これから(2)
あの記者が待ち伏せしていたらどうしようかと案じたがそんなことはなく、幸い貴族の社交期からは外れているため、知った相手に見つかることもなく住宅街を抜け出せた。
こっそりと馬車に乗り込んで、マシューの隣に座る。小さな箱型の馬車は二人掛けの椅子が対面する形で据え付けられている、窓にカーテンのかかった密閉感のある空間だ。馬を走らせる御者が前の台にいることを除けば、車内は二人きりだった。
シャーロットは明るい声を出して聞く。
「どこか行ってみたい場所はある? 劇場とか百貨店とか、少し遠いけど博物館もあるわ」
マシューが好みそうな賑やかな施設を列挙する。
彼は迷うように少し黙り込んだ後、ためらいがちに申し出た。
「少し、行っておきたい場所があるんです。退屈かもしれませんけど、いいですか?」
「いいわよ。私の知ってる場所かしら」
「縁はないんじゃないかと」
シャーロットは目を丸くしながらもうなずき、車体に開いた小窓から彼の言った住所を御者台に伝える。
しばらく走った後、彼の指定した場所にたどり着いた。
馬車は通りの入り口で静かに停止する。カーテンを上げて外をうかがう。
そこはシャーロットが挙げたどことも違っていた。人通りこそまばらな通りだが、両側に軒を連ねた店舗の中では人影がよく動き、せわしなく馬車が行き交う、活気のある問屋街だった。
「ここ……?」
「俺の伯父の店があるところです」
「そうなの!?」
マシューの働く店と聞いて思い浮かべていたのは、彼の生家のようなのどかな雑貨屋のようなところだった。まさかこの界隈にあるような、商人のあわただしく出入りする商会とは。それは思い切りも必要な環境変化だ。
シャーロットは感心しながらも当惑していた。
なぜ彼は、自分を連れてここに来たのだろうと。
マシューがいつ頃こちらに移るのかは分からないが、どの道あとで来ることになるのに。下見のつもりにしても、シャーロットを連れて見物ついでに来るには中途半端だ。
まるで生きる場所を分かつ近い未来をまざまざと見せつけられたようで、覚悟を決めたはずの胸が少しうずいた。
「ここでなにかすることがあるの?」
後ろ髪を引くような思いを振り払おうと、素知らぬ顔で思いついたことを口に出す。
「さっきの話の続きです。お嬢さんには話しておかなきゃいけないと思って」
あらたまって言われた言葉に、シャーロットの胸が跳ねる。どの話だろう。
マシューは常に語勢が淡々としていて、口ぶりから感情が読めない。それがここのところますますシャーロットを落ち着かなくさせる。
こちらを向いたマシューの静かな瞳が、まっすぐにシャーロットを縫いとめる。
「ここで働きながら商売を学ぶ、そうしたら独立するか、町に戻って店を継いで、商売を大きくする。それが今の目標です」
「うん」
「ここからが本題です。たぶん、軌道に乗せるまでには目算で……短くても四年」
仕事に慣れるために一年、さらに勉強をしながら一、二年。経営を始めてから盛り立てるまでの月日は未知数だ。
その間マシューは戻ってこない。シャーロットだって四年後どうしているかは分からない。
だから、と、マシューは言葉を続けた。
「もしもその時お嬢さんに相手がいなかったら、その時は気持ちに応えます」
唐突だった。
気持ちに答える。その言葉の意味を何度か反芻して、己の耳を疑う。
シャーロットはマシューの顔を見た。
いつもと顔色の変わらない無表情。だが、引き結んだ口元の真剣さは嘘ではなかった。
理解した瞬間、顔がカッと熱くなる。
そしてそれに呼応するかのように、マシューはそっと顔をそむけた。
「……やっぱり聞かなかったことに」
「しないわよ! だって今の、今の、実質プロポーズじゃない!」
「いや、今のがってのも、締まりがないですけど……」
シャーロットは車体が揺らぐのではないかというほどに声を上げ、人のざわめく問屋街を窓からうかがってマシューはつぶやく。その耳は赤い。
ムードがあろうがなかろうがシャーロットにはどうでもよかった。目の前が白く弾けたような、先の発言の衝撃にくらべたら。この、今までにない胸の高鳴りを、どこへ持っていけばいいのだろう。
「いいの! でも、それならさっきお父様にもそう言ったらよかったのに!」
「そうはいきませんよ。お父上が納得するはずないですし、まずはせめて一人前にならないと」
「でも」
そうするうちにうやむやになって流されないとは限らない。それにシャーロットがずっと独り身でいたら、それこそ父が黙っていないだろう。
最短四年という期間は、十分疑うに値する。
不安を訴えるシャーロットに、マシューは首を振る。
「こればかりはどうしようもありませんよ。今の俺には資産と呼べるようなものなんてないから、今すぐなんて言えません」
豪邸も使用人も持ってないんですから、と、彼は念押しする。
そんなものはいらない。むしろ自分がマシューを支える。
そう主張したかったが黙らざるを得なかった。
このシャーロット、家事に関してはからきしであることをすでに自分の手で証明してしまっている。支えるとはとても言えない。
マシューはこれから一商会の見習いとなる。もしかしたら住み込みかもしれない。ならばシャーロットが迷惑をかけてならないというのは、さすがに理解できた。
包帯を巻いた左指を、ついぎゅっと握りこむ。
マシューは「お嬢さん」と呼び、その左手を緩めるように取った。急に手を触れられたことに、シャーロットは心臓を跳ねさせる。
彼はその手で、シャーロットの指を解くのを促すようにごくわずかな力で握る。
「お嬢さんが取るに足りないことで小さな傷を作るのすら、俺は嫌なんです」
シャーロットの手元を見つめながら言うマシューとは目が合わない。傾けられた顔からは表情もうまく読み取れなかった。
ずるい。
一方的に言うだけ言って、顔も見ないなんて。おまけに自分がどんな顔をして言ったのかすら知らせない。シャーロットの頬がどれほど熱いかも知らないで。
シャーロットは肩を震わせ、御者に筒抜けになるのも構わず大声を上げた。
「待つ! ほかの縁談なんか全部無視し続けてでも待つわ、私!」
「あの、無理にとは言いませんから」
「いいえ、お父様が何も言わなくなるまで粘ってやるんだから!」
シャーロットはきっぱりと宣言した。
もう決めたのだ。自分の幸せは他の誰かには握らせないと。人が道を作るのを待ってそれに沿うばかりでは、望むものは得られないと知ったから。
マシューはそれ以上止めようとはしなかった。代わりに、外に漏れださないような小さな声で言う。
「また改めて、ちゃんと言いますから。今度は苦労とか、させないようになってから」
「だったら、私だって支えになれるようになるわ。その日が一日でも早く来るように」
自分で決めたんだもの、苦労なんて問題にならないわ!
そう言ってシャーロットは笑った。




