二 出会い
二 出会い
賢一は、母の使いで、志賀島の叔父の家まで行くところであった。叔父は母の兄である。
志賀島バス停には従兄弟が迎えに来ていた。従兄弟は、バスが到着する前からバスの中に賢一の姿を見つけて、大きく手を振っていた。
「やあ、来たな、賢さん」
従兄弟は、バスから降り立った賢一の手を強く握って、にっこりと笑った。
坊主頭で日焼けした精悍な、しかし彫りはさほど深くない、顔には満面の笑みを浮かべ、その目は親愛の情と悪戯っぽさに溢れていた。半年ほど前に会った時よりも少し身長が伸びて、ますます逞しさを増していた。相変わらず大きくて力強い手で賢一の手を包み込んだ。彼の名は折居春雄といった。
「久し振りだなあ。賢さんの到着が待ちきれなくて、さっきからここに立っていたんだ。バスめ、十分、いやそれ以上遅れて来やがった。バス会社ってやつは志賀島を田舎と思ってなめてんじゃないか?タイヤを蹴飛ばしてやろうかと思って近付いたら、バスのタイヤって、そばで見ると思いのほかでかいものだなあ。一瞬、勝てるかなあって思ったぜ、賢さん」
「バスのタイヤを相手にケンカしようなんていう発想、いったいどこから出て来るんだい?それに、べつになめてはいないと思うよ。途中、混んでいたのが遅れた原因だよ。まあ、そう怒りなさんな」
相変わらず、直情傾向で猪突猛進的な春雄の言動には驚かされる。
「ところで、賢さん、俺が手を振っていたの、分ったかい?」
「うん、すぐに春ちゃんが手を振っていると気付いたよ。『ほら、あそこ、誰か手を振っているよ』なんてバスの乗客の誰かが言っていたので、何だか恥ずかしくてね。僕は素知らぬ顔を決め込んでいたよ」
「賢さん、そりゃあつれなかろうぜ。従兄弟であり、親友でもあるこの俺が、しかも、こんな良い男が手を振っているんだ。恥ずかしいなんて思わずに、手を振ってくれても良いんじゃないかい」
世の中の出来事を、屈託なく自分の都合で割り切って考えるのは春雄の特徴であって、長所なのか短所なのか賢一には判別できない。
こういう風に相手の迷惑を思慮の圏外に置いている彼に対して、我慢することと常識の中で育った賢一は、ある種の尊敬さえ覚えるのであった。
「まっぴら、ごめんだね。どこが良い男なんだ。良い男っていうのが、好い加減な男っていう意味なら分かる気もするけれどね」
「おいおい、賢さん、なんてこと言うんだ。ところで、話は変わるが、まさか、はるばるこの志賀島まで手ぶらで来たわけじゃないだろうな」にたりと春雄が笑う。
初夏の青空のようにからりとした性格。しかも、不必要な同情心や忍耐力は持ち合わせない、もっと言えば他人の感情など意に介しない無神経さ。時々その性格が羨ましく感じることがある。先ほどバスの中で経験したような金縛りとそれに続く鬱状態などこの男には無縁のことだろうな、と春雄の顔を見ながら思うのであった。
「どうしたんだ、賢さん。人の顔をまじまじと見て、何が言いたいのだ。気持ちが悪いじゃないか」
「いや、何でもない」
賢一は高校二年生、春雄は三年生、性格や考え方は異なるが、同じ年齢であるためか、互いに自分を気にせずさらけ出すことが出来、しかも、それが心地良く、不思議と気が合うのであった。なぜ、学年が異なるのかといえば、賢一は自分の希望した高校の受験に一度失敗をして、翌年、再度挑戦したからである。
友達の少ない賢一にとって春雄は得難い親友であり、親類である。他の親類とは付き合いが途絶えていた。親類は、父親を亡くした家には冷たかった。借金の無心をしたわけでもなく、これといった迷惑をかけた覚えもなかった。なのに、いつの間にか彼らの足は遠のき、気が付けば、今や、賢一達親子が訪ねるのはここ志賀島の伯父の家だけになっていた。
二人は肩を寄せ合って歩く。志賀島は道路が狭い。さらに、一歩路地に入ると、軒を連ねる家々は近接していて、火災が発生したら瞬く間に延焼して、辺り一面、すべて焼けつくしてしまうのではないかと心配になるほどである。おまけに、ほとんどの家は鍵をかけない。特に夏の間、玄関の扉は、涼を取るため、開けっ放しの状態である。家を訪ねると、玄関扉は開いているのに留守の場合がある。呼び鈴を鳴らすと隣の住人が窓から顔を出して言う。
「その家は、いま、留守ですよ。夕方には帰って来るから、何か伝言があれば伝えるよ」
今日も良く晴れた小春日和である。ほとんどの家の玄関は開いたままであった。
「春ちゃん、玄関の鍵をかけないで、大丈夫なのかい?」
「何が?」
「泥棒に狙われるだろう」
「泥棒?賢さん、ここは志賀島だぜ。泥棒なんていないのさ」
「そんなことはないだろう。こんなに不用心なところ、泥棒には美味しい環境じゃないか」
「ところがだ。ここは、みんなが顔見知りなんだ。見かけない人が来たら、珍しいものだから、じろじろ見る。とても泥棒なんて出来やしないよ。ほら、みんなが賢さんのことを見ているぜ」
春雄の言う通り、狭い道路沿いの家の玄関先で立ち話をしているおかみさんたちが春雄に会釈をして笑いかける際に、チラリと賢一に目を向けるのが分かる。
「おっと、酒屋の庄助さんが賢さんのことを見ているぜ。顔はあっちを向いているけど、ほら、目はしっかりこっちを向いているぜ。分かりやすい人だろ」
「うん、なるほど、僕を見ているね」
「べつに、賢さんのことを怪しい奴だと疑っているわけじゃないんだ。賢さんのことが珍しいので、話しかけたくて仕方がないのさ」
「へえ、そう?」
「庄助さん、儲かっていますか?」
春雄が、バケツを持って自宅兼店舗の前の道に向かって水をまいている中年の男性に声をかけた。
元々毛のほとんどないその男性の頭は、カミソリで見事に剃り上げられてつや光りして、そこに、ねじった手ぬぐいがしっかりと巻かれている。眉は濃くて太い。磨き上げられたように光る頭と黒い眉のアンバランスが面白く、奇妙な清潔感があった。
「いやあ、儲からんね。春雄、酒買ってくれ」
「俺、未成年ですよ」
「堅いこと言うな、親父さんが飲むだろ、買っていってやれよ」
「庄助さん、これ、従兄弟の賢さんです。よろしく、あとで、庄助さんの店でビールを買いますよ。じゃあまた」
「頼むぜ」
庄助さんは目尻を下げて賢一に笑いかけ、毛のない頭をつるりとなでた。
伯父の家は、志賀島バス停から志賀海神社に続く小道をしばらく歩き、神社の第三の鳥居をくぐってすぐ左に曲がった二軒目にあった。代々続いた漁師である。伯父は鯛の一本釣りと鱚の流し網を得意としていた。
「やあ、賢ちゃん。来たか。早く上がれ。母さんは、それから、ええっと、そうそう次郎も、みんな元気か?」
縁側で流し網の修理をしていた伯父が、にこにこ笑い、前掛けに付いた糸くずを手のひらでぱたぱたと払いながら玄関先まで出て来た。笑うと、漁に出て日焼けした顔の目尻に沢山の皺が出来て、それが人なつっこさを感じさせる。
「はい、お久しぶりです、伯父さん。お蔭さまで母も弟も相変わらずですよ。母が伯父さんや皆さんによろしく伝えるように言っていました。それから、これはつまらないものですが」
賢一は、風呂敷包みを差し出した。中には母の手作りの蒸し饅頭と、先日、母が職場旅行に参加した時に買ってきた伯父の好きな芋焼酎が入っているはずである。
「おう、賢さん、悪いね。遠慮なく頂くよ」
横から、春雄が目にもとまらぬ速さで受け取った。
「こら、なにをする。それは賢ちゃんの母さんがこの俺に・・・」
「親父さん。そう堅いこと言わなくても良いじゃないか。分かっているよ、アルコールは親父のものだが、賢さん、中には饅頭が入っているんだろ、そいつは俺のものだぜ。賢さんのお袋さんが作る饅頭は美味いからな」
「あら、賢ちゃん、しばらく見ないうちに、少し大きくなったんじゃないの。そんなところで話し込んでいないで、どうぞお上がりなさい」
奥からエプロンを吹きながら出て来た伯母が上がりかまちに膝をついて賢一を見上げて、ふくよかな顔をほころばした。
「春雄、おみやげをもらったら、ちゃんとお礼を言いなさい。この子ったら行儀が悪いんだから。そしてまず、仏様にお供えするのよ。私たちが今なんとか暮らしていけるのはご先祖様のお蔭だからね」
「ハイハイ、分かりましたよ、母上」
「ハイは一回で良いのよ」
玄関先に朗らかな笑い声が響いた。
賢一は、明日まで伯父の家に世話になる予定である。
飯台を挟んで伯父と話している賢一の背中を春雄が突っついた。
「賢さん、散歩に行こうぜ。いつまでも親父の話に付き合っていたら切りがないぜ。どうせ鱚の流し網漁の自慢話なんだろう?たまたま昨日、けっこうなみずあげがあったので親親父はご機嫌なんだ。話はもうそれくらいで良いじゃないか」
「春雄、邪魔をするな。賢ちゃんは面白く聞いでいるじゃないか。とにかく、ほらこのくらいのやつが、それは面白いほど網にかかってきてな、賢ちゃんにも見せたかったよ」
伯父は賢一に向かって目の前で両手を広げて説明した。
「へえ、そんなに大きかったのですか」
「賢さん、話し半分に聞いてちょうど良いぜ。俺なんか、何度も聞かされて、蛸のイヤリングを付けたくなるよ。耳にタコが出来たってな」
「ほらな、こいつめ、どこかの漫才のネタを使って、こんなふざけた言い方をする。賢ちゃん、俺の話、面白くないかい」
「いえ、僕は漁のことは分かりませんが、伯父さんの話は興味深いし、とっても面白いですよ」
「親父、賢さんが困っているじゃないか。面と向かって、その話、ちっとも面白くないなんて言えるわけないないだろう」
春雄がにやにやしながら言う。
「そうよ、賢ちゃん、志賀島に来るのは久しぶりでしょう?春雄と一緒に散歩しておいで、今日は良い天気だから、景色が素敵よ。帰ったら晩御飯にしましょうね」
料理をしながら話を聞いていたのだろう、台所の暖簾越しに顔を覗かせた伯母の声が明るく跳ねた。
志賀島バス停近くまで来ると、博多湾に面した船着場からざわざわと話し声が聞こえて来た。バス通りと船着場は近接していた。
ちょうど連絡船「おとひめ」が着いたところで、船着場の前にある漁協と食堂兼海産物販売店の間の道を通って、セーラー服や詰襟姿の学生、スーツを着たサラリーマン、それから、魚の行商から返ってきたもんぺ姿でほおっかむりをしたおばさんたちが、湧くように現れて、信号のないバス通りをぞろぞろと歩いて横切っている。車の通行の邪魔になっていることなど誰も気にする風はない。道路上で立ち止まって挨拶をして話し込んでいるものさえいる。真赤な車が音を立てて止まり、サングラスをかけた若い男が苛ついたように窓から身を乗り出してクラクションを何度も鳴らした。
人々は車の男をじろりと一瞥をした後、慌てる様子もなくぞろぞろとバス通りを横断した。
「やあ、今ですか、今日は帰りが早いじゃないですか」
「おう、たまには真面目に帰って、家庭サービスをしなくっちゃな。ところで春雄、お前、悪いことするんじゃないぞ」
「なにを言ってますか。俺ほど真面目で品行方正な好青年は滅多にいないでしょう。志賀島の誇りですよ」
春雄は仕事帰りの知人と軽口を交わす。ここの住人は殆どが子供の頃から互いに顔見知りであって気心も分かりあっているのだ。
志賀島と福岡市の中心街を行き来する場合、交通手段はバスと連絡船がある。
ビジネス街天神まで通勤するには博多湾を航行する連絡船を利用した方が速い。
海の中道を通って、和白、香椎を経由して中洲から天神に至る博多湾沿いをぐるりと巡って走るバスの走行距離は長く、しかも通勤時間帯には交通混雑が激しい。
従って、志賀島の住人は、ほとんどが通勤に船を利用する。
賢一の家は福岡市の中心街から少しばかり東に外れたところにある。だから、彼の場合、伯父の家を尋ねるとき、どちらを利用しても時間はあまり変わらない。したがって、その時の条件、道路の混雑具合や海の荒れ具合を勘案し、さらに、その時の気分によって、どちらの交通機関を利用するか決めるのである。
志賀島の西側をバス通りに沿って歩く。公民館前、続いて郵便局前を過ぎると、右手に山の斜面を切り開いて造られた志賀島小学校が現れる。グランドで子どもたちがソフトボールをしているようだ。爽やかな歓声が聞こえる。
左手には国民宿舎「しかのしま苑」がある。博多湾の沿岸に立つ鉄筋コンクリート造りの建物で、最上階の四階には大浴場があって、そこから博多湾の全景が見渡せる。一階は食堂になっていて、そこで提供する「玄界定食」は新鮮な魚介類が盛り付けて会って、評判が良く、特に夏場は観光客でごった返す。
さらにしばらく歩くと視界が開けて道路の左手眼下に玄界灘と博多湾の潮が混じり合った海が広がる。抜けるような青空と西に傾いた太陽がまぶしい。
右手には金印公園があらわれる。紀元一世紀、弥生時代の後期、福岡平野にあった奴という国の王が中国は後漢の光武帝から『漢委奴国王』と掘られた金印を贈られた。その金印が江戸時代の天明四(一七八四)年、志賀島の田んぼで百姓によって発見されたのであるが、叶の崎と呼ばれるその地域は福岡市によって昭和五十年に金印公園として整備されている。金印は、福岡市博物館に所蔵されている。国宝である。
奴国の中心地ではなかった志賀島からなぜ金印が発見されたのかは現在においてもいまだ謎である。
金印公園へ行くには、道路のすぐそばから石段を登って行く。石段の側に『漢委奴国王金印発光の処』という文字の刻まれた石碑が建っていて、その脇には公衆トイレと車が十台ほど駐車できるスペースがある。
リヤカーの荷台にアワビやサザエなどの貝類やアジ、カレイなどの干し物、ワカメの塩付けなどを並べて、もんぺ姿の中年女性が二人、しゃがみこんで話し込んでいる。
春雄が近づいて話しかけた。
「おばさん、売れ残ったそのサザエ、いくらで売る?」
「五百円だよ」
「売れ残りで形も小さいじゃないか。五個で五百円なんて、高いよ。せいぜい二百円ってところだね」
「何だねこの子は、ひやかしかい?あら、良く見たら、神社通りの折居寅雄さんとこのドラ息子じゃないかい。あれまあ、ちょっと見ないうちにこんなに大きくなっちゃって」
「本当だ。ついこの間まで鼻を垂らしていた悪ガキがねえ」
二人は立ち上がって急に春雄の手や肩を触りだした。
「気持ち悪い。やめてくれよ」
「何を恥ずかしがってるのさ。おばさんたちは、あんたが生まれたての頃、おしめを代えてあげたんだからね」
「そうそう、あんたの身体のことは、隅から隅まで分かっているのよ。臍の形から、おちんちんのこともね、あんまり可愛いからつい指で弾いちゃったよ。それが、いつの間にか大人になって、髭まで生え出してるじゃないの。私たちが年を取るはずだねえ」
そう言って、二人は顔を見合わせて大声で笑った。
春雄が困った顔で眉をしかめて舌打ちした。
おばさんの一人が賢一をちらりと見て言う。
「あんたの友達かい?この子って、あんたと違って、色が白くて、何だか気品があるねえ」
「なんだあ、俺もハンサムだろ」
「下品だね。それにしても、こんなところを男同士でぶらついているなんて、可愛そうね、彼女いないんだね、二人とも。何なら、おばさんたちが彼女になってあげようか。ほら、遠慮しなさんなよ」
「冗談じゃないよ。きっぱりとお断りいたします」
そそくさとその場を離れて、金印公園の階段を上る。
「なあ、賢さん、志賀島のおばさんって口が悪いだろ。おまけに品もない。ほんとに負けるぜ」
「うん・・・」
賢一には、何とも答えようが無い。ただ、伯父の名前が寅雄だということを思い出したし、中年の女性たちの迫力にたじろぐ春雄の様子が何とも可笑しかった。
金印公園の石造りの階段の中ほどに二人並んで腰を下ろすと、眼下に果てしない海が広がる。博多湾岸流と玄界灘の潮が入り混じって青緑に輝いている。
春雄とゆっくり話をするのは久しぶりである。
「賢さん、さっきは親父の話を聞いてくれてありがとう。ここんところ不漁続きで、昨日みたいな大漁は珍しい。それで親父のやつ興奮しているのさ。だから誰かれなく見境なく話したくなるらしい」
「漁のことを話している時の伯父さんの顔って輝いているじゃあないか。やっぱり根っからの漁師なんだなあって思うね」
「ところがさあ、年々魚が取れなくなって、漁師は漁業だけでは食っていけなくなっているんだ。なぜか志賀島の沿岸から魚がいなくなってしまってな。昨日のような大漁は、ほんとうに久し振りなんだ。もっとも、十年ほど前までは、毎日、面白いくらいに捕れていたんだがなあ。乱獲のせいなのか、海の環境が変わってしまったのか分からないがね、とにかく、今じゃ船の燃料代も稼げない始末さ。そういうわけで、漁師はほとんどみんな街に出かけてビルの建設作業や道路工事の現場でアルバイトをして日銭を稼いでいるんだぜ」
「それで、伯父さんは?」
「親父も、この俺に内緒で、時々日雇いの仕事に街まで行っているらしい。水くさいね、肉体労働なら俺の得意とするところだ。学校でつまらねえ勉強をするよりよっぽど楽しいと思うぜ」
「伯父さんは、春ちゃんには勉強して、大学に行ってもらいたいのじゃないかな。僕の家は貧乏だからとても大学に行く余裕はないけれど、春ちゃんは大学に行った方が良いのじゃないか」
「賢さん、俺は漁師になりたいんだ。魚を捕った時のあの興奮がたまらないんだ。そのための勉強ならするけれどもな。ところが親父のやつ、どうやら漁師に見切りをつけて、俺には別の職業に着いて欲しいらしい」
「へえ、どんな職業に?」
「ほら、うちの親父って漁業協同組合の理事をしているだろう、先日、市役所の農林水産局漁港課ってところから係長が親父を尋ねて来てしばらく話をしていったんだ。国から補助金が出るので、志賀島漁港の改修工事をするんだってさ。何でもその金額が一億円だって。市役所の係長がそんな大金を調達できるのかって驚いていた。それからだよ。この俺に、市役所に就職しろというんだ。俺が漁師になりたいというと、漁は日曜日と祝日、つまり、市役所が休みの日にすればいいんだとよ。何でも、市役所に勤めれば机にじっと座っているだけで給料をもらえる。たまに彼らが体を使うことといったら、例えば、漁港課の職員は庁用車を運転して港の様子を見て漁協の連中と話すことぐらいで、観光みたいなもの。漁師みたいにけがをしたり、へとへとになるまで働いて、腰や肩を痛めることもない、毎日が日曜日みたいなものだってさ」
「うん、何だかおかしい。けれども伯父さんなりに、春ちゃんのことを考えているんだね。羨ましい」
「そうか、賢さんには親父さんがいなかったな。親父さんが亡くなってもう、何年になるかなあ」
「十年以上たつよ。もう親父の顔は忘れちまった。でもね、不思議なことに、この頃よく親父の夢を見るんだ。今日も、ここに来る途中のバスの中で居眠りしていたら、親父の夢を見たよ」
「夢の中で、親父さんはどんな顔をしていたんだい」
言われて、賢一は改めて父の顔を思い出してみる。しかし、思い出せない。最後にその顔を見たのは葬儀の日であった。旅装束姿で顔には白い布が被せてあったし、その布を取り上げても表情がなく血の通っていない父の顔は気味悪いだけだった。父の遺体がそこにあったのは記憶しているが、その顔は思い出せない。それは、賢一自身が無意識に、記憶の中から排除してしまいたい出来事として捉えているからなのかもしれない。
「わからない」
「そうか・・・」
「うちの様な家族を母子家庭っていうんだろ?」
「賢さん、何が言いたいんだ?」
賢一の顔をじっと見据える春雄の目は、弱音を吐く奴は嫌いだ、と言っていた。
確かに、父親のいない自分の家族は他に比べて不利益を被っているという被害者意識を賢一は持っていた。あるいは、相手はその気がないのに、こちらが勝手な憶測をしている場合があったのかも知れない。子どもたちはよく自分の父親のことを自慢する。
「僕のお父さんは係長になったんだぞ」とか「僕の父さんは課長だぞ」とかいう子どもたちの間で交わされる自慢話を、小学校の頃、良く聞いた。
それは、母親たちが公園でおしゃべりをしている時の会話そのものなのであろう。
父親のいない賢一はその話の輪に入ってはいけなかった。
賢一は自分の置かれた境遇を恥じても恨んでも嘆いてもいない。まして、それを誰かのせいにしようなんてこれっぽっちも思っていない。ただ、同情されることだけは我慢がならないのである。
「高校の友人の家に遊びに行った時は良く聞かれるんだ、『お父さんは何をなさっているの』って。面倒臭いんだなあこれが」
「ほう、それで賢さん、お前さんは何て答えるんだ」
「『父は、僕が小学校の時、死にました』って答えるしかないだろう。そしたら、『お父さんがいないのに立派に育って、お母さんは苦労なさったでしょうね。偉いわ』なんて言ってさあ、大きなお世話なんだよ。父親のいない子どもが立派に、いや普通に育つのが難しいって、なんで決めつけるのかな。僕には母さんがいるんだ。勝手に同情されても迷惑なんだ」
「賢さんも、いっちょ前に、しなくても良い苦労をしてるんだな。その点、俺んとこなんて、親父もお袋もお蔭さまで達者でぴんぴんしている。けれどな、俺は所詮、貧乏漁師のこせがれなのだぜ。ああ、つまらねえったらありゃしないよ。近所のおばさんもさっきみたいに品がないしな。もしかしたら、俺って、どこか、やんごとなき際の生まれで、何かのっぴきならない事情で、うちの軒先にそっと置かれていたんじゃないのかって時々思うんだ。絹の産着に包まれた玉のような気品に溢れた男の子がさあ。なあ賢さん」
「ふん、誰が玉のような男の子だって?春ちゃん、その顔、どう見ても親父さんそっくりだ。でも、やんごとなき際なんて良く知っているじゃないか。『いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらい給いけるなかに、いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給うありけり』という紫式部の『源氏物語』の出だしから拾ったんだろう?」
「ああ、今、学校の放課後の補修授業でそいつをやっているんだが、とにかく、その授業なんだが、眠たくって仕方ないんだ」
「わかる、わかる。古文や漢文の授業って、まるで強烈な睡眠薬のようなものだからね」
海を見つめながら会話する二人の視線の先に真っ白い船が小島の間をゆっくりと進んで行く。朝鮮半島か中国大陸に向かっているのだろう。その向こうには糸島半島が見えて、すぐ脇の空を夕日がゆっくりと転がってエメラルド色の海に沈もうとしている。
「ああ、良い気持ちだ」
春雄が立ち上がって周りを見渡しながら背伸びをした。
「賢さん、山が騒いでいるぜ」
振り返ると紅葉の始まった山腹を爽やかな風が通り抜けていく。風の道に沿ってゆっくりと揺れる落葉樹が落陽を浴びて燃える様な金色に輝いていた。
その夜、賢一は夢を見た。夢というよりも記憶といった方が良いのかも知れない。
「生意気なことを言うな。女のくせに」
威嚇するように怒鳴り散らす男の大きな声が聞こえた。
窓ガラスをそっと開いて覗き見ると、隣家の庭に母の後ろ姿が見えた。両手を腰に置いて胸を張っている。母の背中が少し震えているのは、懸命に勇気を奮い起こしているからなのだろう。
隣家の庇が大きく張り出していて縁側に雨が降りこむため、相談しに行くと言って出かけてしばらくした時であった。
「私は間違ったことを言っていません。我が家に雨が降りこまないように、庇に雨どいを付けていただくようお願いに来ただけなのですよ。私の言っていることのどこに誤りがありますか?他人の迷惑を考慮しないあなたこそ問題があるのじゃないのですか」
憎々しげに怒鳴り散らす男に対して、母は一歩も引こうとはしなかった。その結果、どのように決着がついたのか、賢一には分からなかったが、母は帰って来るなり、仏壇から父の写真を取り出して、じっと睨み付けていた。
その夜、親子三人で風呂に入った。三人で入るといっても、みんな一緒に風呂桶に入れるわけではなかった。杉の木で作られた風呂桶は腐食が進み、板の隙間から水が沁み出してくる。母は、その都度、マイナスドライバーを器用に使って隙間にぼろ布を押し込んで塞いだ。風呂桶に巻かれている箍も緩んで、耐用年数はとっくに過ぎていたのだが、買い替える余裕などなかった。日々の生活を出来るだけ切り詰めて、賢一と次郎の将来のために、そして家族が遭遇する予期せぬ災難に対する出費に備えなければならないからである。
だが、家族が遭遇する予期せぬ災難は不幸にもその日に起こったのであった。
母は賢一の背中を流しながら、息を殺して泣いていた。涙の滴が賢一の背中に落ちるのが分かった。母の悲しみが涙とともに賢一の中に深く染み込んで来る。
「賢一、一緒に死のうか。母さんはもう疲れちゃった。生きるのが辛くなったの」
涙とともにこぼした母の言葉は賢一に重くのしかかり、一瞬、体がすくんだ。父さんの写真を見ながら、母さんはそんなことを考えていたのか。嫌だ、生きたい。まだ死にたくない。気持ちを伝えたくて、恐る恐る振り返って母の顔を見上げた。涙が溢れだし賢一の頬を伝った。タオルを握った母の手がごしごしと賢一の背中を擦った。
「母さん、痛いよ」
悲鳴をあげる賢一の声に驚いたのか、母の手が止まった。
「ごめんなさい」
涙の向うに両手で顔を覆っている母がいた。彼女の漏らす嗚咽は賢一を深い悲しみの淵に引きずり込んで行った。
風呂桶の中で次郎が騒ぎ出した。頭に洗面器を被って飛び跳ねている。
「次郎、静かにしなさい。お風呂が壊れるじゃないの」
どうしてか、母が何度言っても、次郎は上機嫌で、踊って跳ねていた。
「キャー」
母の悲鳴とともに湯が賢一に襲いかかって来て、素っ裸の次郎が洗面器を頭にかぶったまま流れてきた。母はとっさに次郎の足首を掴んで、ぐいと引き寄せた。
風呂桶は、飛び跳ねる次郎の重さに耐えきれず、底が抜けてバラバラに跡形もなく壊れ去っていた。
賢一と次郎の身体をぬぐって着替えさせた後、下着姿のままバスタオルで髪を拭き上げていた母は、思い出したようにプーッと吹きだしてしゃがみこみ、体をねじって笑い出した。何度も思い出しては笑い続けていたが、急に襲いかかるように賢一と次郎を両腕に抱えて押さえつけるようにのしかかり、豊満な胸を二人の顔に押し付けてまた声を出して笑った。
「賢一、次郎。母さんは、負けないからね、何があっても」
「母さん、苦しいよ」
嫌がって顔をそむける賢一と次郎の顔にかわるがわるところかまわず何回もキスをした。
ほてった頬はほんのりと赤を帯びて、子供たちを見つめるその眼は少しばかり潤んではいたが明るく輝いていた。賢一は母の温もりと美しさを感じていた。
目の前で笑う母の顔が次第に歪んで変わっていく。そして、そこに春雄の顔があった。
「賢さん、賢さん。おい、気が付いたか」
「なんだ?春ちゃんか」
「何だ、じゃないよ。泣いたり、笑ったり、うなされたり、なんて忙しい夢を見るんだ、賢さん、気持ちが悪いったらありゃしない。頼むから静かに寝てくれよ」
しばらく、あきれたような顔をしていたが、賢一が目覚めたのを確認すると、漸く安心したように、春雄はまた、自分の布団に潜り込んですぐにいびきをかき始めた。
賢一は横になったまま、深い悲しみに胸を痛めた幼い日の出来事を懐かしく思い出しながら、無意識に天井板に浮き出ている木目を数えていた。
翌朝、目覚めると春雄の姿がない。布団は敷いたままで、パジャマが脱ぎ捨ててある。
台所から、包丁で何かを刻むトントンという音が心地良く響いている。みそ汁の臭いが賢一の鼻先に届いて、空腹を覚えた。包丁の音が止んで、伯母の声がした。
「賢ちゃん、いつまで、寝ているの。好い加減に起きなさい。ここ開けるよ」
襖があいて、伯母が覗いた。
「あら、まあ布団は敷きっぱなしで、パジャマは脱ぎ散らかして、春雄ったら」
台所の食卓で遅い朝食をとった。みそ汁の味がが少しばかり濃すぎる。
「あら、賢ちゃんには少し、しょっぱかったかしら。ごめんなさい。漁師は、体を動かして汗をかくから、濃いめの味を好むのよ。体が塩分を欲しがるのね」
伯母はみそ汁の椀の中にポットから湯を注いで箸で掻き混ぜた。
「伯母さん、春ちゃんはどこに行ったのですか?姿が見えないようですけど」
「朝早く美紀ちゃんていう娘から電話がかかって来て、ついさっきでかけて行ったようね。のっぴきならない用事だから賢さんによろしく言っといてくれですって。何がのっぴきならないのかねえ。そのうち帰って来るでしょう」
「美紀ちゃん?春ちゃんの彼女ですか?」
「幼馴染よ。時々、うちにも遊びに来るけれど、どうかしらね。でも、しっかりした娘さんよ」
春雄に女性の友達がいる。賢一は少しばかり嫉妬を覚えた。だが、女性と二人でそぞろ歩きをしたり、喫茶店でコーヒーを飲んで洒落た会話をしている春雄の姿を想像すると、なんとなく可笑しかった。あいつには似合わないと思うからである。それに、この志賀島に喫茶店なんかあったかしらん、などとボンヤリと考えていた。
朝食を食べ終わって、お茶を飲んでいると、台所の窓ガラスを少しばかり揺らして通り過ぎる風の音がして、時を置かず、窓ガラスを大粒の雨が叩き始めた。
賢一は雨が好きである。雨が乾いた砂地に染み込み、しばらくして流れ出す様子をじっと眺めるのも、また、雨粒がアスファルトの地面をたたいて、跳ね返って煙る様子も好きである。トタンや瓦葺の屋根に降る雨音が奏でる心地良いメロディーはなおさら好きであった。時に激しく、時に優しく降る雨音に恍惚と聞き入っている自分に気付くことがあった。
ふっと雨の中を歩いてみたいと思った。
「伯母さん、ちょっと外に出たいので、傘を貸してもらえませんか」
「あら、そう?私、今手が放せないの。あなた、賢ちゃんに傘を探してくださいな」
居間で針仕事をしている伯母に声をかけられて、すぐ側で新聞を読んでいた伯父は、眼鏡をはずしながら、渋々立ち上がって玄関を見回した。
「ここに傘はないようだな。仕方がない、それじゃあ、わしの取って置きの奴を貸してあげよう、なかなか風流だぞ」
伯父は押し入れの中から黒いこうもり傘を取り出し、ほこりを払って賢一に手渡した。
「ありがとうございます、伯父さん」
「わっはっはっは、礼には及ばんぞ、賢ちゃん。なかなか風流だろうが」
開いた傘には、こぶしほどの穴が開いていた。穴を通り抜けて降り込んでくる雨を避けるように傘をさして、笑いながら賢一は雨の中に入った。
強く降りだした雨がアスファルトの道路に跳ね返って、そのしぶきで町は煙って見える。
激しい雨の中を歩いていると、夢の中にいるような感覚に陥ってしまうことがある。
たいていの人はじめじめとした雨の日は嫌いだという。
だが、賢一にとって、雨の中にいると、なぜか、世の中のわずらわしさから解放されるように感じられるのであった。
志賀島郵便局前のバス停まで来た時であった。
金属が軋むような音を立ててバスが止まった。乗降口が開いて、次々と傘の花が開き、人々はバスから降りて、足早に雨の中に消えて行った。
そんな中、バスから降りて、近くの家の軒下まで小走りに駆けて行く少女の姿があった。
賢一の目はごく自然にその少女の姿を追いかけた。彼女は軒下にたどり着くと、スカートのポケットからハンカチを取り出して、頭と肩を拭き、その次にカバンを両腕で胸にだくように抱えて、恨めしそうに空を見上げている。
白色に明るいブルーの縁取りのついたセーラー服には見覚えがあった。それは、賢一の通う高校からさほど遠くないところにある女子高校の制服であった。市内で有名な進学校で、裕福な家庭の娘が通う女学校であるというイメージがあった。
〈今日は日曜日なのに学校だったのかな・・・〉
風が出て、紺色の襞のあるスカートがひとしきり揺れた。困った様子で空を見上げている少女を軒下に配したその情景は、いつか見た映画のひとこまのように、初々しくまた懐かしかった。賢一の視線は無意識に少女に惹きつけられていた。
どれくらい時間が経過したのであろうか、強くなった雨脚が傘を激しく打つ音にふっと我に返った賢一は、雨の向うにたたずんでいる少女に向かってゆっくりと歩き始めた。
誰も迎えに来る様子の見えない彼女を、自分の傘に入れてあげようと思ったからである。
近づくにつれて少女の様子がはっきりと見えてきた。年の頃は賢一と同じくらいであろう。髪は三つ編みにして肩まで垂らしている。小首をかしげ、目を細めて空を見上げているその顔にはまだあどけなさの名残があった。
傘の雨音に気付いたのであろう、少女は怪訝な顔で賢一を見た。二人は真正面から向き合う格好になった。突然の視線に賢一は思わず立ち止まってしまった。滝のように落ちて来る雨を挟んで、なぜか二人は無言のまま見つめ合った。雨音だけが鳴り響き、そのほかの音はすべてかき消されて、奇妙に静かであった。
賢一は、女性と話をした経験があまりない。自分の高校が男子校で女生徒と話す機会が少ないことも、その原因であるのだが、どういう訳か気楽に女性と話すことが出来ない。
お前って、あまりにも強く女性を意識し過ぎるためじゃないのか、要するに女に飢えているってことだよ、と友人に言われたことがある。その指摘は悔しいが確かに当たっている。彼女に声が届くところまで近づき、傘をさしかける段になって、どういう風に声をかけようかと言葉を探していた矢先、自分の傘には大きな穴が開いていることを思い出して、急に恥ずかしさを覚えて踏み出す足は止まってしまった。足はそれ以上彼女に向かって踏み出そうとはしなかった。マイナス思考。傘をさしかけたとき、断られたらどうしよう。
彼の中にそんな恐れが生まれていたのだった。行動を起こす前から失敗することを恐れている。これが自分の本質なのであろうか。賢一は自分に苛立ちを覚えていた。別に下心がある訳ではない。雨に濡れようとしている人の助けになってあげたい。ただそれだけのことなのに、どうして出来ないのだろうか。ああ、いつも何かを思い立って、いざ実行するときになって二の足を踏み、意欲は半減する。それだけならまだしも、実行する機会を逸した後に欝になって落ち込み、自分を責める。この期に及んで、自分の中に根付いている引っ込み思案の負け犬根性を改めて意識したのであった。自分のそんな性格を改善したいといつも思っていた。今がその時ではないか、しっかりするのだ、と賢一は自分を鼓舞した。
「どうぞ、僕の傘に入りませんか。遠慮はいりません。家まで送りましょう」
その言葉を口の中で三度ほど繰り返した。ようやく、足を前に踏み出す決心がついたと感じたのであった。改めて少女を見た。背の高さは賢一よりも十センチほど低い、多分百六十五センチぐらいであろうか。額はやや広く理知的で目は二重瞼で睫毛が長く、形の良い鼻は整い過ぎた顔のバランスを取っている。良く見ると、唇の左下に小さなほくろがある。あるいはニキビなのかもしれない。それもまた、可愛く見える。結んだ口もとは清潔感と瑞々しさがあった。思わずその唇に触れたいという衝動に駆られた。少女の涼しげな瞳が賢一の目を見た。
傘をさしかけようとした時であった。
「明ちゃん、遅くなってごめん」
背後から女性の声がした。
「あっ、お母さん」
少女は軒下から走り出て、その人の傘の中に入った。その刹那、賢一はなぜか、籠の中の小鳥が逃げ出して大空に飛び去った時のような喪失感を覚えた。
一つの傘の中で寄り添って歩いて行く二人。賢一は、その後ろ姿を自分でも説明できない不可思議な気分を抱いていつまでも見ていた。
少女が、思い出したように賢一を振り返り見てほほ笑んだ。赤い唇がわずかに開き、こぼれるような白い歯が見えた。
「どうしたの?」
母親が振り返って、チラッと賢一を見た。
反射的に、賢一は会釈をしたのであった。
少女とその母は煙る雨の中に消えた。
賢一の胸の中を甘酸っぱいものが流れた。
雨が降っている。世の中は雨のためにぼんやりと霞んでいる。まるで自分が夢の中に立ちつくしているように思えるのであった。
〈本当に、夢ではないのだろうか?あの少女は夢の精ではないのか?確か「明ちゃん」と呼ばれていたようだが〉
多分しばらくの間、その場に立ちつくしていたのだろう。雨はすっかり上がって、濡れた道路に出来た水たまりで、日差しが踊っていた。
その日の夕方、賢一は志賀島を離れた。




