■ 第1話「未完成の風呂」
俺はこれまで、風呂で三回死にかけている。
——いや、正確には「死にかけた気がしている」だけかもしれない。
でも、あの感覚は忘れられない。
息ができなくなる瞬間。
音が遠くなる感覚。
視界が、水の底に沈んでいくみたいに歪むあの感じ。
……まあ、それはいい。
とにかく俺は、風呂が好きだ。
銭湯も温泉も、自宅の風呂も全部好きだ。
湯の温度、湿度、入る順番、水風呂との往復——全部に意味がある。
「42度。これが人間が一番“生きてる”って感じる温度なんだよ」
誰に言うでもなく、俺はそう呟いて、湯船に肩まで浸かった。
はあ、と息を吐く。
完璧だ。
この銭湯、やるじゃないか。
湯の柔らかさも、湿度の抜き方もいい。換気の具合が絶妙だ。
……こういう店は長く残ってほしい。
そう思いながら、俺はゆっくりと立ち上がる。
次は水風呂だ。
動線もいい。無駄がない。
この設計、たぶん分かってる人間が関わってるな。
足を一歩踏み出す。
——その瞬間だった。
ぬるり、と。
足の裏が、滑った。
「……あ」
視界が、ゆっくりと傾く。
天井の木目が、やけにくっきり見えた。
湯気が、スローモーションみたいに流れている。
変だな、と思った。
これ——
前にも、なかったか?
そんな考えが、頭をよぎる。
「……これ、やばいやつ——」
言い切る前に、背中が床に叩きつけられた。
衝撃。
そして、
水の音。
世界が、沈む。
気づいたとき、俺は水の中にいた。
沈んでいる。
……いや、違う。
浮いている?
体は軽くて、重力の感覚が曖昧だった。
なのに、なぜか苦しくない。
息が、できている。
「……は?」
声が出た。
水の中なのに、普通に喋れている。
意味が分からない。
とりあえず、上に向かって泳ぐ。
……いや待て。
銭湯で泳ぐの、普通に楽しくないか?
どうせ誰も見てないし。
軽くバタ足してみる。
——あ、これ怒られるやつだな。
そんなことを考えながら、水面に向かって手を伸ばす。
光が揺れている。
そのまま顔を出す。
——そこは、銭湯じゃなかった。
「……どこだよ、ここ」
石造りの建物。
見たこともない服装の人間たち。
そして、鼻をつく匂い。
……臭い。
明らかに、不衛生な匂いだった。
周囲の人間が、こっちを見る。
その視線に、妙な既視感があった。
初めてのはずなのに。
「……遅かったな」
誰かが、そう言った。
「は?」
思わず聞き返す。
遅かった?
何の話だ?
男は首をかしげる。
「何言ってんだ。約束しただろ。風呂、作るって」
——風呂?
「前は途中で消えたじゃないか」
ざわり、と背筋が冷える。
意味が分からない。
初対面だ。
こんな場所、来たこともない。
なのに。
なのに、だ。
俺は、その“続き”を知っている気がした。
気づけば、俺は地面にしゃがみ込んでいた。
手が、勝手に動いている。
石をどかして、地面を均す。
水の流れを確認して、位置を調整する。
「……ここだな」
口が、勝手にそう言った。
頭で考えていない。
でも、分かる。
ここに湯船を作ればいい。
水はこっちから引く。火はこの位置。
——全部、“知っている”。
石を運びながら、ふと思う。
……いや、なんで俺こんな真面目に働いてるんだ?
さっきまで銭湯いたよな?
「お、おい……」
周囲の人間がざわつく。
「本当にやるのか……?」
その声に、俺は答えなかった。
ただ、手を動かし続けた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
気づけば、形になっていた。
簡素だが、十分だ。
湯を張る。
湯気が立ち上る。
よし、温度も問題ない。
「ヨシ!……入ってみろ」
村人の一人が、おそるおそる足を入れる。
びくっと体を震わせて、
——そして、固まった。
「……なんだ、これ」
ゆっくりと、肩まで沈む。
目を閉じる。
「……あったかい……」
ぽつり、と呟く。
その顔を見て、周囲の空気が変わった。
次々と人が入っていく。
ざわめきが、笑いに変わる。
「すげえ……」
「気持ちいい……」
「なんだこれ……」
その光景を見て、
——俺は、確信した。
これ、前にもやっている。
同じ位置。
同じ形。
同じ流れ。
全部、“同じ”だ。
「……今回は、消えないよな?」
誰かが、そう言った。
その一言で、時間が止まった。
「……は?」
声が、出ない。
消える?
何の話だ?
分からない。分からないはずなのに——
知っている気がする。
水面に、顔が映る。
見慣れた自分の顔。
でも。
その腕に、見覚えのない傷があった。
次に目を開けたとき、俺は銭湯の床に倒れていた。
「大丈夫ですか!?」
店員の声が聞こえる。
周囲がざわついている。
……戻ってきたのか。
「……あー……」
ゆっくりと起き上がる。
頭が重い。
体が、やけに疲れている。
まるで、本当に何時間も作業したみたいに。
……夢、か。
そう思いながら、手を見る。
指先。
そこに、固い感触があった。
皮膚が、少しだけ厚くなっている。
——タコだ。
そんなもの、昨日まではなかったはずなのに。
「……」
しばらく黙ってから、
俺は小さく息を吐いた。
そして、ぽつりと呟く。
「……四回目になるのか」
帰り道。
夜風が、少しだけ冷たい。
スマホを取り出して、メモを開く。
無意識に、指が動く。
線を引く。形を描く。
——風呂の設計図。
迷いがない。
まるで、何度も描いたことがあるみたいに。
「……次は」
そこで、手が止まる。
ほんの一瞬、迷ってから。
俺は続きを書いた。
「——今度は、消えないようにしないと」
読んでいただきありがとうございます。
この物語はまだ“始まり”です。
続きも楽しんでもらえたら嬉しいです。




