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いつかのクライマー  作者: 大田区トロフィーモフ
20/48

夜の宴 その2

 一旦外へ出て夕食を食べに行き、俺らがクライミングジムに戻ってきたときには、もう夜の十時近くになっていた。

 堀田先輩は、俺らが夕食に行くときに家に帰ったので、残ったのは一年生の三人だけだ。

「川内はいいとして、三島はこんな時間まで付き合って大丈夫なのか?」

「うん、ヘンタイと家の方向が一緒だから、護身用に連れていく」

「おい、俺を犬みたいに扱うな!」

 いや待て、三島さんと一緒に帰れるってことか? なんだ、夜って素晴らしいじゃないか!

 それから俺らは更衣室へ行き、着替え終えて階段に足をかけると、上階の、おそらくボルダリングルームから、不明瞭な叫び声のようなものが聞こえた。

「……なんか、聞こえなかった?」

「別に、三島は聞こえたか?」

「さあ?」

 なんだ、俺の幻聴だったのか? ……いや、やっぱり何かが上から聞こえてくる。

「んんんんんんんん!」

「きえええええええ!」

「アレ! アレ!」

 今度ははっきりと聞こえたぞ! やけに野太くって、力んだ意味不明な叫びと変な呪文が!

「おい、川内……。俺にも聞こえたぞ……」

「どうやら、これは幻聴なんかではないな……」

 それでも、なんとなく引き返そうと言い出せなくて、俺らはボルダリングルームの扉の前まで来てしまった。

「早川や、本当に扉を開けてしまうのか?」

「仕方ない、ここまで来たんだから……」

 そして、早川がドアを一センチほど開けた瞬間、……


「アッーーーーーー!」


 間違いなく、この悲鳴はヤバイやつだ! いろんな意味で!

「まずい、川内、逃げるぞ!」

「ちょ、何だよ今の奇声は!」

「きゃあ!」

 後ろで三島さんが叫んだので、一体何事かと目を向けると、階下からサングラスをかけた、上半身裸の男が頭を振りながら上がって来た。そいつの正体は……

「……って、あれ? 二階堂さんじゃないですか」

「YO☆」

……うぜえ。

「二階堂さん、一体ボルダリングルームでは何が? というか、なんですかその恰好は!?」

「上裸パーリー☆」

 見ればわかるよ! それに、あんたの頭はいつもパーティー状態じゃねーか!

「みんなも、今夜の、素面の、ボルダーの、コンペに、参加する?」

「……コン、ペ?」

 二階堂さんの言葉によれば、どうやら夜中のクライミングジム・よしこで行われている《夜の宴》とやらは、疲労のピークのせいでナチュラルハイになった野郎共による、ボルダリングの競技会らしい。

 仕事帰りの、趣味クライマーからプロクライマーまでが、その日の気分やノリによって、とりあえず参加して(そして服を脱いで)、とびっきり難しい課題に挑戦しているようだ。

 けど、このなんてことのないオチを聞いた後でも、ボルダリングルームに満ち溢れた上裸の男たちを見たら、ゲ○パーティーにしか思えないという、視覚上の神秘……。

「あー、二階堂さん!」

「お、二階堂さん。来たか」

「ちゃっちゃと、落としてほしい課題があるんだ」

 どうやら二階堂さんは、ここに集う筋肉質の連中に一目置かれた存在みたいで、ボルダリングルームに足を踏み入れると、先ほど奇声を発していた筋肉質の変態たちが群がってきた。

 それは確かに、堀田先輩の言うように動物園じみた光景だった。

「教えて、教えて☆」

 チョークバッグに手を突っ込んだまま、二階堂さんは悪ふざけとしか思えない、薄い本ほどの厚さのホールドが、次々と指定されるのを見ていた。

 あんなホールドに指をかけたところで、人間の体を支えることなんてできるのか?

「二階堂さん、一つの文句も言わないな」

「うん、あの人も変態っぽいからなあ……」

 人類が登れるとは思えない課題を聞き終えた二階堂さんは、徐々に頭の振りが少なくなり、揺れが止まると同時にスタートホールドに手をかけ、登り始めた。

その二階堂さんの背は、魚の鱗のように細かく隆起した筋肉をまとっていて、堀田先輩の流れるような登りと違い、瀕死のセミのような、静止と爆発的な動きの繰り返しで、超人的な登りをしていた。

 俺らの聞いた、「うっ!」とか「ああん!」といった、訳の分からない変態的な吐息の正体は瞬発的な動きをするたびに思わず漏れる、クライマーのうめき声だったようだ。

「アレ! アレ!」

「はい、ガンバ! ガンバ!」

 そして謎の呪文の「アレ」は、応援に使う「ガンバ!」のフランス語バージョンらしい。

 こういうのに感化されやすい早川も、さっそく「アレ!」と言って、応援の輪に加わってしまった。

これは、服を脱ぐのも時間の問題かもしれない。

早川に対して、俺は年の近いやつが活躍してるとヘコむタイプなので、二階堂さんのすごい登りを見ていると、だんだん萎えてきてしまった。

「どうしよう、三島さん。早川があっちの世界に行きそうだけど」

「私は、このむさくるしさから脱出したい……」

 ボルダリングルームは、ここのオスたちの発汗のせいなのか、天然のサウナ状態だった。

「女子も、初心者も、ノーボーダー☆ 変態に、なろう、のーぼーろっ☆」

 いつの間にか背後には、一登り終えて見事な逆三角形の上半身を汗で輝かせた、宴のホストである二階堂さんが立っていた。

 そして、その後ろから群がって来るナチュラルハイの変態、変態、変態!

「いや、あのう、……もっと精進してから出直します!」

「登ろうYO☆」

「いえ、いいです! 帰ろう、三島さん!」

 結局、俺と三島さんは、もっとクライミングが上手くなりたい気持ち(と早川)を放り出して、一緒に逃げ出してしまった。

 夜の宴という、羅生門をくぐった早川の行方は、誰も知らない。……



 ――その三島さんとの帰り道。

「早川君、頑張ってるね」

普段は無愛想な三島さんだけど、二人きりになると話しかけてくるような気がする。

「大会が近いからね。俺はもう、手のひらのマメが痛すぎて無理」

「私も。でも、手のひらじゃないで、指先の皮がボロボロになるような課題を登れって、二階堂さんに言われた」

 三島さんの手を見ると、前に見た小さな雪片のような爪は短く切られ、いくつか小さなマメもできていた。三島のおじいさんが嫌がりそうな手、クライマーの手になりつつあるようだ。

「ねえ、早川君が頑張ってるのは、前に言ってた家の事情が関係しているの?」

 川風に吹かれながら、三島さんは真面目な調子で切り出した。

「まあ、そうだろうな」

「大会で勝てば、私たちが知らなくてもいいこと?」

あいつはプライドが高いからな、勝手にプライベートを話してしまうのは、よしておこう。

「早川の考えだと、そうなるかな」

「そう、じゃあ聞かないでおく」

 そう言うと、あとは二人とも三島さんの家に着くまで、黙って歩いた。

「護身ご苦労様。また夜遅く帰る日は、アンタを家まで散歩させるから」

「だから俺は犬じゃない!」

「冗談、またね」

 三島さんは別れを告げると、くるりと反転、スカートを花と咲かせ、邸へと続く薄暗い小道を帰って行った。

 ああ、三島さんが最後に言った言葉!

 俺はついに彼女と、冗談を交わせるだけの仲になったわけか。

サッカー部の連中に自慢してやろうか?

 早川が懸命にクライミングに取り組んでいる間、俺はこうして浮かれていた。

 当然、二人のクライミングのレベルは開いてくるわけで。……


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