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1.悲劇の王太子

 300人は入ろうかという講義室の最後列でアメリーは船を漕いでいた。


「……アメリー、アメリー!」


 隣に座った友人ヴィプケがアメリーを肘でつついて囁いた。アメリーは、(まなこ)を手でこすりながら、彼女のほうを恨めしそうに見た。


「ん……何? せっかくいい気持ちで居眠りしてたのに」

「ヤバイよ、教授がこっち見た!」

「大丈夫に決まってるよ。一番後ろなんだよ?」

「前から見たら、うちら丸見えなんだってば!」


 講義室の席は段状になっていて最後列は一番高い。だから前にいる講師からはかえって見えやすい。


「ソヌス共和国史なんてつまんないよぉ。どうでもいいから、寝かせて」


 アメリーは、席の前に備え付けられているテーブルにガバッと突っ伏した。


「ちょ、ちょっと、アメリー、起きて! これ必修だよ。落としたら、留年なんだよ?」

「あっ、そうか?! どうしよう?!」

「ちょっとアメリー、声が大きいよ。教授に聞こえちゃう」

「そこ! 私語は止めなさい!」


 2人がコソコソ話しているのがとうとう教授に見つかってしまった。もしかしたら今までも気付いていたけど、我慢の限界が来たのかもしれない。怒鳴られたアメリー達は慌てて口を噤んだ。


 アメリーは授業を聞いている振りをしながら、愛読書の『アレンスブルク王国史』を開いた。この本は高名な歴史学者が一般向けに書いた歴史書だ。中身は王国の成立から始まり、150年前まで隣国だったソヌス王国の革命にアレンスブルク王国が呑まれるまでの歴史を扱っている。


 王国史を開くと、ある特集ページが自然に開く。アメリーはこの特集を何度も読んでいるので、本に開き癖が付いている。


『悲劇の王太子ジークフリート』


 白黒写真でも分かる色素の薄い髪と瞳、白い肌に、すっと筋の通った鼻と微笑みをたたえた形のよい唇が麗しい。勲章を沢山付けたうら若く凛々しい王太子の正装姿は、アレンスブルク王国フリークでなくとも誰もが知っているぐらい有名だ。この写真が撮影された後まもなくジークフリートは心中事件で命を落としたとあって、写真を見る者の心に切ない感情を掻き立てる。


「こんな若くして死んじゃって……どうして人生を全うしようって思わなかったの? 政略結婚だって死ぬよりましじゃない? 結婚してみれば案外打ち解けられたかもしれないのに……」


 アメリーは白く細い指でジークフリートの写真の頬をそっと撫でた。


 その後は授業の内容なんて全然頭の中に入って来ず、アメリーはひたすらジークフリートのことばかり考えていて、教授が授業の終わりを告げたのにも気が付かなかった。


「アメリー、授業終わったよ! 早く学食行こうよ。早くしなきゃ今日の定食なくなるよ!」

「今日の定食ってヴィーナー・シュニッツェル(トンカツ)だっけ?」

「そう、シュニッツェルの時は定食がなくなるの、早いんだから、急がなくっちゃ!」

「ゴメン、ゴメン!」


 アメリーは本を閉じて大切そうにバッグに仕舞った。ヴィプケはあきれたような顔をした。


「ンもう、またジークフリート王太子?! よく飽きないね。もうとっくの昔に死んでる人じゃん」

「ひどいよ、そんな言い方! 麗しのジークフリート様だよ!」

「ハイハイ、分かった、分かった」

「何、そのいい加減な言い方! 全然分かってないでしょ?!」


 今までふざけた口調だったヴィプケは突然、真面目顔になって立ち止まった。


「ねえ、アメリー、王太子様好きなのはいいけどさ、さすがにさっきの態度はまずかったよ。教授に目をつけられちゃったかも。ソヌス共和国史はうちの歴史学科じゃ必修なんだから、これを落としたら留年だって分かってるよね? 来年、一緒にアレンスブルク王国史ゼミに入るって約束したじゃん!」

「う……それを言われると、何も言えなくなる……」

「じゃあ、今度から少なくとも真面目に授業受けてるふりしようね。はい、これ、今日のノート!」

「ありがとー! やっぱり持つべきものは友達だ!」

「ちょ、ちょっと、苦しいよ、アメリー!」


 ノートを受け取ったアメリーはヴィプケに飛びついた。彼女は苦しいと言いながらも、嬉しそうだった。


 アメリー達の出身は、ソヌス共和国の中でもアレンスブルク王国だった場所だ。アメリーは王国を併合したソヌス共和国の歴史には興味を持てないが、今年入学したソヌス国立大学でアレンスブルク王国史を専攻するためには、ソヌス共和国史の単位取得が大前提になる。


 アメリー達が色々話しながら学食に着いた時には、8割がた席は埋まっていた。でも、なんとか定食のシュニッツェルを確保し、向かい合わせの席を見つけて座った。


 2人がテーブルの上に置いたトレーの上には、本日の定食のメインであるヴィーナー・シュニッツェル、それにフライドポテトとサラダが乗っている。今日のヴィーナー・シュニッツェルにはその常である牛肉ではなくて豚肉が使われているが、くし切りレモンは通常通り、シュニッツェルの上に乗っている。


 アメリーは、レモンをつまんで汁を絞り、シュニッツェルにかけようとしたが、レモン汁のしぶきがテーブルの上に置いてあったスマホにピュッとかかってしまった。


「あっ! レモン汁がかかっちゃった! 新しいスマホなのに……」


 アメリーがスマホの画面を紙ナプキンで拭くと、待ち受け画面のジークフリートの写真が画面に現れ、ヴィプケの目に入った。


「ねえ、社会の窓が開きっぱなしだった男のどこがそんなにいいの?」

「何それ?! まさか、ジークフリート様のこと?!」

「それ以外に誰がいるって言うの?」

「そりゃ、ジークフリート様の浮気性だったところはあんまり好きじゃないけど、やっぱり彼のかっこ良さと比べたら、どんな男でも霞んで見えちゃうんだよね」

「いくらかっこよくても私は浮気性の男はごめんだな」

「確かに乱れていたかもしれないけど、それだって反革命のスパイのためだったと思うんだよね。だってすごく優秀な人だったんだよ。そんな人が節操なしに肉体関係持つと思う?」


 アメリーは、フォークとナイフを皿の上に置き、ヴィプケをまっすぐ見て真剣にジークフリートを弁護した。そんなアメリーに彼女は半ば呆れ気味のようだった。


「ハイハイハイ、有名なスパイ小説のヒーローだっていつも違う女性を侍らせているもんね」

「ちょっと、何それ!」


 アメリーは、映画にもなったそのスパイの横にはいつも違う女性がいたのを思い出した。その記憶の中でスパイを演じた俳優がジークフリートの顔に変わり、アメリーは一気に嫌な気持ちになった。


 そんな不快な気持ちを押し込むように、アメリーは切り分けたシュニッツェルを口の中へ運んだ。サクッとしたその衣には、さっきかけたレモンの酸味が微かに効いていた。


「それにしても謎だよね。男女かまわず肉体関係を持ってるほどお盛んだったのに、男爵令嬢と『真実の愛』を見つけて心中しちゃったんだよね。何が彼を変えたんだろう? 浮気性の男が急に1人の女性と添い遂げられないなら心中するのって変だよね。それに散々結婚を待たされた王太子の婚約者がかわいそうだったな」

「だからさ、心中事件自体、革命派の陰謀だったのかもしれないって思わない? その数年前からもうアレンスブルク王国は政治的にガタガタだったじゃん。もしかしたらジークフリート様の悪い噂だって革命派のせいかもしれないよ」

「ふーん、そうかなぁ」


 ヴィプケは納得いかない様子だった。そんな風に喧々諤々ジークフリートのことを話しているうちに、アメリー達は定食を食べきっていた。でも学食は徐々に空いてきていてヴィプケの次の授業が始まるまでここで話していても大丈夫そうだった。


 ふと、アメリーはいつも思っていることをヴィプケに聞いてみたくなった。


「ねえ、もしジークフリート様が生きていたら、アレンスブルク王国はソヌスに併合されなかったかもって思わない?」

「買い被り過ぎだよ。あの女好き、いや男も好きだったんだっけ? とにかく性生活が乱れたあの人の信用はゼロだったと思うよ」

「ひどいなぁ。プライベートはともかく、ジークフリート様は叔父よりも有能だったと思うんだよね」

「叔父って心中事件の後、王太子になった妾腹の王弟のことだっけ?」

「そう、あの人の評判って散々だったから、領地で反乱が起きて王弟一家は殺されちゃったんだよね。その上、王妃も暗殺されちゃった。結局、ジークフリート様の心中事件から10年もしないうちに、国内がガタガタになってソヌス王国の革命派にアレンスブルクの王制は倒されちゃったんだよね」

「ああ、その王妃って、あのソヌス王国の王女だった王妃? あれも大概な悪女だったよね。旅行三昧で王宮にはほとんどいなかった上に、騎士や侍従と浮気しまくりでしょ? よく国王が許してたよね」

「ベタ惚れだったらしいよ。そんな淫乱女のどこがよかったのか分からないけどね」

「その血を受け継いだのが性豪ジークフリートか」

「だーかーらっ! ジークフリート様のその噂は、政敵を出し抜くためか、政敵が流したガセネタだってば」


 当時のきな臭い政治情勢から、心中事件は革命派の陰謀だったのではないかと疑問視する見方も根強い。そういう視点からは、ジークフリートはことさら悲劇の王太子として強調して見られる。今も心中事件の真相は謎に包まれたままである。


「あ、いけない! もう次の授業に行かなきゃ!」


 ヴィプケは、アメリーに別れを告げて慌ただしく次の授業へ向かった。

 次のコマが空き時間のアメリーは別の友人達との待ち合わせ場所に向かった――まさかそこで事故に遭って意識不明になるとは思わずに――

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