第2話 せめてその髭を外せ
「で、どこに行くんだよ?」
自転車のペダルを踏み込みながら、俺は前に座るヒロの背中越しに声を投げた。
夕方の風が少し冷たくて、制服の隙間から入り込んでくる。
「ラーメン屋!」
「ラーメン屋ぁ!?」
思わず声が裏返った。
ラーメン屋?
今、ラーメンって言ったか?
さっきまで“幽霊”だの“先生に会いに行く”だの言ってた流れから、なんで急に炭水化物の話に飛ぶんだ。
脈絡という概念はどこに置いてきた。
……いや待て。
まさかとは思うが、「とりあえず腹ごしらえしてから」みたいなノリじゃないだろうな。
俺、今日マジで手持ちないんだけど。
財布の中身、さっき購買でパン買った時点でほぼ壊滅してるぞ?
小銭が数枚と、しわくちゃの千円札が一枚。
ラーメン一杯でほぼ消し飛ぶラインナップだ。
というかそもそも、今そこまで腹が減っているわけでもない。
さっきまでの俺は、幽霊と先生のことで頭がいっぱいだったのであって、精神的には満腹どころか情報過多で胃もたれ気味なんだが。
「行く前に変装しなきゃね」
ヒロが、なぜか楽しそうに言った。
「変……装……?」
俺はペダルを踏む足を一瞬だけ止めかけた。
「先生に見つかっちゃうとまずいからさ?」
さらっと言うな。
まずいからさ?じゃないんだよ。
おいおい。
一体なんの話をしているんだ、こいつは。
ラーメン屋。
先生。
変装。
単語だけ並べると、完全に別ジャンルの話が無理やり合体している。
共通項が見えない。
というか、意図的に見せていない気がする。
……おちょくってないよな?
ここまで来て「ドッキリでしたー」とか言われたら、さすがに俺もキレるぞ。
「これは噂なんだけど……」
ヒロが、少しだけ声を落とした。
「おう」
俺もつられて声を低くする。
「飛鳥先生は最近、毎日ラーメン屋に行ってるらしいんだよね。同じとこの」
「ふむ」
毎日。
同じ店。
それだけ聞くと、ただのラーメン好きの可能性もある。
あの見た目でラーメン通だったら、それはそれでギャップが強すぎるが。
「で、その帰りに、一人で廃病院の中に入っていってるんだって」
「廃病院??」
さすがにペダルを踏む足が鈍った。
ラーメンからの廃病院。
落差が激しすぎる。
「ほら、あそこ。リサイクルセンターの横の」
その一言で、俺の中の地図が一気に繋がった。
リサイクルセンターの横。
ああ、あそこか。
大通りを渡ってすぐの、あの一帯。
最近できたばかりの妙に派手なパチンコ屋と、看板の電気が半分くらい切れてるドラッグストアに挟まれて、時代から取り残されたみたいにぽつんと残っている建物。
あの“廃病院”と呼ばれている場所。
この街でその呼び名が指すものは、ほぼ一つしかない。
リサイクルセンターの工場の煙突が目印で、昼間でもうっすらと煙が上がっていて、それが風に流されて河川敷の空に広がっていく。
どこか常に薄く曇っているように見える、あの一角だ。
昔はその近くにボウリング場があった。
橋を渡った先の道沿いにあって、休日になるとそこそこ人が入っていた記憶がある。
気づいたら潰れていて、看板だけがしばらく残っていた。
あの辺りはそういう“中途半端に時間が止まった場所”がやけに多い。
そして、そういう場所にはだいたい――
ろくでもないものが溜まりやすい。
「そこに、飛鳥先生が?」
思わず聞き返した。
「そう! しかもここ最近ずっと」
ヒロがやけに力強く頷く。
……あんな所に、一人で?
俺はペダルを踏みながら、頭の中であの廃病院の外観を思い浮かべた。
帰り道とは少し外れた位置にあるせいで普段わざわざ近づくことはないが、車で通りかかったときに何度か見たことはある。
フェンスは一部破れていて、敷地内の雑草は膝の高さまで伸び放題、窓ガラスは割れ、カーテンの残骸が風に揺れている。
典型的な“放置された建物”だ。
幽霊ってのは、別に特別な場所にしか現れないわけじゃない。
住宅街にも出るし学校にも出るし、駅のホームにだって普通にいる。
ただし、“現れやすい場所”と“そうでもない場所”の差は確実に存在する。
条件はいくつかある。
人の出入りの有無、過去の出来事、土地の流れ、建物の構造、時間帯、偶然の重なり。
それらが噛み合ったとき、そこは“溜まり場”になる。
廃病院なんて、その条件をほぼ全部満たしている。
人がショッピングモールに自然と集まるように、ああいう場所には“向こう側の連中”が集まりやすい。
言ってしまえば、幽霊にとってのテーマパークみたいなものだ。
実際に中を見たわけじゃないけど、わざわざ見なくたってわかる。
理由は説明できないが、ああいう場所には確実に“いる”。
空気の重さというか視線の残り香というか、そういうものが遠目に見ているだけでもなんとなく伝わってくるのだ。
そんな場所に、飛鳥先生が毎日通っている?
しかも一人で?
……意味がわからない。
「いらっしゃいませ〜」
考え込んでいるうちに、気づけば俺たちはラーメン屋の前に到着していた。
暖簾をくぐると、出汁の匂いと油の香りが一気に鼻を突いてくる。
店内はそこそこ混んでいて、カウンター席には仕事帰りっぽいサラリーマンが並び、テーブル席では学生らしき集団が大声で笑っていた。
その奥にちょうどいい位置の席があった。
壁際で、半分だけ仕切りのように引き戸がついている。
外からの視線が少し遮られる、いわゆる“隠れポジション”だ。
「ここ」
ヒロが迷いなくそこへ座る。
俺も向かいに腰を下ろした。
確かにこの位置なら入口の様子も見えるし、いざというときは身を引けば視界から外れられる。
……いや、“いざというとき”ってなんだよ。
ラーメン屋で潜伏する必要性について、一度冷静に考えたほうがいい気がする。
「先生来ても、ここなら隠れられるから」
ヒロが小声で言いながら、もぞもぞと何かを取り出した。
そして次の瞬間。
サングラス。
ちょび髭。
ついでにジャージのフードをすっぽり被る。
……誰だお前。
「どこで用意してきたんだそれ……」
俺は思わず素で聞いた。
「100均」
「そんなもん売ってんのか」
世界は広いな。
少なくとも、俺の知っている100円ショップはそこまで潜入装備が充実していない。
「そうだ、マスクもしなきゃ」
「さすがにやりすぎじゃね?」
「念には念を、ね?」
ヒロは真剣な顔で言う。
いや、その“念”の方向性が完全に間違っている。
というか、逆に目立ってる。
ラーメン屋でサングラスに付け髭の女子とか、どう考えても職質案件だろ。
ヒロはさらに、同じような小道具を俺のほうにも差し出してきた。
「はい、俊の分」
「いらん」
即答した。
これを装備した瞬間、俺の社会的評価が取り返しのつかない領域まで落ちる未来が見える。
せめて“普通に怪しい人”でいたい。
「えー」
「えーじゃない」
俺はため息をつきながら、代わりに制服の上着だけを脱いだ。
ワイシャツ姿になる。
これだけでも多少は印象が変わる……はずだ。
少なくとも、付け髭よりはマシだろう。
「それでいいの?」
「これが俺の限界だ」
人間には守るべきラインがある。
俺はまだ、そのラインの内側にいたかった。
「ご注文は何になさいますか?」
水を置き終えた店員が、にこやかな営業スマイルのままこちらを見た。
その視線が、一瞬だけヒロのサングラスと付け髭のあたりで止まった気がしたが、プロは動じない。
すごいな、この人。
「俺は別に……」
俺が曖昧に手を振ろうとした、その瞬間。
「チャーハンとチャーシュー麺で」
ヒロが即答した。
迷いが一切ない。
むしろ楽しそうだ。
「食べんの!?」
思わず前のめりになる。
「せっかく来たんだし、何か食べれば?」
ヒロは当然のように言う。
いや、その“せっかく”の方向性がおかしい。
こっちは張り込みだぞ。
潜伏だぞ。
胃袋を満たすイベントじゃない。
「いらねーって」
俺は小声で拒否する。
財布の中身と、目的と、あと若干のプライドがそれを許さない。
「あ、そう」
ヒロはあっさり引いた。
引き際が軽すぎる。
そのせいで、逆にこっちが不安になる。
店員は一瞬だけ困ったような顔を浮かべた。
そりゃそうだ。
片方はサングラスに付け髭の怪しい女子。
もう片方は注文しない男子高校生。
来店目的があまりにも不純すぎる。
というか、ヒロに関してはほぼ変質者である。
俺も俺で、注文しないまま席に居座るという意味では同類だ。
逆の立場だったら、間違いなく「すみません、満席なので」とか言って外に出す。
こんな客、店に入れたくねーもん。
「あ、あとギョーザも!」
ヒロが追撃した。
「そんな食うの!?」
俺は思わず声を上げる。
チャーハンにチャーシュー麺にギョーザ。
もはやフルコースである。
「だってお腹空いてるし」
ヒロはけろっとした顔で言った。
いや、それはそうなんだろうけど。
そうなんだろうけどさ。
俺たち、今やってるの“尾行”だよな?
情報収集だよな?
飯を満喫するフェーズじゃないよな?
なんか、目的がブレてきてないか?
そもそも本当にこの店に来るのか、飛鳥先生は。
今のところ、入口の暖簾は平和そのものだ。
サラリーマンが出入りし、学生が入ってきては笑い声を上げる。
そこに、あの人が現れる気配はない。
俺はソワソワと落ち着かないまま、何度も入口のほうへ視線を送った。
視線が合わないように、体を少し引き戸の影にずらしながら、ちら、ちら、と様子を窺う。
完全に不審者の動きである。
だが仕方ない。
もし本当に来るなら、ここが勝負どころだ。
「いっただっきまーす!!」
そんな緊張感をぶち壊すような声が、目の前で弾けた。
焼きたてのギョーザが運ばれてきた瞬間、ヒロは勢いよく割り箸を割り、迷いなく小皿にタレを注ぎ始める。
醤油、酢、ラー油。
黄金比を一瞬で作り上げる手際の良さ。
完全に慣れている。
ジュウ、とまだ熱を持ったギョーザから立ち上る香ばしい匂いが、ふわりと鼻先をかすめた。
……くそ。
さっきまで腹なんて減ってなかったのに、急に空腹を自覚してしまった。
視覚と嗅覚の暴力である。
こんがり焼けた皮。
箸で持ち上げたときにわずかに滲む肉汁。
タレにくぐらせた瞬間の照り。
全部が“うまい”を主張してくる。
めちゃくちゃ美味そうだなおい。
俺も頼もうかな。
いや、でも――財布が死ぬ。
それに、今は任務中だ。
任務中にラーメンとギョーザに屈するのは、なんというか、負けな気がする。
……いやでも、これはずるいだろ。
「一個食べる?」
ヒロが、箸でつまんだギョーザをこちらに差し出してきた。
湯気がまだ立っていて、皮の表面にはこんがりとした焼き色がついている。
「……え」
反射的に間の抜けた声が出た。
「だから頼めば?って言ったのに」
「手持ちがねーんだって」
俺は小声で抗議する。
現実的な問題として、財布が軽すぎる。
軽すぎて風で飛ぶレベルだ。
「貸してあげるけど?」
ヒロがあっさりと言った。
「は? まじ??」
思わず食いつく。
これはデカい。
「10%の利息分がつくけどね?」
「金取んのかよ!」
即座にツッコミが出た。
それは“貸す”じゃなくて“ビジネス”だろ。
高校生相手に利息取るな。
というか10%って普通に高いぞ。
消費者金融でももう少し遠慮するぞ。
「それ貸しって言わないだろ」
「えー?」
「せめて1%だな。そこが妥協ラインだ」
「いやなんで交渉してんの?」
ヒロが呆れた顔で笑う。
「……あはは。冗談だよ冗談。何か頼めば? タダで貸してあげるから」
「……えーっと、じゃあ」
俺は一瞬だけ逡巡したが、すぐに決断した。
ここまで来て、空腹と香りの暴力に抗うのは無理だ。
これはもう、不可抗力である。
「すいませーん、追加注文いいですかー?」
店員を呼ぶ。
初めて来た店なので、無難に醤油ラーメンを選ぶことにした。
メニューを見る限り、ここはどうやら醤油が看板っぽい。
豚骨もあったが、初見で冒険するほど俺はチャレンジャーじゃない。
こういうときは王道が一番だ。
注文を終え、少しすると、目の前に湯気を立てた丼が運ばれてきた。
透明感のあるスープに浮かぶ油の粒。
ネギ、メンマ、チャーシュー。
そして、きれいに揃えられた麺。
見た目だけで“ちゃんとしてる店だ”とわかるタイプのラーメンだ。
俺は箸を取り、軽くスープをすする。
……うまい。
想像よりしっかりしている。
醤油のキレと、出汁のコクがちゃんと両立している。
これは当たりだ。
「……で、なんで尾行を?」
麺をずるずると啜りながら、俺は本題に戻した。
ヒロはチャーハンを頬張りつつ、ちらりと入口のほうを見てからこちらに視線を戻す。
相変わらず、飛鳥先生が現れる気配はない。
仮に来たとしても、なぜ尾行なんて真似をする必要があるのか。
そこがいまいち見えてこない。
廃病院に幽霊がいること自体は、別に不思議でもなんでもない。
むしろ“いる前提”で話を組み立てるべき場所だ。
だけどそれと“先生を追う”という行動が、どう繋がるのかがイマイチわからない。
俺はてっきりヒロ自身が幽霊を見たとか、何か心霊現象に巻き込まれているとか、そういう話だと思っていた。
普通はそうだろ。
「相談がある」と呼び出されて、「幽霊がいる」と言われたら、まず想像するのは“自分に何か起きた”パターンだ。
怖い目に遭ったとか、見えないものが見えるようになったとか、家で妙な音がするとか。
そういう、わかりやすい“被害者側”の話。
それなのに、実際に出てきたのは――
先生の後を追う、という謎の行動。
……方向性がおかしい。
「それで?」
俺はもう一度問いかける。
スープの湯気が、わずかに視界を揺らした。
「……私も最初は不思議だったよ」
ヒロが、少しだけ声のトーンを落として言った。
さっきまでの軽さが、ほんのわずかに消えている。
「何が?」
俺はラーメンの麺を啜りながら聞き返す。
スープの湯気の向こうで、ヒロの表情がいつもより真面目に見えた。
「友達の間で噂になってたんだ。先生が一人で山に入っていったとか、廃校の校舎に消えていったとか……で、今回は廃病院。聞いたことない? 今の話の経緯」
「全然……」
俺は即答した。
そんな話、少なくとも俺の耳には入ってきていない。
クラスの連中はどちらかというとくだらない話題ばかり共有するタイプで、こういう妙に不穏な噂は流れてこないのだ。
「とにかく、最初はただの噂だと思ってたんだよ。誰かが盛った話っていうかさ」
ヒロは箸でチャーハンを軽くつつきながら続ける。
「で、この前、塾の帰りにこのラーメン屋に寄ったんだよね。本当に、たまたま」
「ほう……」
俺は相槌を打つ。
偶然、というやつか。
「そしたら先生が来てさ」
「……」
なるほど。
話が繋がってきた。
「まさかと思うじゃん? だって“ラーメン屋に出没する”って聞いてたんだよ? 先生を見た瞬間、うわ、これ噂通りじゃんって思って」
ヒロは少しだけ身を乗り出して言う。
そのときの驚きが、まだ残っているみたいに。
俺はスープを一口飲みながら頷いた。
まあ、確かにそれはテンション上がるかもしれない。
噂と現実が一致した瞬間ってのは、妙に現実味がなくなるからな。
「で?」
先を促す。
ヒロは一度だけ入口のほうを確認してから、またこちらに視線を戻した。
「先生、こっちに気づいてなかったんだよね。だから、食べ終わったあと……ついていってみたの」
「……」
おいおい。
軽いノリで言ってるけど、それ普通にアウト寄りの行動じゃないか?
とは思ったが、口には出さない。
今は話の続きを聞くほうが先だ。
「噂だと、そのあと廃病院に行くって聞いてたから」
ヒロの声が、そこで少しだけ沈んだ。
さっきまで動いていた箸も、ぴたりと止まる。
あれだけ勢いよく食っていたチャーハンが、急に手つかずのまま残された。
空気が変わった。
「怖くて、敷地の中には入れなかったんだ。中、すごい暗くてさ」
ヒロがぽつりと呟く。
その言い方は、単なる“暗い”じゃない。
“入りたくない暗さ”だ。
「先生は?」
「中に入っていった」
「……ふーん」
俺は一応、軽く流す。
だが内心では、少しだけ引っかかっていた。
やっぱりおかしい。
あの場所に、何の躊躇もなく入っていくってのは。
「その時に見たんだ」
ヒロが、ゆっくりと顔を上げる。
サングラス越しでもわかるくらい、表情が固い。
「……え?」
俺も自然と手を止めた。
「信じられないと思うかもしれないけど、廃病院の建物の中に……」
ヒロがそこまで言いかけた、その瞬間。
「いらっしゃいませ〜」
チリン、と乾いた音が鳴った。
入口の呼び鈴。
夕方六時を回って、店内の客入りも少しずつ増えてきている。
さっきから何度も鳴っているはずの音なのに、そのときだけやけに鮮明に耳に届いた。
ヒロは鈴が鳴るたびに、サングラス越しに目を尖らせてた。
そのときふと、へんな挙動を見せたんだ。
毎度の如く軽快な声が、店内に響き渡ったあとに。
「げっ!!!!!」
ヒロが声にならない声を漏らす。
俺もつられて入口を見る。
そして、固まった。
……おいおい、まじか……
まじで来た!!
店の暖簾をくぐってきたのは、見間違えるはずもない。
スーツ姿の飛鳥先生だった。
仕事終わりなのか、いつもより少しだけラフな雰囲気をまといながら、それでもあの完成された立ち姿はまったく崩れていない。
周囲の空気が一瞬で変わる。
というか、俺の中だけ時間が止まった。
思わず、水を吹き出しそうになる。
待ち構えていたはずなのに、いざ本物が現れると脳の処理が追いつかない。
まじで来たのかよ。
いや、来るとは聞いてたけど。
聞いてたけどさ。
「隠れろ!」
ヒロが小声で叫ぶ。
俺は反射的に体を引き戸の影に滑り込ませた。
心臓が、やけにうるさかった。
「ね、だから言ったでしょ?」
ヒロが、なぜか少し得意げに小声で言った。
「シッ! 声が大きい」
俺は慌てて人差し指を口元に立てる。
何を余裕ぶっこいているんだ、こいつは。
“ね?”じゃない。
そこはもっと慎重になる場面だろう。
今のままだと普通にバレる。
というか、ヒロのその格好の時点で視界に入った瞬間に記憶へ焼きつく。
「普通に身を隠しとけばよくね?」
「普通にって?」
「とりあえずこっち来い。そっち座ってたら視界に入る」
俺は座敷の奥、引き戸の影になる場所を指した。
「大丈夫だよ」
「お前の顔が見えるだろ」
「変装してるから大丈夫だって」
その変装がダメなんだっつーの。
むしろ視線を引き寄せるタイプの装備だろそれは。
サングラスはまだ百歩譲るとして、ちょび髭が致命的すぎる。
ラーメン屋の片隅に、付け髭をつけた女子高生がフードを被って座っている。
どう考えても“自然な客”ではなく、“何か事情がある不審者”だ。
「せめてその髭外せ」
「え、なんで?」
「目立つからだよ」
「でも変装感あるじゃん」
「その“変装感”がいらないんだよ!」
俺は小声で必死に訴えた。
こういうのはいかに周囲に溶け込むかが大事なのであって、仮装大会で存在感を出す競技ではない。
「自然体の方がいいって。この前は変装なんてしてなかったんだろ?」
「そうだよ?」
だったらなおさらだ。
なんで今回に限って怪しさ全開なんだ。
…まあいい。
これ以上押し問答しても時間の無駄だ。
俺はため息をこらえながら、できるだけ身を低くした。
飛鳥先生は入口近くで店員に案内され、カウンター席に腰を下ろしていた。
こちらからは斜め後ろ姿しか見えないが、それだけでも十分だった。
背筋がすっと伸びていて、座っているだけなのに妙に絵になる。
ラーメン屋のカウンターが、なぜか映画のワンシーンみたいに見えるのだから恐ろしい。
俺たちは座敷の奥に身を潜めたまま、先生がラーメンを食べ終わるのを待った。
時間にして、三十分も経たなかったと思う。
先生は食べるのが早いタイプらしく、丼が運ばれてからほとんど間を置かずに箸を動かし、淡々と食事を終えていく。
無駄がない。
食べ方にすら無駄がない。
そして――
「ありがとうございました〜」
店員の声とともに、飛鳥先生が席を立った。
「行くぞ」
ヒロが小さく囁く。
俺たちはほぼ同時に立ち上がった。
会計を済ませる時間すら惜しい。
しかしここで焦って不自然な動きをすれば元も子もない。
ヒロは慌てて付け髭を外し、俺は会計を済ませながら入口のほうを確認する。
「先出る」
俺は短く言って、ヒロより一足先に店を出た。
暖簾をくぐり、外に出る。
夕方の空気が一気に流れ込んでくる。
すぐに視線を前方へ。
――いた。
少し先を歩く、スーツ姿の背中。
意外にも徒歩だった。
てっきり車で来ているものだと思っていたが、先生は駅のほうとは違う道へ、迷いなく歩き出していた。
「学校には電車で通ってるみたいだよ?」
遅れて出てきたヒロが、隣に並びながら言う。
「へー」
「さ、行くよ」
ヒロが当然のように歩き出す。
行き先は、たぶん例の廃病院。
ヒロの話によれば、先生は時々別の場所にも行っているらしい。
山。
廃校。
それ以外にも、夜に一人で行くには少し妙な場所ばかり。
……というか、一つ聞いていいか?
「電車で通ってるとか、別の場所にも行ってるとか、…それ、誰情報なんだよ」
俺は小声で尋ねた。
「ウチには優秀な探偵がいるんだよ」
ヒロが得意げに答える。
「ウチって?」
「D組」
「跡つけてたってこと?」
「まあ、詳しいことは私にもわからないけど?」
ストーカーじゃね?
……それ。
いや、気持ちはわからなくもない。
飛鳥先生が魅力的なのは事実だ。
色っぽくてスタイル抜群で、授業はわかりやすくて、立ち振る舞いまで洗練されている。
非の打ち所がないスーパーウーマン。
完璧すぎるせいで、逆にミステリアスに見える。
だから皆、先生に興味津々なのだ。
とはいえ、気軽に話しかけられるやつは今のところほとんどいない。
一言で言えば恐れ多い。
授業中でさえ、教室には妙な緊張感が走る。
俺のクラスなんて、飛鳥先生の授業のときだけ明らかに空気が違う。
普段は騒がしい連中まで背筋を伸ばし、寝ているやつはほぼいなくなり、黒板より先生の横顔を見ているやつが何人か発生する。
かくいう俺も、その一人ではある。
今日の先生はメガネをかけていた。
あれはあれで良かった。
知的で涼しげで、少しだけ近寄りがたい感じが増していて、要するに非常に良かった。
あの人、たぶん何を着ても似合う。
夏場に見たタンクトップとデニムの組み合わせなんて、正直反則だった。
秋になってからは服装の印象も変わって、今日はカジュアルなカーキパンツに、袖にデザインの入った甘めの白シャツ。
大人っぽいのに柔らかくて、ラフなのに品がある。
もはやスウェット姿でもパリコレに出られる気がする。
いや、まじで。
「……ねえ、なんか変な妄想してない?」
不意に、ヒロが横からじとっとした視線を向けてきた。
「は!?」
思わず声が裏返る。
「男子って皆そうなの? 飛鳥先生はともかく、美人に弱いっていうかさ?」
ヒロは半分呆れたような、半分面白がっているような顔で言う。
こいつの中で今の俺はどんな人間として認識されているんだ。
少なくとも言えるのは、かなり失礼な評価である。
ヒロの目に男子がどう映っているかは知らないが、少なくとも俺は変な妄想なんてしていない。
断じてしていない。
ただ、目の前に存在する美しいものを、美しいと認識し、その情報を脳内で整理しているだけだ。
言ってしまえばこれは観察であり、分析であり、ある種の学術的行為である。
芸術鑑賞に近い。
……たぶん。
「変な視線送んないでね? 先生、勘づいちゃうから」
ヒロが釘を刺してくる。
「どういう意味だよ」
「ほら、気配ってあるでしょ? そういう意味」
「どんな気配……」
「変態チックな気配?」
「あのなぁ」
即座に否定したいところだが、完全に否定しきれないのが腹立たしい。
自覚はないが、他人から見てどう映っているかまでは保証できない。
人間というのは、案外無自覚な部分でボロが出る生き物だ。
……いや、出てないはずだ。
たぶん。
俺たちはラーメン屋を出て、そのまま先生の後を追う形で歩いていた。
自転車は店の前に置きっぱなしだ。
鍵もかけていない。
ヒロが「帰りに寄ればいいでしょ」と軽く言ったので、そのまま流された形だが――
不用心すぎるだろ。
このご時世、自転車に鍵をかけないほうが珍しい。
俺なんか、過去に二回盗まれている。
一回目はショッピングセンター。
買ったばかりの新車で、しかもちゃんと鍵もかけていたのに、気づいたら影も形もなくなっていた。
あのときは本気で意味がわからなかった。
現実感がなさすぎて、「あれ、俺ここじゃなかったっけ?」とか一瞬自分を疑ったくらいだ。
二回目は――そうだ、本屋の帰りだ。
立ち読みが思いのほか長引いて、外に出たら見事に消えていた。
あれも衝撃だった。
ついさっきまでそこにあったはずのものが、綺麗さっぱりなくなっている。
「嘘だろ!?」って、あのときは本気で声に出た。
周りの人に変な目で見られたのも覚えている。
それ以来、俺は自転車を買っていない。
というか、買う気が起きない。
どうせまた消えるんじゃないかという疑念が拭えないからだ。
……なのに。
今、俺はその“無防備な自転車”を店の前に放置している。
鍵すらかけずに。
冷静に考えて、かなり頭の悪い行動である。
「なあ、あれ絶対盗まれるぞ」
小声でヒロに言う。
「大丈夫でしょ」
「どこがだよ」
「この辺そんな治安悪くないし」
「フラグにしか聞こえないんだが」
俺はため息をついた。
まあ、今はそれどころじゃないか。
目の前には、スーツ姿の飛鳥先生の背中がある。
一定の距離を保ちながら、迷いなく歩いていくその後ろ姿を俺たちは静かに追い続けていた。




