第1話 相談に乗ってくれないの?
……ああ、やっぱり何度見ても綺麗だ、と俺は心の中で何度目かわからない同じ感想を繰り返してしまう。
すらりと無駄なく伸びた脚はただ長いだけじゃなく膝から足首にかけてのラインがやけに整っていて、立っているだけで一本の芸術作品みたいに完成されている。その上に乗っている9頭身の均整の取れたプロポーションはもはや「スタイルがいい」という言葉じゃ説明不足で、設計図でもあるのかと疑いたくなるレベルだ。
目の下にぽつりと置かれた小さなホクロがまた厄介で、あれがあるせいで全体の美しさにほんのわずかな“崩し”が生まれて、整いすぎた顔立ちに妙な色気――いや訂正しよう、大人の余裕みたいなものを自然に滲ませているのだからずるい。
艶を含んだ髪は光を柔らかく反射して、触れたら指がそのまま滑っていきそうな質感をしているし、首元で切り揃えられた色っぽいショートスタイルは軽やかなのにどこか品があって、動くたびに揺れる毛先がやけに目を引く。
その髪色もまた絶妙で、透明感を帯びたブルーアッシュが光の加減で微妙に表情を変え、前髪のシースルー越しに見える額とのコントラストが、繊細に分かれた束感をいっそう際立たせていて、正直そこだけで三分は観察できる。
そして極めつけがあの目だ。
怖いくらいに透き通った瞳が、細く整えられた眉の下で静かに輝いていて、こちらを見ているわけでもないのに、視界に入った瞬間に思考が一拍遅れるような妙な引力を持っている。
横顔でも正面でも、ふとした仕草の一瞬でも、どの角度から切り取っても破綻がない。
……いや、これ本当に人間か?
完成度が高すぎるだろ。バランス調整ミスってないか、神様。
こんな生物が普通に教壇に立っていていいのかと、割と真面目に思う。
世の男性諸君にこの光景を見せたら、たぶん八割は二度見するし、残りの二割は最初の一見で思考停止するだろう。
かくいう俺はというと、そのどちらでもなく、もっと悪質な状態に陥っていた。
完全に、心を持っていかれている。
退屈で色褪せていたはずの学校生活が、急にフィルターでもかかったみたいに鮮やかに色づき始めて、毎日の風景が妙にキラキラして見えるのだ。
我ながら少女漫画みたいなことを言っている自覚はあるが、こればっかりはどうしようもない。
飛鳥先生がこの学校に赴任してきてからというもの、朝起きて学校に向かう足取りが軽くなり、授業の時間割を見るたびに一喜一憂するようになり、ついでに言えばこれまで人生で一度も抱いたことのなかった感情まで芽生えてしまっている。
――大嫌いだった数学の時間が、待ち遠しい。
意味がわからないだろう? 俺もわからない。
数字と記号の羅列を見るたびに眠気と絶望を感じていたはずの俺が、今ではチャイムが鳴るのを心のどこかで期待しているのだから、人間の価値観というのは実にいい加減なものだ。
そんな経験、これまでの人生で一度だってなかった。
少なくとも、飛鳥先生に出会うまでは。
「おい、何ボケーッとしてんだよ?」
不意に横から飛んできた声で、俺の意識は教壇のほう――正確には、教壇に立っていた飛鳥先生の残像がまだ焼きついている脳内世界から、現実の教室へと強制的に引き戻された。
「……え?」
「え、じゃねぇよ。呼び出し食らったんだろ? D組の高崎から」
そう言われて、俺はようやく今朝の出来事を思い出した。
……ああ、そういえばそうだったな。
朝の昇降口で靴を履き替えていたとき、隣のクラスの高崎ヒロが妙に真面目な顔で近づいてきて、「今日の昼休み、ちょっと話があるんだけど」とだけ言ってきたのだ。
高崎ヒロ。
D組に所属する、学年でもかなり顔の広い女子生徒である。
女子からは「話しやすい」「気が利く」「距離感がちょうどいい」と評価され、男子からは「ノリがいい」「壁がない」「なんか距離バグってる」と半ば戸惑い混じりに受け入れられている、いわゆる通称“コミュ力お化け”というやつだ。
休み時間になれば自然と人が集まり、行事の班決めでは気づけば中心にいて、先生相手にも怒られないギリギリの冗談を飛ばせるタイプ。
要するに、クラスという小さな社会においてもっとも生存能力が高い人種である。
「喧嘩でも売られたんか?」
隣の席の友人が、面白そうに片眉を上げながら聞いてくる。
「それはないと思うが」
俺は机に頬杖をつきながら答えた。
正直なところ、なんで呼び出されたのかはよくわかっていない。
ただ、少なくとも喧嘩ではないだろう。
俺には高崎に怒られるようなことをした覚えもないし、そもそも相手はあのヒロだ。
あいつが誰かに本気で怒る場面なんてほとんど見たことがないし、仮に誰かと揉めるとしても、陰でこそこそ呼び出して詰めるようなタイプではない。
やるならたぶん、もっと正面から来る。
昼休みの教室でも、廊下でも、あるいは皆が見ている前でも、笑顔のまま相手の逃げ道をじわじわ塞いでいくような、そういう妙に器用で厄介なやり方をするはずだ。
……いや待て。
それはそれで怖いな。
◇
「で、何の用?」
授業が終わり、だらだらとしたホームルームも終わり、気づけば校舎の中から部活の掛け声やボールの弾む音が聞こえ始める時間帯になっていた俺は、指定された待ち合わせ場所――体育館裏へと足を運んでいた。
夕方の体育館裏は妙に静かで、表側の喧騒が嘘みたいに遠く感じる。
コンクリートの壁は昼間の熱をまだわずかに残していて、裏口へ続く金属製の階段には、誰かが座っていた形跡みたいにほんのり温もりが漂っている。
その階段の上に、ヒロはいた。
裏口のドアにもたれかかるように腰掛けて、片手でスマホをいじりながら、もう片方の手でジャージの袖を無意識にいじっている。
制服の上から羽織った部活用のジャージは少し大きめで、肩のラインがほんのわずかに落ちているのが妙にラフで、いかにも「部活帰りです」って感じの空気をまとっていた。
「あ、ほんとに来てくれた」
俺に気づいたヒロが、スマホから顔を上げて少し意外そうに目を丸くする。
「何驚いてんだよ」
「来ないと思ってたから」
「いや、来るだろ普通」
思わず即答した。
どういう了見で“来ない”判定をされたのかは知らないが、少なくとも俺には来ない理由がない。
呼び出されたら行く。
それだけの話だ。
変に駆け引きとかするほど、俺は人間関係をこじらせたくないタイプである。
「で、何の用だよ」
俺が本題を促すと、ヒロは一瞬だけ視線を泳がせてから、スマホをポケットにしまった。
そして、さっきまでの軽い調子とは少し違うほんのわずかに真面目な声色で言う。
「相談があって呼んだんだ」
「相談??」
俺は思わず聞き返した。
ヒロが“相談”という単語を使うのは、なんというか少し意外だったからだ。
コイツはどっちかというと、相談される側の人間だと思っていた。
「ほら、俊って部活やってるでしょ? 『心霊研究部』ってヤツ」
「……ああ」
その言い方、ちょっと棘ないか?
とは思ったが、否定するほどでもないので頷いておく。
心霊研究部。
名前だけ聞くと完全に色物だが、実際やっていることもだいたい色物なので、まあ間違ってはいない。
「見てほしいものがあるの」
「見てほしいもの?」
オウム返しに聞き返すと、ヒロはほんの少しだけ言いづらそうに間を置いてから、こちらをじっと見た。
「……わかるでしょ? 言いたいこと」
いや、わからん。
情報が雑すぎる。
“見る”の対象が何なのかくらいは教えてくれないと、こっちは推理ゲームを始めるしかなくなる。
とりあえず脳内でいくつか候補を並べてみる。
ケガ。変な写真。謎のメッセージ。
あるいは――
「幽霊でも見たのか?」
半分冗談、半分本気でそう言ってみると、ヒロの表情が一瞬で変わった。
「そう! そうなんだよ!」
食いつきが予想以上に良すぎた。
「……へぇ」
俺はとりあえず相槌を打つ。
「へぇって、なんでそんな平然としてるの!? いたんだよ! 幽霊が!」
ヒロが身を乗り出してくる。
距離が近い。テンションも高い。
普通の人間ならここで「マジで!?どこで!?」とか乗っかる場面なのかもしれないが、残念ながら俺はその“普通”に属していない。
幽霊なんて、別に珍しくもなんともない。
……まあ、一般的な感覚で言えば、“珍しい”どころか人生で一度あるかどうかの非日常なんだろうけど。
でも、俺の場合は少し事情が違う。
昔からだ。
――『幽霊』。
それは俺にとって、道端をふらついている野良猫とか、電線にとまっているカラスとか、そういう“そこにいて当たり前のもの”と大差ない存在だった。
視界に入れば「ああ、いるな」と思うし、いなければいないで別に気にしない。
特別でもなんでもない。
少なくとも、あの日までは――
いや。
正確に言えば、あの日“から”か。
「“幽霊に関することなら、なんでも相談してください”って、書いてあったでしょ?」
ヒロが少しだけむくれたように言う。
その言い方に、俺は思わず眉をひそめた。
「……いつのポスターだよ、それ」
確かにそんな文言を書いた記憶はある。
あるが、それはだいぶ前だ。
少なくとも、今の俺たちの活動実態とはだいぶ乖離している。
「相談に乗ってくれないの??」
ヒロが一歩踏み込んでくる。
距離が近い。
表情もさっきまでの軽さとは違って、わりと真剣だ。
だからこそ、俺は少しだけ視線を逸らしながら答えた。
「普通に言ってくれればいいじゃねーか。わざわざこんなところに呼び出さなくても」
体育館裏なんて、どう考えても“秘密の相談”をする場所だ。
そんな雰囲気を作られると、こっちも身構える。
「……ああ、ごめん」
ヒロは一瞬だけしょぼんとした顔になって、小さく肩を落とした。
その反応に、ほんの少しだけ罪悪感がよぎる。
……が。
「ま、他をあたってくれ」
俺はわりとあっさり切り捨てた。
「は!?」
間髪入れずに返ってきた声が、さっきまでより一段階大きい。
「なんだよ、その顔は」
「相談に乗ってくれないの!?」
目を見開いて、信じられないものを見るみたいな顔をしている。
いや、そんなリアクションされても困る。
「……お、おう」
勢いに押されて、妙に歯切れの悪い返事になった。
別に、唐突な相談にビビったわけじゃない。
そういうのは慣れている。
問題はそこじゃない。
単純に、乗り気がしないだけだ。
俺たち心霊研究部は、名前だけ聞くとやたらとアクティブに怪異を追い回していそうだが、実態はかなりゆるい。
というか、ほぼ帰宅部の延長線上にある。
部員は三人。
そのうち一人は幽霊より昼寝に興味があるし、もう一人は機材いじりが好きなだけで現地調査には消極的。
俺も別に“積極的に幽霊を追いたい派”ではない。
つまり、総合すると――やる気がない。
去年まではまだマシだった。
あの先輩がいたからだ。
やたらと熱量の高い人で、「心霊現象はロマンだ!」とかなんとか言いながら、半ば強引に俺たちを連れ回して、怪談の現場だの廃墟だのに突撃していた。
あの人がいたからこそ、あのポスターも成立していたのだ。
だが今は違う。
「相談に乗るって書いてあったのに」
ヒロが納得いかないという顔で言う。
「昔の話だろ」
俺は即答した。
「今は違うの?」
「廃部寸前だっつーの」
事実をそのまま伝える。
するとヒロはきょとんとした顔で首をかしげた。
「なんで??」
「三年しかいないから」
俺がそう言うと、ヒロは「ああ」と短く納得したように頷いた。
そう。
シンプルな話だ。
俺たち三年が卒業したら、その時点で部員はゼロになる。
新入部員も入っていない以上、そのまま自然消滅だ。
つまり、今のこの部活は言ってしまえば“余生”みたいなもので、なにかを新しく始める気力も義理も、正直あまり残っていない。
だから――
「そういう話だ」
俺は肩をすくめて、あくまで軽く締めた。
「でも、今はまだやってるんでしょ?」
ヒロは、こちらの逃げ道を塞ぐみたいにそう言った。
「……まあな」
否定はできない。
廃部寸前とはいえ、まだ正式に潰れたわけじゃないし、部室の鍵も一応あるし、活動実績の欄に書けるかどうかは別として、心霊研究部という看板も辛うじて校内に存在している。
「じゃあ、話だけでも聞いてくんない?」
「えぇ……」
話だけ、か。
その“話だけ”という言葉ほど信用ならないものはない。
人間関係における“話だけ”は、だいたい話だけで終わらない。
聞いたら最後、「じゃあ一緒に見に来てよ」とか「原因調べてよ」とか「今日の夜空いてる?」とか、そういう面倒な依頼へ自然に進化する生き物である。
しかも相手は幽霊だ。
ああいうものは、下手に近づくもんじゃない。
ただ怖いとか気味が悪いとか、そういう単純な話ではなく、場合によっては本当に取り憑かれることがある。
現に昔、友達が一度だけ妙なのを拾ってきて、そこから三ヶ月近く原因不明の体調不良で寝込んだことがあった。
顔色は土みたいになるし、夜中に誰もいない廊下へ向かって話し出すし、家族まで妙な夢を見るようになるしで、今思い返しても普通に笑えない案件だった。
最終的には我が家に伝わる直伝の除霊術でなんとか追い払えたが、あのまま放置していたら多分かなりヤバいことになっていたと思う。
ちなみに、“我が家に伝わる直伝の除霊術”については掘り下げなくていい。
別に大したものじゃない。
塩とか札とか、妙に長い祝詞とか、あと深夜二時に玄関先で半泣きになりながら柏手を打つとか、その程度の話である。
……いや、言っておいてなんだが、普通に大したことかもしれない。
「俊にとっても得な話だと思うけど?」
ヒロが、そこで不意に声の調子を変えた。
「はぁ??」
思わず変な声が出る。
得?
心霊相談で俺に得?
怪しい壺の販売員でももう少し上手く話を繋げるぞ。
するとヒロは、こちらの反応を楽しむみたいに少しだけ口角を上げた。
「飛鳥先生のこと好きなんでしょ? 協力するけど」
…………。
…………。
……は?
今、なんて?
俺の脳内で、さっきまで幽霊だの除霊だの危険性だのを処理していた思考回路が、急に全部停止した。
「飛鳥先生のこと、好きなんでしょ?」
ヒロはもう一度、今度ははっきりとそう言った。
「……は?」
「だーかーら!」
「悪い、よく聞こえなかったんだが……」
「絶対聞こえてんじゃん!」
いや、聞こえてはいた。
聞こえてはいたが、脳が意味の受理を拒否している。
急に何を言い出すんだコイツは。
誰が誰を好きだって?
でまかせを言うのはやめてほしい。
生徒が先生を好きになるわけないだろう。
六つも離れているんだぞ?
社会的にも、倫理的にも、校則的にも、いろいろと面倒なラインがそこには存在する。
不純異性交遊という言葉を知っているか。
いや、俺は別に優等生というわけではないが、それでもこの三年間、そこそこ健全な高校生活を送ってきたつもりだ。
授業中に寝たことはあるし、小テストの範囲を間違えて爆死したこともあるし、心霊研究部なんていう校内でもだいぶ怪しい部に所属している時点で健全判定には若干の疑義が残るが、それでも少なくとも教師に対してどうこうなんて――
「先生の住所知ってるんだよね。ちなみに行きつけのラーメン屋も」
「……どういうこと?」
声が、自分でも引くくらい低くなった。
ヒロは勝ち誇ったようにスマホを軽く振る。
「ライン交換したんだ。今度、空手部のみんなでたこパすることになってさ?」
なん……だと……。
たこパ?
たこパって、あのたこ焼きパーティーの略称であり、親密な人間同士が一つの鉄板を囲み、粉とソースと青のりの香りに包まれながら、時に具材の選択をめぐって争い、時に焼き加減を褒め合うという、青春イベントの中でもかなり危険度の高い儀式のことか?
しかも。
飛鳥先生の家で?
……待て。
それはもう、ただの部活動交流ではない。
住居侵入――いや、許可があるなら侵入ではないが、俺の精神的にはほぼ侵略行為である。
「そうそう」
ヒロは、まるで大したことじゃないみたいに頷いた。
「なんでたこパなんか……」
俺は思わず呟く。
飛鳥先生とたこパ。
この二つの単語が同じ文章内に存在している時点で、俺の脳内では緊急会議が開かれていた。
数学教師。
大人の女性。
ブルーアッシュのショート。
目元のホクロ。
そして、たこ焼き。
情報の組み合わせが強すぎる。
「知りたいの?」
ヒロが、にやりと笑う。
「いや、別に……」
俺は即座に目を逸らした。
ここで食いついたら負けだ。
食いついた瞬間、「あ、やっぱり先生のこと気になってるんだ」と言われる未来が見える。
「なーんだ。誘おうと思ったのに」
「ふぁ!?」
負けた。
しかも、食いつく前に釣り針ごと口に突っ込まれた。
「いやさ、買い出しに行くのに男手がいるなぁと思って。メンバーが六人くらいいるから、材料も多くてさ?」
「ほう……」
なるほど。
買い出し。
男手。
六人分の材料。
たこ焼き粉、卵、キャベツ、紅しょうが、青のり、ソース、マヨネーズ、紙皿、割り箸、飲み物、そして主役であるタコ。
確かにそれなりの荷物になる。
これはもう仕方ない。
人として、同じ学校に通う者として、そして健全な男子高校生として、困っている女子を見過ごすわけにはいかない。
断じて、飛鳥先生の家に行けるかもしれないからではない。
「再来週の日曜日なんだけど、暇?」
「……えーっと、…………うーん、………………多分」
俺は慎重に答えた。
もちろん予定などない。
再来週の日曜日どころか、来月の日曜日までだいたい白紙だ。
だがここで即答すると、あまりにも必死すぎる。
だから俺は、頭の中で存在しない予定表をめくるふりをしながら、ほどよく悩んだ末に偶然空いていた感を演出した。
高度な心理戦である。
「でもあれなんでしょ? 不純異性交友とかなんとか。ならダメかぁ。残念だなぁ」
……は?
いや、ちょっと待て。
何を言っているんだ、この女は。
不純異性交友というのは、生徒と教師が本来越えてはいけない垣根を越え、教育現場にあるまじき関係性へ発展してしまうことを指すのであって、たこ焼きパーティーの買い出しを手伝い、ついでに先生の家で焼き上がった粉物をありがたくいただくこと自体は、たぶん校則上なんの問題もない。
少なくとも、俺の中の風紀委員会はそう判断している。
というか再来週だろ?
全然空いてるし。
むしろ空きすぎている。
予定表が真っ白すぎて、雪原かと思うレベルだ。
「……キモ」
「おい、今なんつった?」
「ああ、いやいや! 暇なら良かったと思って!」
絶対言った。
今、確実にキモって言った。
「別に変な感情を持ってるわけじゃないぞ? 暇だし、男手が必要なんだろ?」
「……まあそうだけど」
「そういうことならしょうがないなぁ」
俺は腕を組み、できるだけ余裕のある顔を作った。
あくまで善意。
あくまで労働力。
あくまで社会貢献。
そこに私情など一ミリも存在しない。
たとえ飛鳥先生の家の玄関が見られるとしても、部屋の雰囲気がわかるとしても、普段学校では見せない私服姿に遭遇する可能性があったとしても、それは副産物である。
断じて目的ではない。
「ちょっと! 本題はそこじゃないからね!」
「ん?」
「ん? じゃなくて、手伝うのか手伝わないのかって話!」
「……あー」
そうだった。
危ない。
たこパというあまりにも巨大な餌を前にして、幽霊の話が完全に脳内から消し飛んでいた。
「たこパは先生の奢りなんだから、お礼も兼ねて手伝ってよ!」
「えーっと、それってお前らに礼を言うべきなのか?」
「どういうこと??」
ヒロが首をかしげる。
「奢ってくれるのは先生なんだろ? だったら礼を言う相手は先生であって、お前らに礼をする筋合いはないと思うんだが……」
俺が真面目にそう返すと、ヒロの表情からすっと温度が消えた。
「あっそ。じゃあもういい。他を当たる」
……なっ。
待て待て待て、話が急カーブすぎるだろ。
別に俺は「話を聞かない」なんて一言も言ってない。
ただ単に、その“礼をする相手”のロジックに若干の齟齬を感じて、それを指摘しただけであって――
「たこパという企画を作ったのは私らだし」
ヒロが腕を組みながら、当然でしょ?みたいな顔で言う。
なるほど、主催者理論か。
「ってか、先生とどういう関係?? なんで空手部と……」
俺は素直な疑問をぶつけた。
飛鳥先生と空手部。
この二つの接点が、どうしてもピンとこない。
体育教師ならまだしも、あの人は数学だ。
数式と回し蹴りの共通項を俺は知らない。
「説明してあげてもいいけど、返事は?」
ヒロが、わざとらしく首を傾ける。
完全に主導権を握られている。
「返事……?」
「手伝う??」
にこり、と笑う。
その笑顔の奥に、「ここでイエスって言うまで逃がさないからね?」という圧が見えた気がした。
……コイツ。
さっきまでの“相談に乗ってほしい側”の態度はどこへ行った。
急に交渉人みたいな顔しやがって。
いや、まあ、別に手伝ってやらんこともないが。
ここまで食い下がってくるあたり、ヒロにしては珍しく必死だ。
単なる“幽霊見ちゃったかも”レベルの話なら、あいつはもっと軽く済ませるはずだ。
ということは、なにかしら普通じゃないものを見た可能性がある。
だが、この辺りにそんな“とんでもない類い”のものが出る話は聞いたことがない。
せいぜい夜中に物音がするとか、古い校舎で影が揺れたとか、その程度だ。
明確に危険域に入るような“化け物”は――少なくとも、俺の知る限りではいない。
「手伝ってくれたら全部話す」
ヒロが、畳みかけるように言った。
完全に条件提示である。
「……うーーーーん」
俺は唸る。
これはもう、交渉というより取引だ。
情報と労働力の交換。
条件としてはそこまで悪くないが、問題は“その情報がどれだけの価値を持つか”だ。
「ちなみにこれから先生に会いに行く」
「!? なぜ??」
思考が一瞬で吹き飛んだ。
「ついてくればわかるよ」
ヒロはあっさりと言う。
あまりにもあっさりと言う。
まるで「コンビニ寄ってく?」くらいの軽さで、「先生に会いに行く」とかいう爆弾発言を投げてくる。
こいつは爆発物の扱いが雑すぎる。
そう言いながら、ヒロは校舎裏に停めてあった自転車のところへ歩いていき、ハンドルをぽんぽんと叩いた。
「ほら、漕いで」
「なんで俺が運転手なんだよ」
「だって徒歩だとちょっと遠いし」
さらっと言うが、“ちょっと遠い”の基準が信用できない。
ヒロのちょっとは、だいたい普通の人間の二倍くらいある。
俺はしばらくその場に立ったまま考えた。
ヒロの言っていることは、正直よくわからない。
なぜ先生に会いに行くのか。
何を見たのか。
なぜそれを俺に見せようとしているのか。
「ついてくればわかる」
その一言で片付けられるほど、世の中は単純じゃない。
むしろその手の台詞の先には、だいたいろくでもない展開が待っている。
本来ならここで断るのが正解だ。
どうせ面倒なことに巻き込まれる。
それは経験則として、かなりの確率で当たる。
……だけど。
――先生に会いに行く。
その一文だけが、妙に頭に残る。
いや、違う。
別にやましいことを考えているわけじゃない。
本当に。
断じて。
ただほら、ヒロがどうしてもって言うから。
それに部活の看板を掲げている以上、相談案件を完全に無視するのもどうかと思うし。
ついでに言えば、情報収集という観点からも――
「早くして、日が暮れる」
ヒロが急かす。
俺は一度だけ大きくため息をついてから、自転車のハンドルに手をかけた。
……これはあくまで、合理的判断の結果である。




