海の中道
青春の志賀島
青春という血潮の余熱にうなされて、人生の黄昏を迎えてなお、性懲りもなく、明日を夢見て、いつまでも見苦しくあがき続ける者たちへこの物語を捧げる。 屯田 水鏡
一 海の中道
高橋賢一は夢を見ていた。夢を見ているのだという自覚があった。
その夢は、漆黒の闇の向うで繰り広げられる、幼い日の遠い記憶であった。
母が泣いていた。
小学校に入学したばかりの頃の出来事であった。
職員室から走り出て来た教師は、声が良く通るように両手で口を挟み、大声で叫んだ。
「賢一、家に帰るのよ。タクシーを呼んだから、早く準備をしなさい。何をぐずぐずしているの。さあ、早くこっちに来て。さっさとしなさい」
悲鳴に似た声がグランドいっぱいに響き渡り、みんなが振り返った。
男性教師に尻を押してもらって、逆上がりの練習をしていた賢一の耳にもその声は届いた。
着替えを済ませて賢一は、教師と二人で小学校の校門の側でタクシーの到着を待った。
教師は、浅黄色の透けるようなツーピースを着ていて胸の所で結んだ同じ浅黄色の細長いネクタイを両手でもてあそびながら、黙って空を見上げていた。
薄青色の空には、綿雲が一つ、ぽっかりと浮かんで、北へ流れていた。
明るい日差しの中、校庭の桜は満開で、花びらが、時折ひらりと枝を離れては、ゆっくりと舞い降り、地上に届く寸前、肌寒い風にさっと拾い上げられて、くるくると宙を舞っていた。
教師は校門を出たすぐ外で手を挙げ、砂塵を上げてやって来たタクシーを止めた。
顔見知りの運転手だったらしく、しばらく冗談を言い合い、スカートのポケットから小銭を取り出して、笑いながら運転手に手渡すと、振り返って賢一を手で招き、急き立てるように後部座席に乗せ、肩に手を置いて賢一の顔を覗き込んだ。
「先生も一緒に行きたいの。でも、授業があるから行けないのよ。一人で大丈夫よね」
賢一は座席に座りながら黙って頷いた。
運転手は、終始落ち着きなくハンドルを動かしていたが、窓に肘をかけて、後ろを見ながらエンジンを吹かせ、荒々しくUターンをすると、教師に向かってちょっと頭を下げて、ギアを入れ替えた。
車が走り出してすぐに後ろを振り返ると、教師の後姿が赤煉瓦の門の中に消えるところであった。
学校を少し離れると、菜の花畑が一面に広がって、黄色が目に染みた。
菜の花に埋れた狭い砂利道をしばらく走った車は、集落に入ってすぐ右に曲がり、古い家並みを過ぎて、松林の中を二度ほど曲がり、登り切ったところにある神社の鳥居の前で、音を立てて止まった。
運転手が舌打ちして振り返った。
「ちっ、狭いな。ここで良いだろ?坊やの家の近くは道が狭いので、帰りは、ずっとバックで戻らなくちゃならん。悪いなあ、ここで降りてくれ」
運転手は強制的に賢一を降ろすと、急いでハンドルを切った。車は、小砂利を跳ね飛ばして、巻き上げた砂塵の中を走り去った。小砂利が、半ズボンから覗いている賢一の膝をかすめた。
上履き袋の紐を摑んで円を描くように、くるくると回しながら歩いて来た賢一は、家の前で立ち止まり、玄関の硝子戸の上方を見上げた。そこには「忌中」と書かれた和紙が貼り付けてあった。
〈何と読むのだろうか〉そんなことを考えながら、ガラス戸をそっと開けると、中には黒い服を着た大勢の見知らぬ人達がいて、いっせいに賢一の方を振り返った。
その向こうの畳の部屋には、布団に横たわる父、そして、その側で泣いている母の姿があった。
部屋の障子と襖はすべて取り払われて、さして広くない家の中が一目で見渡せた。
「ああ、帰って来たわ。ささ、賢ちゃんこちらへ。お父さんのところへ」
賢一は、以前どこかで会ったことのある女の人に手を引かれて、父の枕元に坐らされた。父は、なぜか、時代劇映画に出て来るような、真っ白い旅装束をしていた。
胸のところで不自然に組まれたその手には、数珠が握らされていた。
「さあ、お父さんの顔をしっかりと見ておきなさい。お別れよ」
女の人は、父の顔を覆っている白い布を取り上げた。
みんなが父に向かっていっせいに手を合わせた。すすり泣きと、数珠の擦れる音がした。
枕元に置かれた小さな香炉に建てられた数本の線香から薄紫の煙が立ち上り、その臭いが鼻についた。
「お父さん、どうしたの?」
賢一は小さな声で話しかけた。しかし、父は何も答えなかった。
「この頃少し良くなったと思ったのに、急だったのね」
女の人は、ぽつりと呟き、両手を額において、顔を隠しながら、肩を震わせて、声を出さずに泣いた。
顔は知らないが、たぶんこれが自分の親戚であろう人達が大勢集まって、あるいは互いの無沙汰を詫び、あるいは久し振りの再会を小さな声で囁き合って、時には笑い声が漏れていた。
すぐ隣の洋間を占拠している子どもたちが、大声で歌ったり、けんかをしたり、走り回ったりしたりして、大人達が何度叱っても言うことを聞かない。
弟の次郎が知らない子供の背中に乗って奇声を発している。
賢一は思っていた。こんなに大勢の人が我が家に集まっている。何て賑やかで楽しいのだろう。いつもは、母と自分と次郎、親子三人ひっそりと静かに暮らしてきた。毎日がこんなに賑やかで活気が合ったら本当に良いのに、と。
けれども、母が泣いている。そして、体の底から絞り出すような声で、家族を残して旅立つ父に恨みの言葉を浴びせかけている。父は何も答えない。そして動かない。
どういう病気なのか知らないが、賢一が物心付くずっと以前から父は入院していた。
だから、彼にとって父親は、時々会いに行くだけの遠い存在でしかなかった。
家族の一員として生活を共にしている父を賢一は知らない。父親の温もりを知らない。
いつだったか、誰かが父親とのキャッチボールを題材にした作文を読んでいた時、彼にはその楽しさが理解できなかった。
年に何回か、母に連れられて父に会いに行った。
その日の母は、普段よりも少し早めに起きて鏡の前に座り、しばらく鏡の中の顔を眺め、それから、薄く化粧をし、小さな鉛筆のようなもので眉を書いて、最後に口紅を塗ると、唇と唇を合わせて、ぷっと頬を膨らませ、目を大きく開いて、また鏡の中を覗き込み、鏡の中の自分をじっと見つめた。
それから、母は、むずかる弟の次郎をあやし、時には叱り付けながら、手際よくひょいと負ぶって、賢一の手を引き、バスと電車をいくつか乗り継ぎ、山の麓にある病院に入院中の父に会いに行った。
「賢一、大きくなったなあ」
父は、賢一に会うたび、真っ白いベッドの上に身を起こし、にっこりと笑って眩しそうに眺め、賢一の手や顔を白くて皺の多い細い指で何度も触っては呟くように言った。
賢一は父に会うのがとても嫌だった。
父のいる病棟に向かう広くて長い階段の両端の棚には、水溶液に浸けられた標本が、円筒形の大きな透明の瓶に詰められて、いくつも並べられていた。
その中には、明らかに人間の臓器らしきものや、生まれる寸前の胎児の死骸ではないかと思われるものがあった。
それらを見た時の気持ち悪さと恐ろしさに、思わず母にしがみついたことを覚えている。
そして何よりも嫌いだったのは、病院の臭いであった。鼻をつく、どうしても我慢のならない、あの消毒液の刺激臭であった。
「大岳いらっしゃいませんか?大岳、お降りの方はいらっしゃいませんか?通過します。次は大岳松原」
賢一は、ワンマンバスの運転手の少し鼻にかかった気だるい声によって、暗闇の中からぐっと引き戻されるように目覚めた。
いつもの夢であった。父の葬儀の記憶、鮮明な、それでいて、まとまりのない漠然とした記憶であった。
父の死から、すでに十年以上の月日が流れ去っている。今ではその顔も思い出せない。母は、時々、茶色く変色したモノクロ写真を取り出して、賢一と弟の次郎に見せた。そこには若い母と父が肩を並べて笑って映っていた。
しかし、賢一は興味が無かった。というよりも父のことを思い出すことが、なぜかひどく面倒くさかった。そんな自分が、なぜ今頃になって、こんなにも頻繁に父の夢を見るのだろうか。あの時代がかった奇妙な白装束で旅立った父が、黄泉の国から、何かを語りかけているのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。同時に、違和感と胸苦しさを覚えていた。眠りから覚めてはいるものの、気を抜くとそのまま果てしない暗闇の中へと舞い落ちて行くような感覚であった。不意に胸を突き上げるような嘔吐と目眩に襲われた。〈バスに酔ったのか?〉慌てて立ち上がろうと立ち上がろうとしたが、体は動かなかった。
目覚めているにも拘らず、まるで全身の筋と神経が身体からすっぽりと抜き取られたかのように、自分の意志が自分の体に伝わらない。我が身が甲冑を纏っているかのように重たかった。
意識は、はっきりとしている。目も見える。声も聞こえる。しかし、体が動かない。何者かの手が背後から伸びて来て、両の肩を、爪を立てて、ぐいと摑み、仰向けのまま、闇の中に引きずり込もうとしているように感じた。
バスの中は、つい先ほどまで満員であったが、乗客の姿はいつの間にか消えて、数人が残っているだけであった。
〈誰かに助けを求めようか?〉賢一は自分に問いかけた。そして、声を出そうとした。しかし、声が出ない。動転する意識は彼を慌てさせた。まるで、蟻地獄に落ちてもがく獲物のように、顔を引きつらせて苦悶する賢一の叫びは声にならなかった。乗客が喋りながら笑っている。その若い女性は、並びの良い白い歯を見せて賢一をチラリと見た。そしてまた、笑いながら、会話を続けた。
何度も大きく息を吸い、そして、吐いた。さして暑くもないのに、粘り付くような汗が体中から吹き出して、だらだらと流れた。
〈完全には身体が目覚めていないのだ。しばらく放っておくしかない、落ち着け〉
平静さを取り戻そうと自分に言い聞かせた、その時であった。
前方から来た大型ダンプカーと離合するため、バスは道路の脇へ寄った。
側溝の蓋がカタカタと鳴ったかと思うと、突然、ドスンという音がして、バスは縦に大きく揺れ、体が少し跳ね上がった。乗客が小さな悲鳴をあげた。
バックミラーに映る運転手は、素知らぬ顔で、何事もなかったかのように、無表情に運転を続けていた。
衝撃のためであろうか、指先がぴくんと動いた。ようやく自分の意志が体に届いた瞬間であった。氷が解けるように、少しずつ動くようになった手を学生服のズボンのポケットに突っ込んで、やっとの思いでハンカチを取り出して額と首筋に流れる汗をゆっくりと拭いて気分を落ち着かせた。
徐々に体の自由を取り戻すに従って、恐怖はゆっくりと遠のいた。同時に、どうしたことか、今度は、漠然とした理由の分からない不安が賢一の中に生まれた。取るに足りないと思うほど小さな暗い一つの点でしかなかったその不安は、立ち上る積乱雲のように異常な速さで膨張し、いつか巨大な黒い塊となって賢一の身体と精神の隅々まで広がっていた。
その黒塊の中を、身も心も凍り付くほど冷たい風が吹き抜けて行った。
〈これは、父が遥か異界から発している自分へのシグナルなのか?〉賢一は漠然とそう感じた。
〈ああ、父さん。あなたは僕に、あなたの死以外、何の記憶も残してくれなかった。あなたの言葉も温もりも何一つ思い出せない。もしもあなたが、遠い黄泉の世界から現世の僕に呼びかけているのなら教えてください。いったい、僕というこの不可思議な存在は、何なのでしょう?僕は、はたしてこの世に生まれ、生きている価値のあるものなのですか?いや、それ以前に、存在すること自体が許されるのでしょうか?僕はほんとうに祝福されてこの世に生まれ出でたのですか?それとも、何かのはずみによって誤って生まれ出ただけなのですか?この世に生まれ出る自分を待ち、喜んで迎え入れてくれた人がいたのですか?僕はいったいこの世で何をすれば良いのですか?それとも何もしてはならないのですか?父さん、人はいったいどこから、何のためにこの世に生まれ出て、どこに行くのですか?教えてください〉
人がこの世に生まれてくるのは、何かを行うためなのだろうか、それとも、ただ漫然と何もせずにこの世に存在し、何もしないまま死んでいくのか。いったい自分がこの世に生かされている意味は何なのだろう。何かの役に立っているのだろうか。自分自身の存在の意義。考えれば考えるほど分からなくなる。もう、考えることにも疲れた。うんざりだ。
賢一は、今まで生きて来た十八年の間かつて経験したこともないほど、どうしようもない虚しさと寂しさに取り込まれていた。まるで、光も音もない無限の宇宙空間の中に浮かび、漂っている屍のように。無性に寒かった。このままどこかで誰にも邪魔されず、ほんの少しの間で良い、この冷え切った精神を暖かい陽だまりの中で解きほぐすことが出来たならばどんなにか良いだろう。いや、いっそのことそのまま静かに眠るように死ねれば良い・・・。決して人生に絶望した訳ではない。なぜ、人は生まれ、生き、死ぬのか。人生については不可思議で分からないことだらけである。自分がこの世に生まれて来た、その意義を知りたい。たとえ、真の意義を知った時、絶望するとしても。だが、今はなぜかとても疲れて、生きることが耐えがたいほど面倒臭く感じた。
窓の外は快晴であった。松の緑が鮮やかに輝き、十一月の空は光に溢れていた。大小の濃い緑の松林がバスの左右のすぐ近くまで迫って、その枝葉が時々車窓に触れた。バスはまるで緑のトンネルの中を走っているようであった。木漏れ日が踊るように煌めき跳ねていた。
「大岳松原いらっしゃいませんか?いらっしゃいませんか?通過します。次は志賀島、志賀島」
相変わらず気だるい声が乗客のほとんどいなくなった車内に響いた。
徐行していたバスが乗降客のいないことを確認して再びスピードを増したとき、松林が途切れ、視界がさっと開けた。青い海が遥か彼方まで広がっている。バスは大海の真っただ中に飛び込み、まるで波を切り裂いているかのように進んでいる。初めて志賀島行きのバスを利用する誰もがそんな経験をするに違いない。
バスが大海の中に埋れるような細長い道を走っているからなのである。青海原の中に忽然と現れるその道は左に少し曲がり、それから僅かに右にカーブして目指す志賀島まで続いている。「海の中道」である。
「海の中道」によって切り分けられた海は左右で異なっている。
志賀島に向かって左側は物静かな内海、博多湾である。波は、湖のような静けさで岸を舐め、光の加減で時に水銀のように鈍く光る。その向こうには、福岡市の中心街、香椎、中洲、天神、それから、近年、海を埋め立てて、新しい街づくりの始まった百道浜に林立するビルの群れが霞んで見える。
一方、右に目を移すとそこは玄界灘。青い波が、白い砂浜を駆け上るように打ち寄せている。
一組の男女が手を取りあって、眩い光の中で、波と戯れている。波は時折、うず高く巻きあがって、気高く白い飛沫を飛ばして激しく岸に打ち寄せる。飛沫は気泡となって風に乗り、賢一の乗ったバスにも飛来してきた。
遥か遠くに相ノ島が見える。相ノ島は、江戸時代を通じて徳川将軍の代替わりのたびに来日した朝鮮通信使を福岡藩が接待をした場所として知られる。
相ノ島の右手向うに大島が、そして名も知らぬ島々や半島が海に青く浮かんでいる。
玄界灘。深い青緑の水を満々と湛えた澄み切った海と美しい島影は見る者の心を捉えて離さない。が、ひとたび北西の風が吹けばその表情は一変する。波高く、波頭は白く荒れ狂い、人を寄せ付けず、それでも漕ぎ出す者があれば、容赦なくその命を飲み込み海神の贄とした。
こうして、「海の中道」によって切り分けられた内海と外海はそれぞれ対照的な顔と性格を持つ。そして、「海の中道」の終着点、そこに志賀島がある。
太古の昔、志賀島は陸地から遥か遠い玄界灘に浮かぶ絶海の孤島であった。
そこには祭祀を司る神々とその子孫だけが住んでいたのだろう。神々とその子孫は一族だけに伝わる儀式や祈りで海神の怒りを鎮め、潮の動きを正確に読み、巧みに船を操って海上交易を支配していたに違いない。
人々は、遠く波間に浮かぶこの神の島を、額に手をかざしてただ眺めるだけであったであろう。
ところが、気まぐれな海神の悪戯によって引き起こされた潮流の変化は北部九州の一端に砂州の卵を生み出した。それは浅瀬や岩を結びつけて生き物のように成長し、数千年、いやそれ以上の気の遠くなるような時間を費やして大海を切り裂き、和白、奈多、雁の巣、西戸崎と呼ばれる地域を形成しながら伸びて行き、遂には志賀島まで達した。
その時、砂州は玄界灘から荒々しい海の一部を切り取って、波静かな博多湾を造り出すとともに、自らは志賀島に達し、「海の中道」となったのである。その時から、人々の往来は始まり、志賀島はもはや絶海の孤島ではなくなった。と同時に神々の島でもなくなったのである。
晩秋の空はどこまでも青く晴れ渡っている。
ジャンボジェット機が、銀色の羽を少し傾けて、海の中道の上空を過って行った。