四日目 ②
「そういえば、昨日言いかけたやつ」
『何?』
「傘の時」
『ああ……』
「何言おうとしたの?」
『忘れた』
「絶対嘘」
『本当に忘れた』
「美月、都合悪いことだけ忘れるよな」
『悠真に言われたくない』
電話は、思っていたより長く続いた。
最初は十五分くらい話して終わるつもりだった。
仕事の話をして、美月が今日食べた夕飯の話をして、そこから昨日の雨の話になった。それがいつの間にか高校時代の話へ変わっていた。
悠真はベッドに背中を預け、スマートフォンを耳に当てている。
「修学旅行の時、美月たち夜中まで起きてたよな」
『うん。三時くらい』
「次の日眠かっただろ」
『眠かった。でも楽しかった』
「俺は健康的だった」
『十時就寝は健康的すぎるでしょ』
「翌朝一番元気だった」
『そういうところだけ真面目なんだよね』
「そういうところだけって何」
『授業は寝るのに、集合時間だけは絶対守るとか』
「遅刻するよりいいだろ」
『悪いって言ってないよ』
美月の声は、会って話している時より少し柔らかく聞こえた。
顔が見えないからだろうか。
話さなくても気まずくない時間がある。
何か思い出した時だけ、どちらかが話し始める。
『ねえ』
「ん?」
『悠真って大学の時、彼女いた?』
突然話が変わった。
「何で?」
『何となく』
「いなかった」
『一回も?』
「ない」
『へえ』
「何だよ」
『意外』
「失礼だな」
『だって普通にいそうだったから』
「美月は?」
『質問返しだ』
「聞いたんだから答えろよ」
『いたよ』
「……え」
自分でも分かるくらい、声が止まった。
美月が向こうで笑う。
『何その反応』
「いや、普通だろ」
『普通って?』
「大学四年あるんだから、まあ、いることもあるだろ」
『半年くらいだけね』
「へえ」
『興味なさそう』
「あるよ」
『何が?』
「いや……どういう人だったのかなって」
『優しい人だったよ』
「そっか」
『でも合わなかった』
「そうなんだ」
『何か質問ある?』
「面接みたいに言うなよ」
『だって気になってそうだから』
「別に」
『また別にって言った』
「じゃあ少し」
『少しなんだ』
「そのやり取り昨日やっただろ」
『便利だね』
二人で笑う。
でも、悠真の中には少しだけ引っかかるものが残った。
六年間会わなかった。
その間に美月に恋人がいても、何もおかしくない。
むしろ当然だ。
それなのに、少しだけ面白くない。
自分でも勝手だと思う。
『悠真』
「何?」
『黙った』
「考えてた」
『何を?』
「別に」
『ほらまた』
「……じゃあ聞くけど」
『うん』
「高校の時に好きだった人って、その人とは違うんだよな?」
美月が少し黙った。
『違うよ』
「そっか」
『何で?』
「いや、なんとなく」
『まだ気になってるんだ』
「そりゃ聞いたら気になるだろ」
『じゃあ悠真の方も教えてよ』
「何を?」
『高校の時好きだった人』
「嫌だよ」
『ずるい』
「美月も言ってないだろ」
『じゃあ質問だけ』
「何」
『同じ学校?』
「……うん」
『同じ学年?』
「うん」
『同じクラスになったことある?』
悠真は少し迷った。
「ある」
『へえ』
「何だよ」
『別に』
「美月もそれ使うじゃん」
『便利だから』
「じゃあこっちも聞く」
『どうぞ』
「同じ学校?」
『うん』
「同じ学年?」
『うん』
「同じクラス?」
少し間。
『……あるよ』
悠真は黙った。
美月も黙っている。
二人とも同じ学校。
同じ学年。
同じクラスになったことがある。
それだけなら、候補はたくさんいる。
でも。
「文化祭の写真で緊張してたのって」
『その質問禁止』
「まだ最後まで言ってない」
『分かるから禁止』
「じゃあ関係あるんだ」
『言わない』
「美月」
『何』
「ずるくない?」
『悠真に言われたくない』
「俺は別に秘密匂わせてないだろ」
『今日の質問でだいぶ分かったけどね』
悠真の心臓が一度強く鳴った。
「何が?」
『秘密』
「そればっかりだな」
『じゃあ悠真も教えて』
「何を」
『高校の時、好きだった人』
「今?」
『今』
悠真は口を開きかけた。
名前を言えばいい。
たった二文字。
美月。
それだけ。
高校時代の話だ。
今の告白ではない。
だから、言ってもいいはずだった。
でも言えない。
「……無理」
『何で?』
「恥ずかしいだろ」
『六年前なのに?』
「六年前でも」
『じゃあ私も言わない』
「そうなるよな」
『なるよ』
美月が小さく笑う。
『でもさ』
「うん」
『ちょっともったいなかったね』
「何が?」
『高校の時。お互い好きな人いたなら、ちゃんと言えばよかったのに』
「美月も言ってないじゃん」
『だから私も』
「怖かったんだよ」
口から自然に出た。
美月が黙る。
悠真は続けた。
「言って、今までみたいに話せなくなるの嫌だったし。卒業も近かったし、大学別になるし。それなら言わない方がいいかなって」
『……そっか』
「今考えたら、ただ逃げてただけだけど」
『そんなことないんじゃない』
「美月は?」
『私?』
「何で言わなかったの?」
電話の向こうが静かになる。
遠くで何かの音がした。
美月が動いたのかもしれない。
『同じ』
「同じ?」
『今の関係が変わるのが嫌だった』
「そっか」
『あと』
「あと?」
『相手が鈍かったから』
悠真は笑った。
「それは相手が悪いな」
『本当にね』
「そこまで言う?」
『今でも変わってないし』
「今でも?」
美月が一瞬黙る。
『何でもない』
「またそれ」
『忘れて』
「無理だろ」
『じゃあそのうち分かる』
「いつ?」
『そのうち』
「禁止じゃなかった?」
『私にはいいの』
「ずるい」
二人で笑った。
時刻を見る。
十時半を過ぎている。
「結構話してるな」
『何時?』
「十時半」
『嘘』
「本当」
『一時間半?』
「それくらい」
『そんな話すことあったんだね、私たち』
「高校の時も電話してたじゃん」
『してたね』
「覚えてる?」
『覚えてるよ。試験前なのに二時間くらい話したことあった』
「それで美月、次の日眠いって怒ってた」
『悠真が切らなかったからでしょ』
「美月も切らなかっただろ」
『じゃあ半分ずつ悪い』
「そうだな」
それからも電話は続いた。
高校時代の話は尽きなかった。
思い出していなかっただけで、二人の間には思ったよりたくさんの記憶が残っていた。
どれも大きな出来事ではない。
帰り道。
授業。
文化祭。
雨。
試験前の電話。
そういうものばかりだった。
でも、その普通の時間を、二人とも忘れていなかった。
それが悠真には少し嬉しかった。




