二日目 ③
高校の近くを離れて十分ほど歩いた頃、雨が降り始めた。
最初は頬に一滴当たっただけだった。
「雨?」
美月が空を見る。
「天気予報、降るって言ってた?」
「見てない」
「悠真らしい」
「美月は?」
「見てない」
「人のこと言えないじゃん」
そう話しているうちに、雨粒が少しずつ増えた。
道路に小さな点が広がり、歩いている人たちが次々と傘を開いていく。
「あ」
美月がバッグを探る。
「傘あるの?」
「あると思ったんだけど」
「思った?」
「昨日バッグ変えた」
「じゃあないんじゃない?」
「……ない」
「俺もない」
「何で?」
「朝降ってなかったから」
「天気予報見る意味ないじゃん」
「今日は見てない」
「もっとだめじゃん」
雨はすぐに強くなった。
二人は近くの建物の屋根まで走る。
「最悪」
美月が髪についた水滴を払った。
「駅までまだ結構あるな」
「どうする?」
「コンビニで傘買う?」
「近くにあったっけ」
悠真がスマートフォンで地図を見る。
少し先に一軒ある。
「五分くらい」
「この雨で五分?」
「待ってれば止むかも」
「そうかな」
空を見る。
雨雲は厚かった。
しばらく待ってみたものの、雨脚は弱くならない。
「行くか」
「濡れるよ」
「ここにずっといるよりいいだろ」
二人は屋根から出た。
数歩走ったところで、美月が立ち止まる。
「悠真」
「何?」
「あそこ」
道路の向かいに、小さな雑貨店があった。
店先に透明のビニール傘が並んでいる。
「あるじゃん」
「地図に出てなかったぞ」
「古い店だからじゃない?」
二人で店へ走った。
悠真はビニール傘を一本手に取る。
美月も取ろうとしたが、棚は空だった。
「あれ」
「一本しかない?」
「みたい」
「店員さんに聞いてみれば?」
聞いてみると、在庫もそれで最後だと言われた。
悠真は少し考えてから傘を買った。
店を出る。
「悠真使って」
美月が言う。
「何で」
「買ったの悠真だし」
「美月どうするんだよ」
「駅まで走る」
「この雨で?」
「大丈夫」
「無理だろ」
悠真は傘を開いた。
「入ればいいじゃん」
「二人で?」
「他に方法ある?」
「……じゃあ、お邪魔します」
「何で急に丁寧なんだよ」
美月が傘の中へ入る。
思ったより近い。
肩が触れそうになる。
悠真は少しだけ傘を美月側へ傾けた。
「悠真、そっち濡れてるよ」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ」
美月が傘の持ち手に手を伸ばす。
「もっと真ん中」
「近いって」
「濡れるよりいいじゃん」
「まあ……そうだけど」
二人の肩が軽く触れた。
美月は気にしていないようだったが、悠真は妙に意識してしまう。
「何?」
「何でもない」
「今日それ多くない?」
「美月に言われたくない」
「私はちゃんと言ってるよ」
「どこが」
雨音が傘をたたく。
道路に水が流れ、車が通るたびに大きな音がした。
二人は自然と歩幅を合わせて歩く。
少しして、美月が笑った。
「懐かしいね」
「何が?」
「こういうの」
「雨?」
「違う。一つの傘」
悠真は記憶を探る。
「ああ」
「覚えてる?」
「高校の時だろ」
「やっぱり覚えてるんだ」
「一年の時じゃなかった?」
「二年」
「そうだっけ」
「文化祭の準備してた時」
「ああ、そっちか」
記憶がつながる。
高校二年の秋。
文化祭の準備で遅くなった日。
急に雨が降った。
美月が傘を持っていなかった。
悠真の傘に二人で入った。
確かその日も、駅まで同じ道を歩いた。
「美月、あの時びしょびしょになってたよな」
「悠真が自分の方ばっかり傘寄せるからでしょ」
「逆だよ。美月が外側歩いてたから」
「絶対違う」
「覚えてるって」
「私も覚えてる」
「じゃあどっちかの記憶がおかしいな」
「悠真でしょ」
「美月だろ」
二人で笑った。
あの日もこんな感じだった。
くだらない話をしながら歩いて、駅に着いて、そこで別れた。
悠真は、あの時かなり緊張していたことまで思い出した。
美月の肩が近かった。
シャンプーの匂いがした。
何を話せばいいか分からなくなって、どうでもいい話を続けた。
今もそれほど変わらない。
「悠真」
「ん?」
「あの時さ」
「うん」
「私、結構嬉しかったんだよ」
「何が?」
「傘入れてくれたの」
「それくらい普通だろ」
「普通でも嬉しいものは嬉しいの」
「そういうもん?」
「そういうもん」
美月は少しだけ顔を伏せた。
「私ね、あの時――」
そこで言葉が止まる。
「何?」
「やっぱいい」
「また?」
「今のは本当に何でもない」
「最近それ多くない?」
「悠真が何でも聞こうとするから」
「途中まで言うからだろ」
「じゃあ忘れて」
「気になるじゃん」
「そのうち教える」
悠真は思わず笑った。
「俺の言い方うつってるぞ」
「あ」
「『そのうち』は禁止じゃなかった?」
「私にはいいの」
「ずるいな」
「じゃあ、また今度」
「それも禁止」
「細かい」
雨はまだ降っていたが、駅に近づくにつれて少し弱くなってきた。
駅前には、傘をたたんでいる人もいる。
「もうすぐ止みそう」
美月が言った。
「駅着く頃に止むやつだな」
「よくある」
「傘買った意味なかったかも」
「いいじゃん。また使えるし」
「家にビニール傘何本あると思ってるんだ」
「知らないよ」
「五本」
「何でそんなあるの?」
「毎回こうやって買うから」
「学習しないね」
「次から持つ」
「絶対持たない」
「明日は持つよ」
「明日は降らないんじゃない?」
「じゃあいらないな」
「もうだめだ」
駅の屋根に入る。
悠真は傘を閉じた。
美月が自分の髪を触る。
「結局ちょっと濡れた」
「俺も」
「傘、小さかったね」
「二人用じゃないからな」
「でも高校の時よりは上手だった」
「何が?」
「傘さすの」
「六年でそこだけ成長したのかよ」
「いい成長じゃん」
「もっと他にあるだろ」
「例えば?」
「仕事してる」
「私もしてる」
「一人暮らししてる」
「私も」
「……何だろうな」
「意外と変わってないんじゃない?」
美月が笑う。
「そうかも」
二人は改札前まで歩いた。
昨日と同じ場所。
けれど昨日よりも、別れるのが少しだけ惜しい気がした。
「今日はありがと」
美月が言う。
「買い物?」
「それも。傘も」
「どういたしまして」
「あと高校まで付き合ってくれたのも」
「俺も懐かしかったから」
「楽しかった?」
「うん」
「即答なんだ」
「悪い?」
「ううん」
美月は少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、帰るね」
「うん」
「傘ありがと」
「今度は持ってこいよ」
「悠真もね」
「俺はちゃんと持つ」
「明日だけでしょ」
「信用ないな」
「六年分あるからね」
「それまだ言う?」
「言う」
美月が改札へ向かう。
数歩進んだところで振り返った。
「悠真」
「何?」
「またね」
「うん。また」
昨日と似た言葉。
でも悠真は、昨日とは少し違う気持ちで美月の背中を見送った。
電車に乗り、家へ帰る。
窓には雨粒が残っていた。
悠真はスマートフォンを取り出した。
メッセージは来ていない。
別に毎回すぐ連絡が来るわけではない。
そう思って画面を閉じる。
三分ほどして、スマートフォンが震えた。
美月だった。
『今日はありがと』
『どういたしまして』
『楽しかった』
『俺も』
少し間が空く。
『高校の時思い出した』
『傘?』
『それも』
『他は?』
『秘密』
『秘密多すぎ』
『いつか教える』
悠真はその一文を見て、少しだけ笑った。
『いつかっていつ』
送る。
今度はすぐ返事が来なかった。
電車が一つ駅を通過する。
やがて画面が光る。
『じゃあ明日』
悠真はその文字をじっと見た。
『明日?』
『明日教えるとは言ってない』
『じゃあ何』
『また明日ね、ってこと』
その下に、小さな笑顔のスタンプ。
悠真は窓の外を見る。
雨はほとんど止んでいた。
暗い町の中を、家や店の明かりが流れていく。
昨日までなら、誰かに「また明日」と言われても何も思わなかったはずだ。
仕事なら毎日使う。
友達にも使う。
何でもない言葉だ。
それなのに、美月から届いた四文字を見ていると、少しだけ胸が温かくなる。
明日も話せる。
今日で終わりではない。
そう思えることが、思っていたより嬉しかった。
悠真は返信欄を開いた。
『また明日』
送信する。
すぐに既読がつく。
それだけだった。
特別な言葉ではない。
約束と言うほど大げさでもない。
ただ、今日の続きが明日にもある。
二人とも、そう信じていた。
悠真はスマートフォンをポケットへしまった。
電車はいつも通り、次の駅へ向かって走っていた。




