第13話「順番派」
黒い水が、
玄関の隙間からじわりと溢れ出る。
「っ……」
男が舌打ちする。
「チッ……もう来てる」
「来てるって、何が——」
「だから黙れって」
低い声。
さっきまでの軽い空気が消えていた。
男はゴミ捨て場の影へ下がる。
手招き。
「こっち」
訳も分からないまま、
俺もそっちへ寄る。
生ゴミの臭い。
湿ったコンクリート。
やけに現実感がある。
なのに。
アパート全体が、
妙に静かだった。
「……誰も起きないのかよ」
さっきの音、
普通にヤバかっただろ。
でも。
どの部屋も静まり返っている。
電気もつかない。
生活音もない。
「聞こえてない」
男が小さく言う。
「多分」
「は?」
「“近い時”は、周りズレるんだよ」
「……意味分かんねぇ」
「俺も最初そうだった」
男は壁にもたれながら、
ポケットを探る。
新しい缶コーヒー。
慣れた手つきで開ける。
潰した空き缶を、足元へ転がした。
「……飲む?」
「いらねぇ」
「だよな」
男は少し笑う。
その顔、
妙に普通だった。
普通すぎて逆に怖い。
「……お前、誰なんだよ」
「さっき言ったろ」
男は缶を傾ける。
「先輩」
「だから意味分かんねぇって」
「じゃあ経験者」
あっさり返される。
「風呂で死にかけた」
息が止まる。
「……」
「全員そこから始まる」
男は黒い水を見る。
玄関の下。
まだ少しずつ漏れている。
「で、異世界行ったろ」
「……」
「風呂作った」
「……なんで知ってる」
「俺もやったから」
即答。
迷いがない。
その言葉が、
一番気持ち悪かった。
「……何なんだよ、あれ」
「さぁ」
「は?」
「完全には誰も知らない」
男は肩を竦める。
「でも、“順番”がある」
空気が変わる。
その単語だけで。
「……順番派って、さっき言ってたよな」
「ん」
「なんだよ、それ」
男は少し黙る。
そして。
「お前、“底”見ただろ」
「……っ」
「だから狙われた」
「狙われた?」
「順番崩したから」
意味が分からない。
「待て」
頭が追いつかない。
「俺、別に何もしてねぇぞ」
「した」
男は即答する。
「見た」
「……」
「あそこ、見る順番決まってる」
背筋が冷える。
「なんだよ、それ……」
「知らねぇ」
男は缶を飲み干す。
「でも昔、“先に見た奴”がいた」
「……」
「そいつから壊れた」
ぞわり、と鳥肌が立つ。
「壊れた?」
「向こう側に近づく」
男の声が少し低くなる。
「水音聞こえたり」
「……」
「鏡に映ったり」
「……」
「排水口、気になったり」
思わず息が止まる。
全部、
今の俺だ。
「……お前」
なんで知ってる。
そう言いかけて。
やめた。
こいつ、
多分本当に経験してる。
「……順番派って何なんだよ」
「簡単」
男は指を二本立てる。
「順番守る奴ら」
一本折る。
「順番壊したい奴ら」
もう一本折る。
「大体この二つ」
「壊したい?」
「底まで行きたい奴」
その言葉。
嫌な感じがした。
「……行ったらどうなる」
「さぁ」
男は笑う。
でも目は笑ってない。
「戻ってきた奴、見たことねぇし」
沈黙。
風が吹く。
その瞬間。
ぴちゃん。
すぐ後ろで、
水音がした。
「っ!?」
振り向く。
誰もいない。
なのに。
ゴミ捨て場の床が、
濡れていた。
黒い水。
じわり、と広がっている。
「……おい」
初めて。
男の手から、缶が落ちた。
からん、と乾いた音。
「な、なんだよこれ……」
男の顔色が変わっている。
さっきまでの余裕がない。
「早すぎる……」
「は?」
「こんなの、聞いてねぇぞ……」
その時。
スマホが震えた。
さっきまでと違う番号。
『そいつは底へ行かせたがってる』
空気が凍る。
「……は?」
俺が画面を見る。
その瞬間。
男の顔から、
笑みが消えた。
「……誰から来た」
低い声。
さっきまでと違う。
妙に冷たい。
「おい」
一歩近づいてくる。
「そのメッセージ、見せろ」
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