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いつかのクライマー  作者: 大田区トロフィーモフ
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俗物根性(スノビスム)、戦う

 早川があっちの世界に踏み入ってから数日、効果はすぐに表れた。

 もちろん、すぐ服を脱ぐ癖がついちゃったとか、そんなことはどうでもいい。

 どうなったかというと、今までは身長や腕の長さに頼って登っていたけど、小さなホールドにも耐える指の強さを手に入れて、一層強いクライマーになってしまっていた。

 三島さんも追いつくのがやっとなので、俺はお話にならないくらい差が開いてしまった。

 何よりももう、身体の差を言い訳にできなくなってしまった。

「加藤さん、ビレイよろしく」

「わわ、待って、ま、まだハーネスが……」

 トップロープだと当然、クライマーとビレイヤーのペアになるんだけど、日が経つにつれて自然にペアができあがった。

同じ時刻に顔を出す俺と三島さん、七限終わりの早川となぜか遅い加藤先輩、堀田先輩は二階堂さんのビレイで登るか、どちらかのペアに混ざってビレイをしてくれた。

「それにしても、そのオタ趣味なTシャツ。マジでダサいんだけど」

「ここ、これは一般的なウケを狙っていない美で……」

「加藤さん、そんなのいいから早く。ビレイなしで俺が落ちたらどうするの?」

「うう……、お、落ちて死んでくれたら楽になるのに……」

 早川は加藤先輩を舐めきっていたので、だいたいタメ語を使っていた。

 ……まあ、加藤先輩も早川に対して、辛辣な愚痴をこぼしているけど。

 そんな早川だけど、ビレイヤーは堀田先輩だと自分より上手いので却下、俺は人間的に信頼できないから却下、三島さんはビレイ中に片足スクワットして時間つぶしするから却下していたので、なんだかんだ言って、いつも加藤先輩のビレイに頼っていた。

「すみも、よく早川の圧力に耐えるね」

「あれ、三島さん、いつの間に先輩とFirst nameで呼び合う仲に?」

「女子はみんな、名前で呼び合ってる。別に、部活じゃないし」

 まあ、そうだけど……。女の子の、こういう柔軟性ってうらやましいよね。

あれ、そしたら、先輩だなんて呼んでいるのは俺だけか? あんなに上下関係を面倒くさがっていた俺が一番堅苦しくって、馴染めていないんじゃないか!?

「じゃあ、手始めに三島さんのことをFirst nameで呼んでもいい?」

「やだ、キモイ。あと発音よすぎて、キモイ」

「お、おう……」

 あれかな、照れ隠しってやつかな? まあ、ゆっくり馴染むとしよう。

 俺がそんなどうでもいいことに気を揉んでいる頭上で、早川は大会に向けて淡々と、持久力をつけるために連続して壁を登っていた。



 さて、海野カップはゴールデンウィークの最終日に、我らがクライミングジム・よしこで開催された。

 俺は、ゴールデンウィーク中は登りに行かなかったので、みんなと会うのも久しぶりだ。

「あ、川内君! 早川君成長しちゃったよー、ゴールデンウィーク中何してた?」

 堀田先輩と加藤先輩は先に来ていて、早川はもう中で準備しているらしい。ということは、来ていないのは三島さんだけみたいだ。

「何をしていたか、ですって? フッ、女遊びとギャンブルを……」

「そ、それって、スマホの美少女ゲームに課金してただけでしょ?」

「ちょ、加藤先輩、なんでわかったんですか!? ネタばらしが早すぎます!」

「わた、私も課金してたから……」

 よかった、休日を架空の世界に浪費する廃人仲間がここにも!

 そんな俺らの後ろから、架空の世界どころか、現実をも軽蔑するような眼をした三島さんがやって来た。

「おはよう、……機嫌悪い?」

「寝起き」

「そう……。三島さんは休日どうしてた?」

「家で筋トレ」

「そう……」

三島さんも来たので中に入ると、なぜか受付の奥にはブルーシートがかけられていた。

「なんでブルーシートが?」

「選手が事前にルートを、カンニングしないためにあるの」

「……扉があるじゃないですか」

「うーん、クライミングの大会ではよく使うから、クセでつけちゃったのかな?」

 なるほど、習慣の弊害ってやつだね。

 で、そのブルーシートをくぐると、中にいるのは大会の運営者やスタッフたちで、観客はあまり多くない。初心者向けの大会だし、見るよりも出たほうが面白いだろうからね。

 壁にはビニールテープが汚らしく貼られていて、どうやら大会のルートで使うホールドを、そのテープで囲って指定しているらしい。

「早川はどこにいるんですか?」

「アイソレーションルームにいるよ。ボルダリングルームを使ってて、今は文字通り隔離されちゃってるの」

 隔離までしてルートを見せないようにするのか、カンニング禁止ってわけね。……それにしても、アイソレーションルーム(隔離部屋)って、なんか響きが中二的でカッコイイね。

 競技は予選と決勝に別れていて、どちらもトップロープ方式だそうだ。

「それで、まず選手たちは六分間だけルートを観察するの。オブザベーションって言って、頭の中でどうやって登っていくかイメージして、手順の計画を立てて、それからアイソレーションルームに戻って、競技開始! 登る時間は六分以内!」

「自分が登るときまで、隔離されるんですか?」

「見たら、どうやって登ればいいかわかっちゃうもん。登り方も含めて競技で、誰の登り方も見ない! 初見で落とすと《オンサイト》って言って、クライミングで一番価値があるの」

 なるほど、初めてのルートを大切にする。つまり、クライマーは処女厨ってわけか!

 競技開始時間になると、三十人くらいの選手たちがボルダリングルームから降りてきて、登る壁を後ろにして並んだ。合図があるまで、ルートを見ないための処置なんだろう。

「あ、早川発見。すっげー緊張してる!」

「い、今は、話しかけちゃ、だだ、ダメだよ」

 この加藤先輩の注意に被るようにタイムキーパーが合図すると、オブザベーションとやらが始まった。

選手はパントマイムのように手を動かしていて、みんな脳内で必死に登っているようだ。

 気になるのは、参加選手の年齢のバラツキだ。見るからに進学を機に登り始めた選手に加えて、始めた時期は自己申告でいい、社会人のおっさんや頭の悪そうなギャル、などなど。

確かに、賞品狙いのクライミング歴詐称があってもおかしくなさそうだ。

 さて、競技が始まると思った通り、ちょこちょこと怪しいクライマーもいたけど、だいたいは下手くそな新人クライマーで、初めての大会を楽しむように気楽な表情をしていた。

 大会のスタッフや見物者も心得ているので、誰が登ろうとガンバガンバと応援していた。

「これってもしかしたら、早川は余裕で入賞しちゃうんじゃないですか?」

「落ち着いて登ればねー」

「お、落ちろ……」

「な、加藤先輩はなんで呪ってるんですか!?」

「ひ、日ごろバカにされてるから、……ダ、ダメだったら鬱憤晴らそうと思って」

 普段よく耐えてると思ってたけど、実はこんなにブラックになるほどストレスが溜まっていたのか……。

「来た」

 三島さんの向けるまっすぐな視線と対照的に、どこかよろよろと落ち着きのない、普段と明らかに違う様子の早川が入ってきた。

「あいつ、あがっちゃってますね」

 右手右足を同時に出すようなベタな緊張はしていなかったけど、部屋に隠してあったはずのギャルゲーが見つからないくらい、深刻な顔をして壁に向き合っていた。

 加藤先輩はそんな早川の様子を気にも留めず、スマホでムービーを撮っている。バカにするための、証拠物件として撮っているようだ。

「……行きます」

 ビレイヤーに小さく声をかけて壁に取りき、早川にとって初めての大会が始まった。

「ガンバ―!」

 開始早々、早川を落ち着かせるために堀田先輩が声をかけたのに、本人は何も聞こえていないらしく、足を生まれたての小鹿のように震わせて登っていた。

 この早川の様子から、初大会の緊張を思い出したのか、周りで見ていた人々も応援を始め、会場内は動物ドキュメンタリーの出産シーンを観るような、謎の感動に包まれていた。

 だけど早川は、なぜか壁を二メートルほど登ったところで止まってしまった。

「あー、持ち替えに気づいてないね」

 早川は右手で、ガバッとしっかり握れる《ガバ》と呼ばれるホールドをつかんだまま、どうやって登っていけばいいのか、迷っているようだった。

 傍目八目と言うように、傍から見ていれば次のホールドが遠く右方にあるから、早川がしがみついて戸惑っているそのホールドを、右手から左手に持ち替えて、そのまま登ればいいだけなんだけど……。

言っちゃえば、右手で茶碗を持った老人が、これまた右手で箸を取ろうとして困っているような感じだった。頭が真っ白になったのか、そんな単純なことにも気づいていないらしい。

「……なんか、歯がゆい」

「ヒメちゃんだって、大会に出たらあんな凡ミスしちゃうかもよ? 応援してあげないと!」

「お、応援で乗り切るレベルの、問題じゃない気が……」

 加藤先輩の言うように、これは頑張れと鼓舞して切り抜けるレベルの問題じゃないね。俺らが指差して教えてあげられるなら、お互いスッキリするのに……。

 見物人もやけっぱちに「ガンバガンバ!」とまくし立てていたけど、早川はいたずらに意味のない動きをして、制限時間を浪費しているだけだった。この衆人環視の羞恥プレイ!

「残り一分!」

 さすがにタイムキーパーの声には気づいたのか、五分も壁にへばりついていた早川は、手順をすっ飛ばして、届くはずのない遠いホールドに手を伸ばし、その姿勢のままあっけなく落ちてしまった。

 この世界一静かなイカロスの墜落に、会場内はなんとも言えない空気になってしまった。


「ざ、ざまああああああああ!」


 ……加藤先輩一人は歓喜していたけどね。ほかの人たちはというと、これだけ粘ってたかだか二メートルほどのどうでもいいところで落ちたから、ため息すら出なかった。

「これは、……慰めたら逆にまずいのかな? 川内君、何か言ってよー」

 そりゃ、聖母の堀田先輩も持て余しちゃうよね、黒歴史誕生の瞬間だもの。

「軽く労うくらいでよしたほうがいいと思います……。あと、加藤さん。スマホ没収」

「えええ!? なな、なんで、せっかくの証拠物件なのに! や、やつの恥ずかしい姿……」

「残念、もう消しました。早川からのストレスは、もう少し健全な方法で晴らしてください」

「……うう、くやしいのう」

「加藤先輩、黒歴史っていうのは、物理的に残ることが一番つらいじゃないですか……」

 そこへ、うつむきがちに早川が帰ってきたので、俺ら四人の緊張度はMAXに。

「お、お疲れ……」

「ハハハ、なんで川内が緊張してるんだよ。僕が大会に出たんだぞ?」

「ま、まあね、アハハ……」

 早川は少しも落ち込んだ様子を見せていないけど、安易な応対はまずそうだ。

「たぶん、これじゃあ予選落ちだろ。結果を見るまでもない」

「あの、早川君。次の大会で頑張ろっ?」

「ありがとうございます、堀田さん。毎日あれだけ登ったんだから、次はいけますよ」

「トレーニングなら、協力する」

「ありがとうございます、三島さん。次は結果出します」

「ざ、ざまぁ……」

「ありがとうございます、加藤さん。次は頑張ります」

 だめだ、すでに思考が死んでいる……! 早川の動力源、プライドが枯渇している!

「入賞したら、打ち上げでもしようかと思っていましたけど、今日はもう帰りましょう。まだ午前中だから、各々ゴールデンウィーク最後の休日を楽しんでください」

 そう言って、微笑んで目を細めた早川は、俺らが休日にわざわざ来てくれたことを改めて感謝し、このまま昇天しちゃうんじゃないかと心配なほど、静かに出て行ってしまった。

「……というわけで、解散だー!」

「お、おーう……」

 堀田先輩がやけっぱちで明るく宣言したのを機に、なんとなく気まずい俺らは、決勝戦も観ずに帰ることにした。そして、各々休日を楽しむために散っていった。


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