真逆《まさか》の邂逅 ー1ー
「……ああ、またか」
深夜三時。
諦念を漂わせた男の掠れた囁きが、吐息と共に吐き出された。
カーテンを閉め切った真っ暗な寝室で、独り言を漏らした男は仰向けになり両手で目を覆っている。
唇がわなわなと震え出したと思ったら、それを皮切りに手へ、腕へ、やがて全身へと震えが広がっていった。
手のひらが湿っていく。
涙が溢れて止まらなかった。
男は止めるすべも思いつかず、顔を隠すように腕をクロスさせて袖で乱雑に顔を拭う。
暗闇の中に目立つ白い髪。
太く骨張った手足から窺える男の体格。
ゴムが伸びて生地がたるんだスウェットに似つかわしくない肉体だ。大きな身体を丸めて細い呼吸を繰り返す男は、体格から想像もつかないほど頼りなさそうである。
数十分経ち、ようやく男の震えが治まった。自分の腕の下で、ズズ、と鼻水を啜った男がのそりと上半身を起こす。
さらけ出された瞳は虚ろで、疲れ切っているように見えた。
充血した目の下には隈があり、顎に髭が伸び散らかしている。
「……行こう。いや……呼ぶか」
のそのそと動き出した男は充電していた携帯を手に取った。
顔認証で解除した画面に、最後に開いていたトーク画面が表示された。
それからトーク欄の一番上をタップして、男はどこかへ連絡し始めた。
***
貴方の人生において実りある成果を上げながらも、規律正しく調和を大切に生きてほしい。
という由来でつけられた奈律。
奈律は自身の名前を気に入っていたし、その名に恥じぬ生き方をしていたつもりである。
だからこそ、奈律は自分の耳を疑った。
「千葉、奈律……じゃあ、バナナちゃんね! これからよろしく〜」
ヘラヘラとした態度で手を振りながら「バナナちゃん」と奈律を呼んだ男を凝視する。
公共の場に出てくるにはあまりにも不相応な上下スウェット姿。櫛を通すことすら諦めたようなボサボサの頭。
上司がいる手前、胸に渦巻く感情を表に出すわけにはいかない。いかないのだが、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
目の前の無精髭を生やした不清潔な男にその様な“渾名”を付けられる言われはない。
時刻を少し遡り。
早朝、奈律が所属するクラン「ネクサス」のマスターである蓮希から呼び出されて事務所を訪れていた。
事務所の最上階にあるマスターの執務室に到着したのは、指定された十分前。
まだ新人と呼ばれる立場にある奈律は、少し緊張した面持ちで扉をノックした。
「入ってくれ」
「失礼します」
蓮希の声が聞こえて、奈律は入室する前に身嗜みをチェックし始めた。
ピッチリと綺麗に一つに結ばれた髪を整え、皺ひとつないスーツを確認する。
数秒にも満たない作業を終わらせて入室した奈律が目にしたのは——タブレットを操作している蓮希に密着して、胸に顔を埋めて泣いてる男であった。
「——は?」
我が目を疑うような光景に、奈律は言葉を失った。しくしくと啜り泣いている男は未だ奈律に気付いてないようだ。
蓮希に手招かれ我に返った奈律は取り敢えず男の存在を無視してマスターに話し掛けた。
「……マスター、本日はどういった用件でお呼びになったんですか」
「急に呼び出してすまないな。ほら、奈律が混乱しているからはやく離れるんだ」
「ず、スズーッ……誰だよ」
渋々といった様子で蓮希から離れた男の視線が奈律の方に向けられた。
鼻と目元を真っ赤にして、涙がボタボタと流れている。泣いているくせに、警戒だけは一丁前に滲ませた不躾な視線が、ダイレクトに突き刺さった。
はっきり言って、不快である。
誰だよ、は奈律の台詞でもあるし、初対面の人間に向ける態度ではないだろう。
この時点で、奈律の男に対する好感度は底辺を這っていた。
「彼女は千葉奈律。今回、お前のバディを務める子だよ」
「……バディ、ですか?」
バディ、という意味が分からず奈律は首を傾げる。
探索者にその様な仕事があっただろうか。
状況を理解していない奈律を置き去りに二人は会話を続ける。
「初めて見る子だよな……?」
「ああ、一年前に所属したばかりだ」
「他の奴らは?」
「別件で忙しい。あの子らもお前に付きっきりでいられるわけじゃないんだぞ」
「ふーん。千葉奈律……じゃあ、バナナちゃんね! これからよろしく〜」
態度を一変させた男に奈律は冷めた目を向けてしっかりと釘を刺す。
「千葉です」
「へ?」
「私は渾名で呼ばれるほど貴方と親しくありません」
「ありゃ、蓮希〜バナナちゃんは俺のことが嫌いみたい」
「千葉です!」
奈律の忠告にも懲りずに渾名で呼んだ男に思わず声を荒らげる。不躾なだけでなく、人の話も聞けないのか。
表情を取り繕うのも忘れて男を睨みつけた。
「ふふ、落ち着け。さっそく本題に入るぞ」
「はい」
微笑ましげに口角を上げた蓮希に奈律は慌てて背筋を伸ばす。
「まず、この男を紹介しよう。こいつは久瀬」
「久瀬で〜す」
「……よろしくお願いします」
例え嫌いな相手であっても、挨拶は社会人の基本である。心底拒否したかったが、奈律は久瀬に頭を下げた。
「今回呼び出したのは、奈律に久瀬のバディになってもらいたかったからだ」
「マスター、先に質問があります。“バディ”とはどのような仕事なんですか?」
「そのままだよ。探索者として久瀬のサポートをして欲しい」
「サポート、ですか?」
パーティを組んでダンジョン攻略をしろ、ということか。いや、それなら態々バディという言葉を使う必要はない。
結局、自分で考えても埒が明かないと奈律は判断した。
「詳細を聞かせて下さい。具体的に私は何をすればいいんでしょうか?」
「話が早くて助かるよ。奈律に任せたいのは、こいつを、久瀬を死なせないことだ」
「死……?」
どういう意味だ、と話題の張本人を見れば、蓮希の隣で呑気に鼻を噛んでいた。
テーブルの上に丸めたティッシュを積み上げていく久瀬が命の危険に晒されているなんて到底思えなかった。
「はは、信じられないって顔だな」
「はい。正直信じられません。彼が死ぬかもしれないことも、マスターが新人の私にそんな重要な任務を頼むことも」
奈律は「ネクサス」で一番の新人なのだ。
周りには先輩しかいないのに、彼らを押し退けてまで奈律に頼む理由が分からなかった。
「私は君の“第六感”と戦闘能力に期待しているんだ」
「へえ! バナナちゃん“第六感”持ってんだ。珍しい〜俺持ってないよ」
「千葉です。……それに関しては運が良かったと思ってます」
所謂レアスキルと呼ばれる『第六感』を奈律は持っていた。このスキルと持ち前の運動神経のお陰で探索者として活動してこれたと言っても過言ではない。
「つまりマスターは、先輩達の経験よりも私のスキルに期待したということでしょうか」
「端的に言えばそうなる。こいつは普通の探索者じゃあ手に負えないんだ」
「……私ならどうにかできると?」
「ああ、期待を込めてお願いしている。引き受けてくれるかな?」
現状、スキルの優位性を加味した上で奈律よりも適任なメンバーが何人も思い付く。
それでも蓮希は奈律を選び、期待していると言った。
奈律が幼い頃から憧れた「ネクサス」のマスターからの期待だ。
断る選択肢など、最初から存在しない。
「はい——必ずマスターの期待に応えてみせます」




