Ⅲ
数日後。俺は翔とともに、別邸の一室でそれぞれ手にした書物を捲っていた。
書物といっても、紙の束を糸で綴った簡易な造り。びっしりと字が羅列された中身は、太學入学に用いられた過去の試験問題である。
規定により、直近三年分のものは流通していないが、それ以前の過去問は入手が出来る。卓からはみ出すほど積まれたこの過去問の山は、白狐さんの計らいで集められた。
結局、俺は彼の提案通り、翔とともに太學へ入ることに決めた。
あまり気は進まなかったが、現状それ以外に打てる手がないということを、俺は数日かけて認めた。この八方塞がりの中に残された消去法ともいう。
息苦しい膠着状態を打破するには、さしあたり社会的な──それも、朝廷にとってある程度の意義を持つ──価値を振り翳せるだけの立場を手に入れる必要がある。そうでなければ、身動きが取れない。
朝廷に居続ければ綺羅およびコウキと再び接触できる可能性が高い。俺がかけた望みはそれだけだった。逆に言えば、それしかないのである。
何にも縛られなかった世捨て人の頃とは、状況は全く変わってしまった。長遐への郷愁は捨てなければならない。逸ればそれだけつけ入る隙を与えよう。無論、立場を強めればそれだけ目立つという諸刃の剣ではあるが──どこかで割り切らねば。
さて、太學に入るには、補試と呼ばれる入学試験を受けなければならない。
そもそも補試を受けるには、まず各地方にある州學に一定期間在学した証明が必要なのだが、影家の後援を正式に得た俺たちはその段階をすっ飛ばし、まず何事もなく補試を通過することが目下の目標となる。
補試はおおよそ毎秋実施される。さすがに今年の試験には準備が間に合わないため、来年の補試及第を目指すことに決めた。全国から集まった若者が死に物狂いで挑む太學の受験戦争に、俺たち世捨て人が一年の勉強期間を設け、参戦する。
「補試通過の倍率はどれくらいだろう」
「年によるらしいが、大体三百から千倍くらいかな」
「振れ幅がでかすぎて全然参考にならないな」
太學は、日本の学校のように一年を単位とした繰り上げ式ではない。成績上位者は上へ進み、平凡以下の者は残るか、去っていく。つまり、上に進んだものと同じ数だけ新入生が補充されるようなものである。
成績不振や日頃の不品行は当然退学の理由に成り得るし、そうでなくとも長く勉学に年月を割けず、経済的な理由で辞めるものも少なくない。補試の倍率はそういった受け入れ側の事情にも大きく左右される。
「まず間違いないのは、優秀な成績をとれば合格できるってことだよ」
「単純だが、難しいな」
俺は顔を顰める。翔は、世捨て人にしては意外なほど教養があり、基本的な読み書きや算術のほかに知識を問うような分野に関しても多少は学がある。当然猛勉強しなければならないだろうが、真剣にやれば補試通過も叶わない夢ではない。
問題は俺である。
「こっちに来て一年半だ。孑宸語は読めるが、書けないんだよ」
そう、俺にとってここは異世界であり異文化だ。辛うじてこの国の言語を読む術は身に付けたが、実は文章を書くことはまだ出来ない。
孑宸語は文字が多く、語順も日本語とはかなり違う。世捨て人の生活では長い文を書く能力など必要なかったので、さして練習してこなかったのである。
ぱらぱらと捲る過去問の文面は、時間をかければおおよそ読むことは出来るものの、内容を理解する基礎知識が足りない。勉強は日々の積み重ねで、文字を読むのもやっとの俺は長い登山道の入り口にすら立てていない。
一年か、と無意識に口に出す。一年で間に合うだろうか。
たった一年。全国から集う競争相手の中には、既に何度も浪人を経験した猛者も多い。国家の官僚を育成する太學、付け焼刃の知識で太刀打ちできるほど楽な試験ではないだろう。
翔がちらりと瞼を持ち上げる。
「皓輝なら出来るよ」
「そう言ってもらえるのは有難いけどね」
官吏を育成する太學の入学試験で、文法の間違いなどまず論外。
「人間の世界でチュウガッコウに通っていた頃は、頭が悪い振りをするくらいには頭が良かったんだろう」
まあそうだけど。与えられる課題を事務的に捌けば容易く点数に繋がる日本の義務教育の勉強法がどれだけ通じるか、俺はあまり実感が持てない。
まず計画を立てなければならない──補試の科目は『天介地書』に基づいた天学の論説、時事問題にあたる策問、自然科学に相当する理系科目の理学。論述の採点は試験官の匙加減で決まる気まぐれさもさることながら、そもそも字が綺麗でなければならないという俺にはかなり厳しい基準もある。
頭がぐるぐると混乱し、逃げ出すように顔を上げた。向かいの翔は珍しく眉間に皺など寄せ、過去問の内容と睨み合っているが、その目には優柔不断の揺らぎはない。どちらかといえば、腹を決めたような、据わった目付きをしている。
「……なあ」
俺はさり気なく、ため息のように吐き出す。少し置いて、翔が面を上げた。
「何?」
「どうして太學に入ろうと決めたのか、訊いてもいいか?」
即答しかけた口を遮るよう、俺は重ねる。「本当にこれでいいと翔は思うのか?」
僅かに沈黙があった。束の間、時間が止まったようだった。蒸し暑いくらいの室内、頬を撫ぜる風が、乾いた紙の匂いを寄越す。
「……俺」
外を気にするよう、翔は窓に目線を向けた。震えないよう、声を押し殺しているように聞こえた。
「俺、白狐さんがいない長遐に帰りたくないよ」
「……」
「未練がましいと言われてもいいから、白狐さんの近くに居たい」
俺は喉が狭くなるのを感じる。何と答えていいか分からなかった。翔のその言葉が、その想いが、かつて長遐で俺が翔に語った母親への執着とよく似通っていることを指摘すべきか迷った。
俺よりも先に割り切ったように見えた翔が、その実俺よりもずっと強く、深く白狐さんに執着している。ある意味最も懸念すべき事態だったかもしれない。
二十年も長遐で過ごしてきた翔が、突然喪失を味わい、それを埋める何かを探すのは当然のことだ。結果的に翔が選んだ方向性は、スコノスではない翔にしては不健全な思考のように思える。
「……そうか」
ただそれだけしか言えなかった。俺に何が出来ただろう。如何なる方向であったにせよ、その執着が向上心に繋がっているならまだいいのではないだろうか。そんな考えも過る。
「頑張ろう」
翔が自分自身を励ますようぽつりとつぶやく。新鮮な言葉だった。これまで世捨て人の家で暮らした日々の中で、翔がそんなことを言ったことは一度もなかった。
頑張る。
前向き、といえば前向き。俺は自分が何を言っても、意味を為さないことを悟った。
翔は決めたのだ。社会で生きることが自分に向いていないことなど、百も承知。それでも白狐さんの傍に居たいと願った翔の直向きな気持ちを、俺は見守るほかない。
「そうだな、頑張るか」
俺も声に出してみる。音が形を帯びたよう、浮いていた気持ちが固まる。ぱらりと捲った一頁。羅列された筆字は無味乾燥で、俺たちの感情など少しも汲まず、ただ淡々と並ぶのみ。
ふと穏やかな風の匂いを嗅ぎ、俺は一年後の秋に思いを馳せた。白狐さんが漕ぎ出した荒波の俗世。揉まれ、千々になろうとも、社会の趨勢は過去への郷愁を許しはしない。
複雑に絡まり合った朝廷の枢に、俺たちはこうして身を投じることになる。
明後日の空模様 朝廷編、これにて完結となります。ここまでお付き合いくださった方々ありがとうございました。
明後日の空模様シリーズ、次幕は『陽国編』として続きます。幕間としてこれの他に二作品ほど番外編を投稿する予定ですので、そちらも楽しんでいただければ幸いです。(2021/1/5)
番外編
『名もなき覇の系譜』 https://ncode.syosetu.com/n3419gw/ (完結)
都を追放されたばかりの白狐が夢に見た、紫の目を持つ子どもとの過去の物語。
『命散るとて、月は冴ゆ』 https://ncode.syosetu.com/n7469ha/ (完結)
白狐の妻として登場したさゆ。彼らが如何にして出会ったか、その恋にまつわる過去の物語。
『明後日の空模様 陽国編』 https://ncode.syosetu.com/n0070hs/
第三幕始まりました。(2022/6/26)




