に消えたわけではない。
端末は動いている。
警告も表示される。
最低限の支援は残っている。
けれど、管理都市にいたときのように、すぐそばで支えてくれる感覚はなかった。
何かを考える前に答えが届く感覚。
迷う前に道が示される感覚。
心が乱れる前に、そっと手を添えられる感覚。
それが、ここでは遠い。
そのことが、玲央を不安にさせた。
同時に、奇妙な静けさもあった。
外の世界は騒がしい。
人の声が重なり、匂いが混ざり、動きは不規則で、看板も道も整っていない。
それなのに、自分の内側にいつも流れていた案内音が少ない。
次に何をすればいいのか。
どこへ向かえばいいのか。
誰に話しかければいいのか。
どの道を選べば安全なのか。
それらを、すぐに示してくれる声がない。
自分で決めなければならない。
玲央は駅前の広場に立ち尽くした。
広場と呼ぶには、そこは少し狭く、雑然としていた。
人が立ち止まる場所と、通り抜ける場所がはっきり分けられていない。
誰かが荷物を置き、誰かがその横を避け、別の誰かがそこで待ち合わせをしている。
管理都市なら、流れが分かれる。
ここでは、流れが混ざっている。
玲央は、自分が何のためにここへ来たのかを思い出そうとした。
水無瀬蒼の手がかりを探す。
そのためにここへ来た。
だが、具体的にどこへ行けばいいのか分からない。
最後の検出地点は、この駅周辺。
その後の足取りは不明。
自由選択区域には、ORACLEに接続していない小規模施設や個人店舗も多い。
記録だけでは追えない。
管理都市なら、端末に名前を入力すれば、必要な範囲で所在確認の手順が表示される。
接触すべき窓口。
確認すべき施設。
利用履歴。
移動予測。
だが、ここではそれがない。
玲央は周囲を見回した。
駅前の掲示板に、地図が貼られている。
紙の地図だった。
玲央は近づいた。
雨に濡れた跡があり、端が少し波打っている。
現在地を示す赤い丸も、手書きで付け足されていた。
道の名前も、いくつか上から修正されている。
新しい店名が、別の紙で貼り重ねられている箇所もあった。
地図なのに、完全ではない。
今と違うかもしれない。
間違っているかもしれない。
見落としがあるかもしれない。
玲央は、その地図を前にして立ち止まった。
端末の案内ではなく、自分の目で道を探す。
そんなことを、いつ以来していなかっただろう。
いや、そもそも本当にしたことがあっただろうか。
玲央は地図の中から、駅、商店街、自由広場、旧連絡路、生活支援所と書かれた場所を読み取ろうとした。
しかし、文字の向きも大きさも一定ではなく、どの道が大通りなのか、どこが行き止まりなのかも分かりにくい。
そのとき、背後から声がした。
「管理都市から来た人?」
玲央は振り返った。
そこには、二十代後半ほどの女性が立っていた。
短く結んだ髪。
少し着崩した上着。
手には紙袋を抱えている。
靴の先には、雨上がりの泥が少しついていた。
表情には警戒よりも、どこか面白がるような色があった。
玲央は、すぐには答えられなかった。
知らない相手から、突然話しかけられる。
管理都市では、あまりないことだった。
公共空間での会話は、必要性や関係性に基づいて行われる。
見知らぬ人に話しかける場合、端末が簡単な確認を促すこともある。
だが、ここでは何の前置きもなく、声が飛んでくる。
「……どうして分かるんですか」
玲央が尋ねると、女性は小さく笑った。
「地図の前でそんなに真剣な顔をしてる人、こっちの人間にはあまりいないから」
玲央は返す言葉に迷った。
真剣な顔。
自分では意識していなかった。
「それに」
女性は、玲央の服装を軽く見る。
「服がきれいすぎる。靴も汚れてない。あと、さっきから端末見すぎ」
玲央は反射的に端末を下げた。
女性は、それを見てまた笑った。
「別に責めてないよ。分かりやすいってだけ」
玲央は、相手の情報を確認しようとして、端末を見る。
だが、画面には何も表示されなかった。
身元照会、制限。
自由選択区域内では、個人情報への即時アクセスは制限されています。
玲央はわずかに眉を寄せた。
相手が誰なのか分からない。
職業も、社会適合度も、心理負荷も、対人リスクも表示されない。
会話を続けるべきかどうかの推奨もない。
目の前の表情と、声と、態度だけで判断しなければならない。
女性は玲央の端末をちらりと見て、それから駅前の雑踏へ視線を向けた。
「誰か探してるの?」
玲央は一瞬ためらった。
知らない相手に話していいのか。
ORACLEの推奨はない。
会話リスクも表示されない。
相手の身元も分からない。
水無瀬の名前を出せば、個人情報保護上の問題になる可能性もある。
ただし、水無瀬は自由選択権を行使し、支援接続が不安定になっている。
担当職員として安否確認を行う必要はある。
玲央は、その場で判断しなければならなかった。
黙っていても、何も始まらない。
ここでは、自分で聞かなければならない。
玲央は答えた。
「水無瀬蒼という人を探しています」
女性の表情が、ほんのわずかに変わった。
「……水無瀬?」
その反応を、玲央は見逃さなかった。
声の調子が変わった。
目が一瞬だけ細くなった。
冗談めいた空気が、少しだけ引いた。
「知っているんですか」
玲央は尋ねた。
女性はすぐには答えなかった。
少し考えるように視線を落とし、それから玲央を見た。
「名前だけなら、聞いたかもしれない」
玲央の胸が小さく鳴った。
「どこでですか」
女性は、すぐには答えない。
玲央の顔をじっと見た。
その視線は、ORACLEの分析とは違っていた。
数値にするための観察ではない。
この人間に話していいのかを、自分の感覚で測っているような目だった。
「その前に、あなたの名前は?」
玲央は一瞬遅れて答えた。
「瀬川玲央です」
「仕事は?」
玲央は、わずかにためらった。
人生最適化庁の職員だと名乗れば、警戒されるかもしれない。
この区域では、ORACLEや管理社会に距離を置く人が多いはずだ。
だが、隠すことにも抵抗があった。
「人生最適化庁、適合支援局の職員です」
女性は、ほんの少しだけ目を見開いた。
そして、意外にも笑った。
「へえ。庁の人が、こんなところまで」
「水無瀬さんの安否確認が必要です」
「仕事で来たってこと?」
玲央は答えようとして、少し止まった。
仕事。
そう言い切っていいのだろうか。
神崎は通常業務を継続しろと言った。
ORACLEは訪問を非推奨とした。
追跡支援班が対応している。
正式な命令で来たわけではない。
「……担当職員として、確認したいことがあります」
玲央はそう答えた。
女性は、少しだけ面白そうに目を細めた。
「ずいぶん曖昧な言い方」
玲央は返せなかった。
女性は軽く肩をすくめた。
「私は桐生莉奈」
そう言って、紙袋を抱え直し、空いた手を軽く上げた。
「この辺で、いろいろ手伝いをしてる。店の手伝いとか、案内とか、面倒ごとの仲裁とか。肩書きは特にないけど」
肩書きは特にない。
玲央には、それもまた不思議だった。
管理都市では、人は何らかの役割と接続されている。
職務、所属、支援区分、生活プラン。
その人が社会の中でどの位置にいるのかは、ある程度明確になっている。
だが、莉奈はそれをあっさり曖昧にした。
桐生莉奈は、玲央の困惑を見て、少し笑った。
「まあ、とにかく」
彼女は駅前の雑踏へ目を向けた。
「ようこそ、正解のない街へ」
駅前のざわめきが、二人の間を流れていく。
誰かの笑い声。
古いスピーカーの案内。
食器の音。
店主の呼び声。
走る子どもの足音。
玲央はその言葉の意味を、まだ理解できなかった。
正解のない街。
管理都市では、正解に近い道が常に示される。
少なくとも、最適な道は存在するものとして扱われる。
それを探し、提示し、受容できるよう支援するのが、玲央の仕事だった。
だがここでは、最初に出会った女性が言った。
正解はない、と。
玲央は、胸の奥が小さく揺れるのを感じた。
不安だった。
だが、それだけではない。
ここから先は、ORACLEがすべてを示してくれる世界ではない。
自分で聞き、自分で迷い、自分で選ばなければならない世界だ。
自由選択区域。
その不安定で生々しい空気の中で、玲央の物語は、静かに次の段階へ進み始めていた。




