学校
教室にはゼンジ・グリーンフィールドがいて、彼は得意の瞬間移動で、私がロッカーに触れる前に隣に出現した。
「いい朝だな、カセイ」
ゼンジは湿気が飛ぶ陽気さで言った。
「早いと思ったらなんだ? ゼンジ、のぼせてやがるのか」
ゼンジの茶髪は湿気を吸ったのか、ウェーブが強くなっていた。
私はロッカーで今日の授業の用意をした。
「今日は五時に目が覚めた。そして街をさまよった。するとなんという事でしょう、町外行きタクシーが止まってたのさ! マニュアルに沿ったメンテだ。ほかは山の地形確認か。こんな時は自家用の小型三輪にかぎるな。それでNPEだけが相談相手の人々の顔を鮮明に記録してきた。まあ、それぐらいのもので退屈だった」
ゼンジは肩をすくめながら小躍りした。
「それにしちゃ、愉快そうじゃないか」
私をわずかに見上げる薄緑のアースアイは、光を丸く反射している。
「いやいや、川に落ちた車を眺める人々を期待したさ。どうせなら流される人もな。しかし冴えすぎて困る。何かやらないと落ち着かない」
「SUMAYAでもやれよ」
高校の自販機でにある全生徒を消沈させるであろう紫の飲み物のことだ。
ドロッとしていて、辛いのか甘いのかわからない。酸っぱいのは確かだ。紫キャベツ以外の原料は知らない。
「お前ね、泡を噴いちまうだろ」
教室では半分のほどの学生が揃っていた。私の目論見どおりの無難な時間だった。
ゼンジと話しながら歩き、リンタロウ・クワガタ、タクト・クイセケ、ロクロウ・フゲシに長戸辺南流の、足の親指を側面でぶつけるあいさつをして、席に着いた。
ゼンジは私の席に手を突きかかとを上げ下げしていた。
「俺はね! 北のほうが風が強いってわかってる」
ゼンジが宇宙的法則発見口調で言った。
「地形的にな。於保の辺りが一番強い。時期によっては北西の山すそ」
「そう! それで普段からけっこう墜落がある。泥被ったUAVがあるよな」
こいつはトラブルを嗅ぎつける能力に長けていた。回収屋より先に持ち去る。当然に駄目だが、たまに高い木の枝に引っかってロストになったものが、こいつの宝物になった。
「空の目の部品でも落ちてたか?」
「あれはそんなにやわじゃない。テキサススカンクの屁が起こした竜巻でも、うまくいけば耐える。飛行維持に特化しているからな」
「おお、常識を語られるとは偉くなったもんだ」
「あれのスクラップが手に入れば最高にいかすね! 次に期待だ、わかるだろ?」
「わかるが、手に入らんなら落とせば? 投げ網の研究をしてただろ」
私は半笑いで言った。
「カセイがあの大砲で落としてくれればいい」
「そいつはレーザー爆撃されそうだ」
ゼンジは不幸な奴だった。こいつは岐阜生まれだというのに、七歳で引っ越してきた。
父親がイングランド系アメリカ人で個人情報セキュリティーの会社の開発者、母親は日本人で伝統文化系フリーライターだ。
あの家は、忙しいらしくあまり見ない母親の趣味で、明治に廻船・造船業で成らした浜松商人の家を移築していた。
つまり歴史的価値があるものだが、あの旧なんたら家住宅は、私にとってグリーンフィールド家住宅でしかなかった。
擬洋風レンガ造りの新母屋と、茅葺の旧母屋が渡り廊下で接続された珍しい造りだ。そこに元々あった半壊していた土蔵を修復したものが加わる。
父親の書斎の壁には、骨董品の手作りの器具が展示されていた。錆びた手斧、銅のおろしがね、鉋《かんな」、鋏、のみ、鉤、やっとこなどが展示してある。
ゼンジと知り合ったのは、彼が学校に来る前の道端。宇宙へ行くための穴を掘っていた。
なかなか宇宙に辿り着かなかった彼は、都市部で見ない部類の自律機械に興味を移した。複数の小型UAV――無人航空機が、田畑の上で群れを成すのは珍しいようだった。
彼はそれにしばらく無視されたが、落とされた枝や実で誘導する方法を教えてやるとそれで遊ぶようになった。彼はすぐに最新の総合モデラーでダミーを自作するようになり、私もそれをやった。
どちらも一人っ子だから、これ以降はほぼセットで存在した。
次に彼が夢中になったのは 町の自動除雪機を行動不能に追いこむことだった。
必然的に友人である私は、それを手伝った。
ヒラタドロムシみたいな除雪機を研究した結果、熱感知を欺くパターンを理解した。雪壁と石組みで道路から誘導して、雪を固めた道で死地に導くことに成功した。
一夜にして四体の除雪機が、町管理の空き家の融雪池にダイブした。
当然にばれた。一体目で満足しておくべきというのが教訓だ。
おかげで私はいわれなき巻き添えを喰らい、ねっとりした七三の髪型にでかい鼻で、嫌味を具現化した黒い眼鏡をした役場の中年に、水中みたいに濁って響く声でだらだら文句を言われた。子供時間にして、三十時間はあった。
その後の人生で、似たような顔を数度見たが、不思議と全員の声と話し方が同じだ。
私は今もこの顔の人間を信用していない。
この役人は同じ勢いで父に文句を言ったが、父の「子供のやることごときでグダグダぬかすな」に一喝され逃げ帰り、代わりに町長が謝りに来た。七三は首になったらしい。
父は常識的な人間だが、事が町内でとなれば鬼軍曹みたいに銃機関銃を片手でぶっ放すぐらいパワフルになる。安マンションを崩壊させるぐらい、わけはない。
私は「安全に気をつけろ」と言われただけだ。自律機械の構造上の欠陥は、メーカー保証で町に損害はなかった。
当時はありがたく愉快な出来事だったが、この頃の私には複雑な出来事だった。
一般的な対処ではない。他にいくらでも言うべきことはあるんじゃないか。当時でもちょっとそう思ったが、高校生なると真似するべきでない態度として認知された。
いずれにせよ、生まれからして邪悪な七三どもは信用しないとしてもだ。
問題の根源であるゼンジは、怒られても懲りない。あいつは何度言っても聞こえてない。会った頃は何度もイノシシの罠に掛かっていて、クリみたいに脳を虫に食われたのではないかと心配して、頭髪の分かれ目に穴を探したものだ。
両親はグリーンフィールド家に友好的で、私はゼンジとよろしくやるように言われた。
彼の家庭は上流でしかも歴史がある家に住んでいる、共同体が歓迎するべき一家なのだ。
上流らしく岐阜の官庁街にでも住んでいれば、ゼンジがこんな蜂頭にならずに済んだはずで、親という自己都合的生物は不変的存在だった。
その両親のおかげで彼の悪癖は変わらず、AI認証を欺き、誤情報を与える模様を道路に刻むことに熱心で、現代魔法を作りたいと言っていた。この試みは、専門家に先進的だと受け止められていた。
これは彼の父親と近い趣味だ。父親は顔認証を誤認させる特殊なフィルターの眼鏡、顔シートなどの裏技を開発していて、本も多く出版している。
むやみにおしゃれな発光機能や、異様に凝ったデザインのスーツは理解しがたいが、認識されたくないという欲求はよく理解できた。
ただし太陽のようなゼンジはこの欲求と無縁だった。月ぐらいでは隠せない。
「日食はどうでもいいのか? お仲間が愉快に盛りあがっているぞ」
「あれは使えそうにないね。遠い話さ」
ゼンジは冷えた言葉を返した。
「何が遠いのやら」
「実体が無いんだよ。そんなことより空の目にテロリストと認識させる動きを考えたんだ、もちろん普通に動ける服装でな。聞くだろ?」
「命が無くなるじゃねえか」
ゼンジの新たな工作の野望が教室に響き続け、一時限目の日本語の授業になった。
教科担任のオサム・ニコニコが入室すると、授業の入りは定番の七十二候からだ。
「腐草為螢――くされたるくさほたるとなる――と言います。腐った草がホタルになるという意味です。昔の人は、ホタルの幼虫を発見できず、草の根元から発生する神秘的な成虫をこう解釈しました。そしてこの候、蛍狩りを楽しみました。はかない光を愛でる、風流ですね。級長戸辺町では、今も正しい時期にホタルを見られます。皆さんは実に恵まれていますね」
気候のことは彼が毎度言う。この街の季節が、昔の標準的な日本――きっと京都あたりと変わらないというのは、好意的な意味と知っていたが、私はマイナスの印象をもって受けとめていた。
なにがなんでも変わらない。地球が変わってもまったく。恐怖である。
話を聞いていると、川の上流の廃屋の庭で咲くホタルブクロが思い浮かんだ
上流は護岸が無く、ホタルもいる。何も恵まれてはいない。こんな事は、うかつに口に出してはならない。友人の誰もが同じことを言ったとしても、私は言わない。
さらにさかのぼり崖沿いの崩れそうな細い道を行くと、ボロボロの廃集落があって、中には家具だとかがほとんど残っている。
そこは背伸びして遠出する私の遊び場だった。
たまにアホな男女ががやってくるので、緊急回避しなければならない。あんなのを見て、自分は年を取っても、ああはならないだろうと思っていた。
つまり私にとってホタルは廃墟と結びついていて、衰退の象徴だった。
しかし大人になってから思えば、全日本の教員が少なからず、そもそも日本語なんてどこで使うのかという学生の疑問に直面しているのだから、現物を経験できる街では説明のやりがいがあるに違いなかった。