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いつかのクライマー  作者: 大田区トロフィーモフ
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曲がらないスプーンと三島さん

 桜並木の暑苦しい葉の茂りを避けて、土手を降りた川沿いを歩くと、夕方の涼しい風が三島さんのゆるいTシャツを膨らませた。

 風に梳かれた黒髪も乱れずになびいている。

 格好に気を使っていないとはいえ、さすが三島さん、美貌がものを言って、河川敷にあふれる有象無象の中に埋もれるようなことはない。

「みんなの調子はどう?」

「相変わらずだよ。好き勝手登って、好き勝手成長してる」

「そう。学園祭は?」

「別に、面白くなかった」

「そう」

 三島さんは緑青色の河水を眺めながら、自分のいない世界のことについて、ぽつりぽつりと訊いてきた。

 その世界に二度と戻らないからなのか、戻るための足がかりの質問なのかは、わからない。

「学園祭、サボっちゃった。怒られるかな……」

「そんなことなんか、気にしなくていいのに」

 だって、三島さんを追い出したのは、クラスメートの皆さまじゃないか。

 ああ、俺はなんで三島さんが学園祭に来てないって知ったときに、まずクラスメートの被る迷惑を考えちゃったんだろう?

 個人を、三島さんを、握りつぶそうとした犯人の集団なのに!

「あの、三島さん。……その、今日まで苦しんでいることに気づけなくって、ごめん……」

 周りに人がいなくなった折を逃さず、俺はどうしても言いたかった、言わなくちゃならなかったこの一言を、三島さんに言った。

 でも、三島さんは俺の言葉を慌てた様子で打ち消した。

「謝らないで! 私からみんなに、アンタにだけは言わないでって、話したんだから……」

「え、……なんで俺にだけは隠そうと?」

 こちらに向けた顔を、また川面に向けて三島さんは言った。

「私を……私の、挑戦だけを見ていてほしかったから」

 いつしか日も沈み、霧雨のように闇が辺りをぼかし始めていたので、三島さんの表情を覗き見ることはできなかった。

 下手に言葉を返すのは野暮だと思ったので黙っていると、三島さんは話し始めた。

「初めて会った日、アンタのバカな行動を見ていたら『この変人なら、私の挑戦を笑わないで聞いてくれるかも』って、思ったの」

 はいはい、俺が竪樋を登る堀田先輩のスカートの中を……って、違う!

 俺はのぞき魔ではないし、バカな行動などしていない!

「最初はやんわり反対されたけど、笑わないで聞いてくれたよね。それが嬉しくって」

 まあ、俺は中二病の素養があるからね。ほかの人に話していたら、相手にしてもらえなかっただろう。

「あのとき、クライミングを一緒にやってくれるって言ってくれなかったら、私の挑戦もそこで終わりにしていたと思う」

「そうだったんだ。……そもそも、なんで三島さんは《不可能への挑戦》だなんて、男に力で勝とうだなんて、思うようになったの?」

 すると、残光にきらめく川面を背に、三島さんはこちらを向いて寂しそうに笑った。

「弱い自分に勝つため」

「自分……? 男じゃないで?」

「うん、見た目から気が強そうってよく言われるんだけど、本当は気が小さくて。それで、別に仲良くないし、話を合わせたりしないのに、女子グループの輪に入り込んでみたりして。嫌われても、なんとか一人にならないように頑張って……」

 そういえば、三島さんを呼びに教室へ行ったときも、グループの中で昼飯を食べていたな。

「結局、グループ内で上手くやっていけなくて、いじめられちゃうんだけどね。集団に対して反抗するのは難しいし。小学生の頃からいじめられてたのに、懲りずに中学生になってもグループに入ろうとして。こんな弱い自分が嫌いだった」

 まったく、この《いじめ》の三文字は、どんな世代でもフナムシのように湧いてくるな。

 そのくせ、リア充が過去を振り返るときは、そそくさと記憶から逃げ去ってしまう!

「だから、まずは肉体を鍛えようと思ったの。誰よりも強く、女子だけじゃないで男子よりも強く。そうすれば、心の強さも後からついて来るって、考えてた」

 そして、自分の部屋をトレーニングルームに改装して、おじいさんが悲鳴を上げたと……。

 なるほど。論理は飛躍気味だけど、クレイジーだから不可能に挑戦しようと思ったんじゃなくて、行き場のない心の叫びが、三島さんを平凡な人間でいることを許さなかったんだね。

「それでも、いくら鍛えても心は強くならなかった。高校生になってもまた、いじめが始まって、クライミングに打ち込もうとしたけど、もう体がついて来なくて、……堕ちちゃった」

「……でも《不可能への挑戦》は、三島さんの中で死んでないんじゃないか?」

「え……?」

「だって、泣いてるじゃん」

いつから、彼女は泣いていたんだろう? 泣いていたことを俺に気づかれると、三島さんは慌てて顔をそむけてしまった。

 泣くってことは、悔しいんだろう。

 まして、それを隠そうとするんだ。

 つまらない連中のせいで、三島さんは家に引きこもるまで追い詰められたんだし、当然だろう。

 いいんだ、それでいい、悔しくていい。

 やつらに怒っていたって、憎んでいてもいい。

 俺はこうしたドロッとした感情は、悪くないと思うよ。

 まあ、中には八つ当たりに走って、赤の他人に危害を加えるようなアホもいる。

 だけど見方を変えれば、怒りや悔しさが《行動》の原動力になっているとも言える、ベクトルを間違っただけだ。

 悲しみやあきらめのように「私が悪うござんした」って、卑屈や無気力に逃げたりしちゃいない。

 それなら、ベクトルの向きによっては、ポジティブな力に変わったっておかしくない。

 早川は貧乏を憎んでいつも上を向いているし、堀田先輩はクライミング部が潰れた悔しさから、俺たちに自由な空間を提供してくれた。

 加藤先輩なんて、嫌っていたはずの赤カーディガン氏に思い切ってぶつかったおかげで、最終的に仲良くなったんだから!

 三島さんだって、悔しいのであれば《行動》の力が胸の中にあるはずだ。

 《不可能への挑戦》だって、その最も《行動》を要求する夢だって、生きているはずだ!

 ああ! 俺がラノベの主人公だったら、もっと理路整然とこの気持ちを、三島さんに伝えられたのかな?

 三島さんの心を動かすこともできたのかな?

 そんな頭脳があったら勢いに乗って、いじめっこも論破して、それで万事解決……になるなんておかしいよな。

 人それぞれの考えや、感情や、意地がある。

 特に、いじめっ子に理屈なんてないんだ。

 説得は意味ないし、俺の頭じゃ解決策まで思いつかない。

 それでも、何とかしてあげたい気持ちがあるから、余計につらい。

 河水が立てる水音に混じって、三島さんのすすり泣く声が聞こえる。

 まさか、このタイミングでいじめっ子グループのことなんて訊けない。

 訊いても、いじめの解決なんてできないんだから、黙っていることしかできない。

 

 まるで、タネがわかっているのに曲がらないスプーンのように、じれったい。

 

 俺にできることと言えば、ただこうして一緒に歩いて行くことぐらいだ、情けないけど。

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