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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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2-5:神崎透真

2-5:神崎透真


 午後の業務報告を終えたあと、玲央は上司である神崎透真に呼ばれた。


 通知は短かった。


 瀬川玲央職員。

 十六時三十分、管理官室へ。


 理由は書かれていない。


 だが、玲央にはおおよその見当がついていた。


 水無瀬蒼。


 自由選択権。

 人生プラン、保留。

 追加面談、推奨。


 その記録は、すでに上層部にも共有されているはずだった。


 神崎の執務室は、庁舎の上層階にある。


 広すぎず、狭すぎず、余計な装飾もない部屋だった。

 壁は淡い灰色で、照明はやや低く抑えられている。

 机の上には必要最低限の端末しか置かれていない。


 装飾品はない。

 個人的な写真もない。

 趣味を示すものもない。


 その代わり、壁には都市全体の安定指数を示すパネルが静かに並んでいた。


 犯罪予兆抑制率。

 雇用再配置成功率。

 孤独リスク低減率。

 生活破綻予防率。

 自由選択権行使者の追跡支援状況。

 適合支援局の面談受容率。

 再面談後の安定移行率。


 それらの数字が、薄い光で一定の間隔を保ちながら表示されている。


 神崎は、その数値を背にして立っていた。


 四十五歳。


 細身で姿勢がよく、無駄な動きが少ない。

 白髪の混じった髪を整え、服装にも乱れはない。

 視線には鋭さがある。


 だが、その鋭さは人を威圧するためのものではなかった。

 常に何かを見極めようとする者の目だった。


 市民の言葉の裏にある不安。

 職員の報告に含まれるわずかなずれ。

 数値には表れにくい兆候。


 神崎は、そうしたものを見逃さない。


 玲央は扉の前で軽く頭を下げた。


「失礼します」


「入れ」


 神崎の声は、いつも通り低く落ち着いていた。


 玲央が入室すると、扉は静かに閉まった。


「水無瀬蒼の面談記録を見た」


 神崎は椅子に座るよう促しながら言った。


 玲央は静かに腰を下ろす。


 椅子の角度は、真正面から向き合いすぎないように配置されていた。

 管理官室でさえ、人の心理的負荷は計算されている。


 神崎は端末に視線を落とした。


「自由選択権について質問があったようだな」


「はい。ただ、現時点では保留です。追加面談で受容に向かう可能性はあります」


 玲央は、業務報告と同じ表現で答えた。


 感情を挟まない。

 事実を述べる。

 予測と対応を整理する。


 神崎は軽く頷いた。


「そうだといいが」


 その言い方には、わずかな含みがあった。


 玲央は、すぐには返さなかった。


 神崎は水無瀬の記録を開いている。

 画面には、面談時の発話ログと心理反応の分析が並んでいた。


 水無瀬蒼。

 社会適合度、九十一。

 職業安定指数、八十八。

 人生プラン受容予測、低下。

 自由選択権への関心、検出。


 神崎はしばらくその画面を見つめていた。


「高適合者ほど、まれに強い空白感を訴えることがある」


「空白感、ですか」


「人生が整いすぎていると、自分で生きている実感が薄れる。そう訴える者がいる」


 玲央は、水無瀬の顔を思い出した。


 面談室で、未来のプランを見つめていた目。


 怒っているわけではない。

 拒んでいるわけでもない。

 ただ、そこに自分がいないような目。


「それは、ORACLEの問題なのでしょうか」


 玲央が尋ねると、神崎はすぐには答えなかった。


 沈黙は長くはなかった。

 けれど、その数秒の間に、部屋の空気が少しだけ重くなった気がした。


 神崎は静かに言う。


「問題ではない。副作用だ」


 その言葉は、玲央の耳に少しだけ重く響いた。


 副作用。


 まるで薬の説明のようだった。


 効能があり、人を救う。

 だが、完全に害がないわけではない。

 一定の割合で、望ましくない反応が出る。


 神崎は続けた。


「どんな制度にも副作用はある。重要なのは、それによって救われる人間の数だ」


 神崎は壁の数値を見た。


 孤独リスク低減率。

 生活破綻予防率。

 雇用再配置成功率。


 その数字は、ORACLEによって救われた人々の総量を示している。


「ORACLE導入以前、人々は自由に苦しんでいた。自分で選べと言われ、失敗すれば自己責任だと言われた。向いていない仕事を選び、壊れるまで働き、相性の悪い相手を選び、傷つき、孤立し、人生を崩していった」


 神崎の声は冷静だった。


 けれど、その奥にかすかな硬さがあった。


 玲央はそれを感じ取った。


 神崎は、ただ資料として過去を語っているのではない。

 どこかで、その過去に触れている。


 そんな気がした。


「自由は美しい言葉だ」


 神崎は言った。


「だが、多くの人間にとって、それは重すぎる」


 玲央は黙って聞いていた。


 その言葉は、新人研修でも何度も聞いた思想に近かった。

 選択の責任。

 自己決定の負担。

 自由による孤立。


 しかし、神崎の口から語られると、それは単なる理念ではなく、経験に裏打ちされたもののように聞こえた。


「人間は、自分が何を望んでいるのかを正確には知らない」


 神崎は続ける。


「欲望と恐怖と他人の視線に振り回される。今日の感情で明日の人生を決め、十年後に後悔する。孤独に耐えられず、合わない相手にしがみつく。評価されたいがために、向いていない仕事を選ぶ。安定を軽蔑しながら、不安定さに潰される」


 玲央は、手元の端末を見た。


 神崎の言葉は厳しい。


 だが、否定できなかった。


 玲央自身も、面談でそうした市民を何人も見てきた。

 感情に引きずられ、短期的な判断で人生を乱しかけた人。

 ORACLEの提示によって、破綻する前に道を変えられた人。

 自分では気づかなかった危険を、数字で見せられて初めて受け入れられた人。


 そういう人々は確かにいる。


「だから、ORACLEが必要だと」


 玲央が言うと、神崎は短く頷いた。


「ああ」


 そして、玲央を見た。


「人間は、自由に耐えられるほど強くない」


 その言葉には、ただの理論以上の重みがあった。


 玲央は、その理由を詳しく知らない。


 神崎の過去。

 彼がORACLEを強く信じるようになった理由。

 自由という言葉を口にするとき、声の奥にかすかな硬さが混じる理由。


 それを玲央は知らない。


 だが、神崎がこの言葉を軽く口にしていないことだけは分かった。


 人間は、自由に耐えられるほど強くない。


 玲央は、その言葉を胸の内で繰り返した。


 水無瀬は、自由を求めているのだろうか。

 それとも、ただ自分の人生に空白を感じているだけなのか。

 もし自由選択権を行使したとして、その重さに耐えられるのだろうか。


 玲央には分からなかった。


「水無瀬さんの問いは、間違っているのでしょうか」


 玲央は、自分でも意外なほど自然にそう尋ねていた。


 神崎の視線が、玲央に向けられる。


 わずかに目が細くなった。


「問いとしては間違っていない」


「では」


「だが、問いに引きずられすぎるな」


 神崎の声が、少しだけ低くなる。


「誰の人生か。自分で選んだのか。そういう問いは、人を深い場所へ連れていく。そこに答えがあればいい。だが、多くの場合、答えはない。ただ不安だけが残る」


 玲央は何も言えなかった。


 神崎の言葉は、水無瀬の問いを否定していない。


 むしろ、問いの危険を知っているようだった。


「人は、自分の人生に完全な納得を求めることがある」


 神崎は続けた。


「なぜこの仕事なのか。なぜこの相手なのか。なぜこの場所なのか。なぜこの人生なのか。考えること自体は悪くない。だが、その問いに答えが出ないまま沈み込む者もいる」


 神崎は、端末に表示された水無瀬の面談ログを見た。


「水無瀬蒼は、高適合者だ。大きな失敗もなく、社会的安定も高い。だからこそ、空白を感じている可能性がある」


「安定しているからこそ、ですか」


「ああ」


 神崎は頷いた。


「人間は、苦しみがあるとそれを問題と認識できる。だが、何も問題がないのに満たされないとき、その感覚は扱いにくい。本人にも説明できない。周囲にも理解されにくい。そして、自分の人生そのものを疑い始める」


 玲央は、水無瀬の言葉を思い出した。


 この人生は、間違っていないんですよね。


 失敗しにくい。

 後悔しにくい。

 周りにも迷惑をかけにくい。


 完璧ですね。


 あの言葉の奥にあったものを、玲央はまだうまく掴めない。


「我々の仕事は、市民をその不安から守ることだ」


 神崎はそう言って、面談記録を閉じた。


 画面から水無瀬の情報が消える。


 部屋には、再び都市安定指数のパネルだけが静かに光っていた。


「水無瀬には追加面談を設定しろ。自由選択権の行使は、できる限り回避させる。彼にとっても、その方がいい」


「はい」


 玲央は頷いた。


 神崎の指示は明確だった。


 追加面談。

 不安要素の整理。

 自由選択権のリスク説明。

 人生プランの受容支援。


 いつもの対応に戻ればいい。


 神崎の言葉は正しいように思えた。


 実際、社会はORACLEによって安定している。

 多くの人が救われている。

 自由に耐えられない人間がいることも、きっと事実なのだろう。


 自由は美しい言葉だ。

 けれど、美しいからといって安全とは限らない。

 人を傷つけ、迷わせ、壊してしまうこともある。


 それを避けるために、自分たちはここにいる。


 玲央はそう理解しようとした。


 だが、管理官室を出て廊下を歩きながらも、水無瀬の問いは消えなかった。


 これは、誰の人生なんでしょうか。


 その声は、神崎の言葉に押し流されることなく、玲央の胸の奥に残り続けていた。


 問いとしては間違っていない。


 神崎はそう言った。


 その一言が、玲央には妙に重かった。


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