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Fake New Yorker  作者: 成
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4/4

Ⅳ リッツ・カールトン

萌を部屋まで送った後、成と謙はリッツの最上階へ上がった。

最上階のテラスから、マンハッタンが見下ろせた

上から見ると、ニューヨークは静かだった。

通りを埋めるクラクションも、地下鉄の振動も、路上の怒鳴り声も聞こえない。

無数の窓が規則正しく並び、街全体が巨大な電子回路のように光っていた。

近くでは粗暴で、遠くでは完璧だった。

成は赤ワインを頼み、謙はコーヒーを頼んだ。

「さっきのバーで会った連中、全員ニューヨークに飽きてた」

成はグラスを持ったまま、手すり越しに眼下のマンハッタンを眺めた。

「一人はロサンゼルスへ移る。もう一人はスペインの海辺だって。金持ちほど、この街から逃げた

がる」

「成は逃げないのか」

「俺は好きだよ」

「何が」

「道から出る蒸気。クラクション。我先にっていう目。地下鉄へ降りていく人間の、地面より重たそ

うな顔。存在しない言語を叫んでる奴ら」

成はワインを飲んだ。

「全部、しびれる。今を生きてる感じがする」

「上から見れば静かだけどな」

「上から見れば、何でも綺麗だよ」

成は笑った。

「俺、ニューヨークで一番好きな時間、空港からマンハッタンへ向かってる時なんだ」

「着いた後じゃないのか」

「まだ着いてない時だよ。朝五時に空港へ着いて、地下鉄で一時間くらいかけて街へ向かう。マイ

ルスを聴きながら、これから見えるマンハッタンを想像してる。あの時が一番でかいんだよ、街が

」

「わざわざマイルスをかけるのか」

「もちろん」

「お前、自分の人生に音楽をつけるのが好きだな」

「音楽がなかったら、ただの移動になるだろ」

「着いたら?」

成はニューヨークを見下ろした。

「始まってしまう」

謙は途中で気づいた。成はニューヨーカーになりたいのではなく、その街へ近づいていく人間で

いたいのだ。

「最初からニューヨークが好きだったのか」

「いや。最初に来た時は何も感じなかった」

「お前が?」

「暑いと思った。タイムズスクエアも、テレビと同じだなって」

「いつから好きになったんだ」

成は少し考えた。

「当時の彼女と夜景を見た時かな。身体が震えたんだ。高いところから街を見て、ここへ来るって

決めた」

成はワインを回した。

「その後、一人で二ドルだけ持ってフェリーに乗った。金がなくて、橋を歩いて、街を見てた。あの

時が一番幸せだったかもしれない」

「何も持ってなかった時が?」

「何でも持てると思ってた時が」

成は笑ったが、目は夜景に残っていた。

謙はコーヒーを飲んだ。

「それで、萌は何なんだ」

成の表情が少し変わった。

「俺が負けた記憶だよ」

「どういう意味だ」

「日本にいると、金持ちって見えにくいだろ」

「そうか?」

「制服を着て、同じ電車に乗って、同じコンビニで飯を買う。田舎にいたら、全員だいたい同じ生活

に見える。でもニューヨークでは、金が本人より先に部屋へ入ってくる」

「バッグとか、ホテルとか?」

「それだけじゃない。誘われる場所。知っている人間。怖がらずに入れる店。金がある奴は、街の

使い方を最初から知ってた」

成はグラスを置いた。

「十八歳の俺は、英語を話せない、金もない、ただの小柄なアジア人だった。日本では俺の方が

目立ってた。スポーツもできたし、人も集まった。でもこっちへ来たら、全部なくなった」

「萌は?」

「スターになった」

風が、成のグラスの中のワインをかすかに揺らした 。 眼下では、マンハッタンの灯りが細い線と

なって、街の果てまで続いていた。

「萌は金持ちだった。ニューヨークに来た日本人の中でも、たぶん一番だった。外国人の輪にもす

ぐ入って、知らない店にも平気で入って、放課後にバッグを買って帰ってきた。俺は一緒に出かけ

る金もなかった」

「それで嫌いになったのか」

「違う。嫌いなら楽だったよ」

成はワインを飲んだ。

「留学前は、朝五時からコンビニで働いて、昼は税務署、夜はバーで金を貯めた。それでも、あい

つらの一晩の飲み代には届かなかった」

「よく留学できたな」

「半分は借金だ。今は円安でもっと難しい。あの頃の俺みたいな日本人は、もうここへ来られない

んだろうな」

謙は、それが金銭の話なのか、意志の話なのかを考えた。

おそらく二つは、切り離せなかった。

「萌に認められたかったのか」

「少し違うかな 」

成はすぐに答えた。

「認められたいと思った時点で、もう負けてる。俺は、あいつより上にいるところを見せたかった」

「それを普通は、認められたいって言うんじゃないのか」

成は黙った。

「お前、時々ものすごく嫌なことを言うな」

「友達だからな」

「二年前、ニューヨークへ出張で来た時、セントラルパークから萌に電話したんだ」

「何を話したんだ」

「仕事の規模とか、誰と会ってるとか、知っていることを全部」

「どれくらい?」

「一時間」

「萌は?」

「五分くらい話した」

謙は笑った。

「電話を切った後、俺も笑ったんだよ」

「一人で笑ってたのか」

「ああ。街を歩きながら、笑いが止まらなくなった。俺、こいつのことめちゃくちゃ意識してるな、と

思って」

成も笑った。

その笑いには、自分の幼さを発見した人間の喜びが少し混じっていた。

「社会人になってから、俺はアメリカへ戻りたかった。でもすぐには戻れなかった。米国へ来られ

ない何年かを、スペイン語の街で過ごした。海の見えるリゾートで、日本人旅行者の問題を毎日

片づけてた」

成はそれ以上、街の名前を言わなかった。

「それでも、自分がアメリカに住んでいる状態で萌を迎えるところを

通勤中に音楽を聴きながら何度も想像した。仕事で結果を出して、いつかあいつに言う。」

「それで戻った」

「ああ」

「萌も来た」

「ああ」

「勝ったんだろ」

成は夜景を見た。

「たぶんな」

「じゃあ、よかったじゃないか」

「勝ったら、走る理由がなくなった」

成は、グラスの中のワインを見た。

「萌に勝てないことが問題じゃなかった。たぶん俺は、萌に負けた自分を必要としてたんだよ」

テラスヒーターの炎が、風に押されて一度だけ細くなった。

「ニューヨークに来たら、全部終わった」

「何が」

「追いかけることが」

「また別のものを追えばいいだろ」

「俺もそう思ってた。でも、次の山が見えない」

成は椅子に深く座った。

「今まで俺は、夢があれば人間は前へ進めると思ってた。海外へ行けば何者かになれる。仕事を

すれば取り返せる。金も、地位も、時間をかければ手に入る」

「違ったのか」

「まだ分からない」

成は笑った。

「こういうこと言うと、自分に酔ってるみたいで恥ずかしいな。このバー、芋焼酎はないのか」

「ないだろ」

「ニューヨークは不便だな」

成はグラスから目を上げた。眼下のマンハッタンは、彼が何年も追い続けてきた姿のまま、こちら

の事情など知らずに輝いていた。

成は傷ついている男ではなかった。

傷を燃料に変え、走り続けてきた男だった。

そして今、その傷が消え始めたことで、自分の輪郭まで見失いかけていた。

何かを見つければ、疲れても、傷ついても、それが自分の手の届くところへ来るまで追う。あるい

は、自分が何も感じなくなるまで追う。

ハンターという言葉が頭に浮かんだ。獲物よりも、追っている状態そのものを必要としている種

類の。

そりゃあ、これだけ追い続ければ、大抵のものにはいつか追いつくのだろう、と謙は思った。

その事実には少し胸が熱くなった。

ただ、頭のどこかは冷えたままだった。

世間はそういう人間を「諦めない人」と呼ぶ。ネバーギブアップとかいう、いかにも感じのいい言葉

もある。

けれど謙には少し違って見えた。

「明日の同窓会、お前も来いよ」

成が言った。

「俺はコロンビアの卒業生じゃない」

「誰も気にしない」

「大学にも行ってない」

「それも誰も気にしない。お前は俺の友人だ。それで十分だ」

「金持ちの大学生の集まりは苦手だ」

「お前、金持ちが嫌いなふりをして、金持ちの人生を観察するのは好きだろ」

謙は否定しなかった。

「学生時代のルームメイトも来る。イタリア人のブルーノ。面白い奴だ、

会計を見るたび、頼んでないパンの代金について店員と揉める」

「行くよ」

「即決だな」

「ブルーノを見たいだけだ」

成は笑った。

外では、ニューヨークの灯りが、何ひとつ失われていないように輝いていた。

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