Ⅰ Brooklyn Bridge
クリスマス・イブの一週間前の木曜日、謙はブルックリン橋の上で渋滞にはまっていた。
車は日産だった。
本格的な冬は、もう橋の上まで来ていた。
マンハッタンへ向かう車列は赤い尾灯を長く連ね、数十センチ進んでは止まった。
黒い配車車両のあいだで、黄色いタクシーだけが昔からの色を守っていた。
ほとんど前へ進んでいない。それでもブレーキランプは絶えず点いたり消えたりし、クラクションが
どこかで鳴った。東京では、人々は黙って満員電車に耐える。ニューヨークでは、誰も耐えようとしな
い。クラクションを鳴らし、車線を変え、わずかな隙間へ鼻先を差し込む。
ラジオからカントリー・ミュージックが流れていた。
場所に合った音楽を聴くほど退屈なことはない、と謙は思っていた。
ニューヨークでフランク・シナトラをかける人間と、テネシー州 でカントリーをかける人間のどちらが退屈かについては、まだ結論が出ていなかった。
クリスマスだからというだけで浮かれる人間は嫌いだったが、クリスマスの音楽は好きだった。
聴いているあいだだけ、自分にもまだ善意が残っている気がした。
橋を渡り終えると、謙はブルックリンの古いアパートの前に車を止めた。
成を待ちながら、日本のニュースを携帯で流した。
円安。少子化。早期退職。人工知能によって消える仕事。結婚しない若者。
海外へ出ていく富裕層。戻ってこない留学生。
日本のニュースは、若者を心配しているような顔をして、毎朝少しずつ若者を老けさせた。
画面を閉じると、歩道では観光客たちがイルミネーションを背景に写真を撮り合っていた。
誰もが自分にできる最大限のニューヨーカーらしさを身につけていた。コートの襟を立て、紙のカップを
持ち、寒くないふりをしていた。
十分ほどして、成がアパートから出てきた。
紺色のスーツの上にベージュ色のコートを羽織り、
片腕に小さな白い犬を抱えていた。歩き方には、人を待たせたことへの申し訳なさがまったくなかった。
成は、人を待たせた時間まで、自分の登場の一部にしてしまうような男だった。
「待たせたな」
「待たせたと思ってないだろ」
「思ってるよ。三割くらい」
成は助手席のドアを開ける前に、犬を後部座席へ下ろした。
ベラという名の犬だった。成と六年暮らしている。全身が真っ白で、
毛並みだけでなく、身のこなしにも育ちの良さのようなものがあった。
人間でいえば、冬の昼下がりにホテルのラウンジで紅茶を飲んでいる白人の老婦人に近かった。
ベラは座席の決まった場所へ身体を収めた。
尻尾だけが先に動き、少し遅れて顔が謙の方を向いた。
謙は、ベラが吠えるところを一度も見たことがなかった。
「こいつ、本当に吠えるのか」
「ベラは吠え方を知らないんだよ」
「犬なのに?」
「教わってないからな」
「誰に教わるんだよ」
成は答えず、ベラのために用意した水をドリンクホルダーへ入れた。
「それより聞いてくれ。今日、日本から農林水産省の人たちが来てたんだ。
ニューヨークで一番だっていうステーキに連れていったのに、最後は全員、やっぱり和牛だなって話になった」
「お前、前はアルゼンチンの肉が世界一だって言ってたじゃないか」
「あれはアルゼンチンの赤ワインがあってこそだよ。肉だけなら和牛だ」
「便利な世界観だな」
「近江牛をこっちで広げる話になったんだ。ついに地元に貢献できるかもしれないな」
謙が車を発進させると、成は携帯を取り出した。
二人は二年前、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたNBAの試合で知り合った。日本人選手
を見に来た客が多い夜だった。二人とも一人で来ており、偶然隣の席になった。
試合が始まって十分もしないうちに、成が話しかけてきた。
その夜以来、二人は話し続けていた。電話でも、食事でも、車の中でも、会話が完全に途切れる
ことはほとんどなかった。
しかし、その日の成は違った。
携帯を打ち、鼻のあたりへ手をやり、窓の外を見た。
しばらくすると、また画面へ目を戻した。
「なんでニューヨークの夜にカントリーなんだよ」
成が突然言った。
「来年、ルート66を走るための予習だ」
「その話、三年くらいしてるだろ」
成は音楽をジェームズ・ブラウンに変えた。
車内にリズムが生まれ、ベラが一度だけ耳を持ち上げた。
それでも、成はまた携帯へ戻った。
「あとどれくらいでJFK?」
「二十五分くらい」
「そうか」
成は深く息を吸った。
その緊張には自信が混じっていた。試験の答えをほとんど分かっている生徒が、開始の合図だ
けを待っている時の顔だった。
「日本で早期退職が増えてるらしいな」
成は窓を見たまま言った。
「親父が働いている会社にも、五十代で初めて履歴書を書いた人がいるらしい。大学を出て、これが正しい道ですって言われて、ずっと歩いてきたのに、ゴールの少し前で線路から降りてくださいって言わ
れる」
謙は少し間を置いた。
「アメリカなら、線路に乗った時点で降ろされる可能性を説明される」
「それが良いとも思わないけどな」
「成が社長ならどうする」
「全員、別の業界に三年くらい出す。金融、製造、エンターテインメント。それから戻ってきてもら
う。会社の中だけで育てるより強くなる」
「戻ってこなかったら?」
「それは会社に魅力がなかったってことだ」
「ずいぶん経営者らしくなったな」
「人工知能は世界中の会社で勝手に研修してるようなものだからな。
人間だけ一社で一生過ごして勝てるわけがない」
「五百年後の教科書には、人工知能のことが載ってるだろうな」
「その教科書、人間が読むのか?」
「人工知能は教科書なんか読まないだろ」
成は笑った。
謙はその笑いを聞いて少し安心した。
JFKへ近づくにつれ、空を横切る飛行機が増えた。青黒い夜空を、白や赤の光が静かに移動し
ていた。地上では人間が渋滞し、空では巨大な機械が数分ごとに離着陸している。
謙は、ときどき、なぜこれほど多くの人間が空を飛ぶ必要があるのだろうと思った。
「車で待っててくれ」
ターミナルへ着くと、成は言った。
「萌を見つけたら連絡する」
「俺も行こうか」
「いや。荷物は俺が持つ」
成は車を降りた。数歩進んでから、急に歩く速度を上げた。
「何を急いでるんだ」
謙が窓を開けて言った。
「ニューヨークでゆっくり歩くやつは、だいたい観光客だから」
「お前も観光客だろ」
成は聞こえなかったふりをした。
十五分ほどして、成が空港の自動ドアから出てきた。
隣に一人の女性がいた。そして、四つの大きなスーツケースを載せたカートがついてきた。
成は片手でカートを押し、もう片方の腕には、ベラのために買ったらしい水のボトルを挟んでいた。
成にしては少し格好が悪かった。
女性は萌だった。
長時間のフライトを終えたばかりなのに、服には一本の皺も見当たらなかった。
黒いコートの下から細い脚が伸び、歩くたびに周囲の光を少しだけ自分の側へ引き寄せていた。
ただ、謙には、彼女が疲れているのが分かった。
身体ではなく、もっと奥の方が疲れていた。
萌が車へ近づくと、ベラの尻尾が先に動いた。次に身体全体が窓へ寄っていった。
「あら、ベラ。私が恋しかったでしょう」
萌が窓越しに手を振ると、ベラは口を少し開き、人間の笑顔に近いものを見せた。
「あなたの目はいつも、今日初めて世界を見たみたいね」
萌はベラの顔を覗き込んだ。
「本当に綺麗な目」
ベラは成ではなく、萌の手の匂いを嗅いだ。
「スーツケース四つか」
謙が言った。
「二つは空よ」
「どういうことだ」
「帰りに埋めるの」
助手席にスーツケースを一つ置き、成と萌は後部座席へ座った。ベラは少し考えてから、萌の膝
へ移動した。
「どこへ?」
「リッツ」
成が答えた。
「紹介が遅れた。運転しているのが謙。日本人だけど、アメリカ生まれのアメリカ人だ。俺より英語
がうまい」
「初めまして」
「初めまして、迎えに来てくれてありがとう」
「日本語も成より綺麗な気がするわ」
萌は言った。
「二人はどういう関係なの、成?」
「今いる俺の唯一の友人」
「アメリカで?」
「全世界で」
「あら。私も似たようなものよ」
萌は冗談らしく笑ったが、その笑いは必要以上に長く続かなかった。
「謙はどこに住んでるの?」
「ニュージャージー」
「お母さまとは日本語で話すの?」
「英語だな。日本語も分かるけど」
「じゃあ、普段はほとんど英語?」
「そうだね。ただ、英語を話してる時と日本語を話してる時で、性格が違う気がする」
「分かるわ」
萌はすぐに言った。
「私は英語を話してる時の方が、自分のいろんな部分を使えるの。言語の問題というより、その言
葉を使って会う人たちの方が、いろんな私を許してくれる感じ」
少し沈黙があった。
三人がそれぞれ、自分の中にいる別の人間について考えた。
吠え方を知らないベラだけが、何も考えず萌の膝で目を閉じた。
「俺は五重人格だな」
成が言った。
「仕事の英語、普段の英語、スペイン語、ビジネスマンジャパニーズ、それから関西弁の俺」
「スペイン語は、あまり上手じゃないところが魅力なのよね」
萌が言った。
成は無視した。
「ところで、謙に友達を紹介してやってくれよ。インスタに出てくる女の子たち」
「あの人たちは友達じゃないわ」
「百二十万人もいるのに?」
「百二十万人いるからよ」
謙はバックミラー越しに萌を見た。
彼女は窓の外を見ていた。
「フォロワーは、私が昨日何を着たかは知ってる。でも、私が昨日どんな気分だったかは知らな
い。私も、あの人たちの昨日を何も知らない」
車がイースト・リバーを越え、マンハッタンへ入った。
萌の希望で、謙は五番街を通った。
ブランド店の窓が金色に光り、路上の装飾が冬の闇を昼間より明るくしていた。萌は窓越しに何
枚か写真を撮った。投稿画面まで進み、しばらく眺めてから閉じた。
成は、その一連の動きを何も言わずに見ていた。
五番街の光が萌の目に映っていた。
十八歳の頃なら、その光を見て悔しくなっただろう。今は少し違った。
成は、自分がこの街に根を張り始めていることを誇らしく感じた。同時に、何かに初めて照らされ
るという経験が、もう自分には起こらないことを寂しく思った。
深く考える前に、成はベラの水を確認した。
リッツに着くと、ドアマンが車の中を覗き込んだ。
「こんばんは、ベラ」
飼い主より先に犬の名前が呼ばれた。
成は四つのスーツケースを下ろし、萌の荷物をポーターへ渡した。
「明日も仕事だろ」
謙が聞いた。
「早く上がる。夜、ブルックリンのイタリアンへ行こう。お前も来いよ」
「何を食べるんだ」
「白いアラビアータ」
「アラビアータは赤いだろ」
「トマトを使わないんだ」
謙はハンドルから両手を離し、意味が分からないという顔をした。
成は笑った。
「食べれば分かる」




