放課後
放課後、ゼンジは風より速く教室を飛び出した。
彼はちょっとした土砂崩れの噂を聞きつけて、現場に行ってしまった。
私は帰りも一人になった。これは好都合で、強く追い風の自転車をこいだ。
春ごろから残っていた鼻を突く肥料の匂いを感じない。
帰り道も夏だ。午前より乾いている。
私は山へ向かう登りと川沿いの道との分かれ道にある、集配所の前にある自販機に立ち寄る。
この自販機は一昨年に設置された。密閉力が強いふた付きのカップを採用した最新の文明の利器であった。
初回利用時、最新のセルロースナノファイバーがボトル状に変形するのを、取り出し口から興味深く覗いた。
ジャー、シュー、ボチャで、ベコッとして、バチッとして、ガコベコである。
私の観察によれば、集落の者はだいたいがやっている。統計学的に、全世界の大半がやっているはずと信じ、それを確認してはいない。
ガコベコカップは、古い型と比べるときれいで、非常に頑丈になっている。
フィルムは同じなのか、手触りは変わらない。表面はつるつるして引っかかりがない。ただし、ひねったり切ったりした時には、ぎにゃりがぎにゃーりになる。
この街が大して変化もせずに、江戸時代に毛が生えた程度であるところに訪れた、大きな変化だった。
私は熟練の指先でカフェモカのボタンを押した。濃いめ、氷入り。自販機に価格が表示され、握ったNPEが「承認しますか?」ときいた。
「承認する」
例の音が始まる。そして、終わる。冷えたカップを取り出した。
私が安くなるまとめ買いをせず、わざわざこの手順をとるのは、自己の生存記録をこいつを通してやってやるためで、世界の皆さんに存在を主張するためだった。
私はカップを前かごに入れて、全力のこぎで坂を上って家に帰った。
私は母に帰宅を告げ、荷物を自室に移すと、雨が来る前にひと狩り行くことにした。
土日は雨に違いない。逃すには惜しい時間だ。そして走るに向いた気温。
これは肌の言葉を聞いての判断。この町では天気予報は当てにならない。
都市部では一〇メートル単位での予報があるが、この街では町単位ではずれる。特に私の家のほうではずれる。雲、風より、山の地形の方が大きく影響している。山の雨は地面から降るのだ。
狩猟の申請は学校でNPEから出しておいた。許可は下りている。
長袖の消臭服に着替え、狩りバッグを背負い、腰のレザーポーチにNPEを移し、カバーに入れたプラズマライフルを脇で持ち、ガレージで、フライングモーターサイクルにまたがった。
ローンの支払いをこの春に終えた、中古のクイックターキー社のバロア(burrower)。完全ホバーの中型。最大航続距離三四〇キロ、最大積載量は一三〇キロ、最高速度時速八〇キロ。
風防を中心にずんぐりした丸い硬さを感じる、つまり甲虫みたいな形で、外からプロペラは見えない。気流に対して緻密に対応する、ガラス細工の異次元生物的な最新型と比べると見た目からして重そうで、実際に遅いが、乗りやすいこの型をずっと愛用している。この頃はチョッパーではなかった。
下から見えるプロペラとフェンダーは、機体の色に合わせて、青の新型に交換してある。
電源ボタンを押しこみ、正面モニターが点灯すると、離陸準備をタップした。
ウィーと小さく鳴って、下部のよっつのプロペラが向きを変えて軽く回転した。両横の足元から、落下防止装置が胸の高さまで上がった。
離陸準備モードにして浮上させる。運転席では音は聞こえない。庭に移動して待機させた。
登録済みのリストから目的地を決定する。
NPEのモニターを展開して、申請が通っているのを再度確認すると、正面モニターの離陸、次いで決定を押す。
言うまでもなく自動航行モード。かすかな振動を感じるなか、ほぼ垂直に上昇する。山を置き去りに視界は青へ。対地高度が二〇〇きっかりになると、前進を開始した。
家から学校へ向かう反対、南東へ。足元では、谷川の線が軽く波打ち過ぎる。
ここの空はすいていて、中型の飛行体は町内の空に見えない。北の空にはちらほらと視界を横切る飛行士の影が見える。
私はハンドルから手を離して座席にもたれ、カフェモカを少し飲んでいた。離陸から八分ほどで、着陸に入る。
機体は静かに山道の道端のコンクリート敷きに着陸した。昔はなにか構造物があった土地、着陸には安全でちょうどよい場所だった。
電源は入れたままで機能をロックして降りた。速足で森の小道に入り南下する。
すぐに目印のすてばて熊岩の前を通る。時計は午後四時前。道沿いのヤマボウシはまだきっちり咲いていない。木陰はひんやりしている。
狩りの目的は金銭の入手である。つまり生活のためで、これをやれば、自活している。
狩りさえできれば、生きていける。獣はあふれかえり、人々は山に圧倒されている。
必要なのは銃一丁だ。これは確かに私の体の一部だった。抱えて寝れば落ち着く。
それに加え、中学の頃には足が遠のいていた山に入る言い訳、というか正当な動機になっている。なんの用もなく山をふらふらするのは、人目が気になる。山の中に誰もいないとしても気になるのだ。
ブナ林に入った。
白っぽいブナの木が、人間性を感じさせる距離感で群れている。光量が減っても、強調された光はかえって明るい。
所々に小さな草が生えているが、足取りを邪魔せず、むしろそれを踏みつける感触は私を加速させた。
銃とバッグを背負い、少し息が切れるぐらいの走りで移動した。
谷風が忍んで追ってきた。私の足取りが弾力のある葉音と溶けあって、狩りの序曲のように感じられた。静かに高揚して、今日は空振りはないと思いつつ、油断をたしなめる心もある。
汗が額から垂れる頃、ブナ林が途切れた。ここから先は手入れされていない。ここから我が家の土地である。さっきまでのは神社の土地だ。
ここでカフェモカを半分ぐらいまで飲む。
山に踏み込めば、影になり急激に気温が下がる。濃い緑の匂いがしてくる。
木々が所々で密生し、高い藪は胴の高さまであり、意識しないと見えない傾斜がある。
私はNPEを起動させ、周囲の狩猟者を確認した。五〇〇メートル以内にNPE反応なし。こんな時間にこの地区で狩猟申請をやるのは私だけだった。
プラズマライフルのカバーをはずし、負い紐を通し、右肩に掛ける。
茂みを避けつつ、駆け足で目印まで急ぐ。
私は黙々と走っていたが、足を止め、熟したイチジクを冥王星まで打ち上げられる繊細さと、宇宙的速さで右を向いた。同時に銃を低く構える。
私は無自覚にただ止まる。自覚するのが苦手なのだと今は思っている。
気が付いた時には動いて止まっているのだ。引き金に指が触れていた。
私は身動きせずまばたきもせず、私を足止めして振り向かせた何かを探した。
視界のすみ、高い位置で一本の枝が上下に揺れているのを目にとめた。
何かが飛び立ったか……。
私は上を見上げた。空は雲って、ハナムグリが飛んでいた。歩く者の世界など知ったことではないと、木々の間を抜けていく。
私は視線を木に戻して、枝先の揺れを見つめた。細い枝先はまだわずかに振動している。
あれにしては……揺れ過ぎている。
私は自分の耳と話す。さっき何を聞いたか、思い出せ。耳を巻き戻す。鳥の羽音は聞いていない。
私は静かに半歩後ずさりして、片手でNPEを起動させモニターを出すと、NPEを縦画面にして銃の側面に挿した。
ライフルスコープの映像が映る。銃を木の根に向けた。低い植物が茂っていて、地面は見えない。
「動体検知、周期動除去」
ライフルスコープの動体センサーを起動させた。
NPE画面が白黒になる。画面の中央から波が検出された。
画面から視線をはずし目を凝らすと、葉と葉の間に、赤と黒の斑紋の蛇が這っている。
「ヤマカガシ、鳥か蛙でも狙ったのか。上にも下にもいてほしくない」
私は銃の出力スライダーを五段階の二に調節して、蛇を照準に捉えると、引き金を引いた。
引き金から一瞬の間、銃口から飛び出したぼうっと紫に輝く細い槍が、顔の付け根を刺す。槍は四散、蛇がバンッと少し弾けた。
蛇の頭部が落ち、残った胴体が不気味にとぐろを巻き続ける。
「やっぱり蛇は微妙に判定が鈍い。じっくり狙ったのに」
本州に絶滅危惧種の蛇はいないはずだが、だからといって判定処理はなくならない。