第13話 引きこもり剣仙、人生初のお出かけ
「いい、景安? よく聞いて」
ある晴れた朝。翠蓮は縁側でいつものように寝転がっている景安の目の前に、びしっと一本の指を突き立てた。
「『山から出ると死ぬ』。これが例の予言の言葉よね? つまり、その内側であれば、どれだけ境界線ギリギリまで移動したって、死にはしないってことでしょう?」
「……まあ、理屈の上ではそうですが」
「なら決まりよ! 麓の町へ行きましょう!」
前回の買い出しから今日までずっと頭を悩ませていたが、いい搦め手など思いつかなかった。だからこそ、翠蓮は直球勝負に出たのだ。
景安は本気で嫌そうな顔をして、あからさまに眉をひそめた。重い腰を上げる気配など微塵も見せず、気怠げにこちらを見上げてくる。
「柳姑娘。私は生まれてから一度も、清風門の道場より下へ降りたことがありません。そもそも移動すること自体が面倒です。なぜ私がそんな危険を冒してまで、埃っぽい町へ行かねばならないのですか」
「私が! あんたを連れて行きたいのよ!」
翠蓮は一歩も引かなかった。
向けられた呆れ顔を真っ直ぐに見つめ返す。その瞳には、絶対に譲らないという強い意志の光が宿っていた。
「あんた、いつもこの山で、ただ景色が移り変わるのを眺めているだけじゃない。……私はね、あんたに外の世界を見てほしいの。本当に境界のギリギリにある町だけど、活気があって、美味しいものもたくさんあって、すごく楽しいんだから! ねえ、私を信じて、一歩だけ踏み出してみて?」
どこまでも真っ直ぐなお節介。
そして、放っておけばいつか雪山のように消えてしまいそうなこの男を、どうにかしてこちら側に繋ぎ止めたいという、彼女なりの不器用な情だった。
景安は、訴えかけるような翠蓮の表情をしばらくじっと見つめていた。
そして、ふう、と、深く、深くため息をつく。
彼にとって外の世界など、本当はどうでもいいのだろう。予言を恐れているというよりは、ただ単に俗世に興味がなく、動くのが億劫なだけなのだということは、その静かな瞳を見ていればよく分かった。
だが──。
「……一度だけですよ。もし私が死にかけたら、あなたに背負って走ってもらいます」
「任せなさい! 万が一のときは、私が抱えてでも庵まで連れて帰ってあげるわ!」
景安の返事が嬉しくて、翠蓮は思わず満面の笑みを浮かべた。ポンと自分の胸を叩いて、誇らしげに胸を張る。
こうして、生まれながらの引きこもり剣仙の、人生初のお出かけをもぎ取ったのだった。
◇
山道を下り、大きな古木の前に辿り着いた。
そのすぐ向こうには、陽光を浴びて活気に満ちた麓の町が広がっている。今まで決して踏み込まなかった世界が、すぐそこにある。
景安は、おそるおそる──けれど顔は相変わらず気怠そうに──古木の根元をまたぎ、結界の向こう側へと、静かに一歩を踏み出した。
吹き抜ける風はただ心地よく、彼の白い衣を揺らすだけだった。
「……」
「……ど、どう!? 苦しくない!? 血を吐いたりしてない!?」
翠蓮は血相を変えて、景安の顔を間近で覗き込んだ。彼は自分の胸にそっと手を当て、いつも通り淡々と言う。
「特に何ともありませんね。ただ、やはり人が多くて騒がしいです。すでに帰りたくなってきました」
「大丈夫ならよし! ほら、行くわよ!」
弱音を吐く男の手首をガシッと掴むと、翠蓮はぐいぐいと賑やかな人混みの中へと引っ張っていった。
物売りの威勢のいい声、香ばしい焼餅の匂い、色鮮やかな反物が並ぶ店。
久しぶりに訪れる町の賑わいに、翠蓮の胸は躍った。
「景安、見て! あの髪飾り、すごく綺麗! あ、あっちの飴も美味しそう!」
普段は気を張って生きている彼女だったが、今だけはそれを忘れて、子供のように瞳を輝かせてしまう。
横を歩く景安にとっては、きっと「面倒で騒がしい場所」でしかないのだろう。──そう思っていた。
だが、人混みに押されて翠蓮の身体がふらついた、その時だった。
「おっと……」
景安の長い腕がすっと伸びてきて、彼女の肩をそっと自分のほうへと引き寄せた。
触れた肩から、彼の心地よい体温が伝わってくる。驚いて見上げると、さっきまで「帰りたい」と遠い目をしていたはずの男が、見たこともないほど穏やかに眦を下げて、優しく目を細めていた。
その眼差しは、まるで何かとても眩しくて、愛おしいものでも眺めているかのようで。
(……な、何よ、その目……)
捉えられた視線の熱さに、翠蓮は急に心臓がトクンと跳ねるのを感じた。
彼は相変わらず、鮮やかな町並みには目もくれていない。ただ隣で、はしゃぐ翠蓮の姿だけを、じっと優しく見つめている。
「柳姑娘、飴が食べたいなら買いましょう。ただし、私の分もあなたのお奢りですよ」
「もう、しょうがないわね! 引きこもり初外出のお祝いに、私が奢ってあげるわ!」
甘い空気をごまかすように、翠蓮はわざと大きな声で言って、嬉しそうに胸を張った。
◇
二人が飴を手に、活気に溢れる往来を歩いていると、威勢のいい声が降ってきた。
「おお、翠蓮の姉ちゃんじゃないか!」
「あっ、肉屋のおじさん!」
馴染みの顔を見つけて足を止めると、店主は翠蓮の隣に並んでいる景安に視線を移す。そして、これ以上ないほど目を丸くした。
「おいおい、たまげるほど美形の兄ちゃんを連れてるなぁ!」
店主の地声が無駄に大きかったせいで、周囲を行き交う人々の視線が一斉に自分たちの元へと集まってしまう。
すれ違う町娘たちが、あからさまに頬を染めて景安を色めき立って見つめているのが分かった。それを見た瞬間、翠蓮の胸の奥に、得体の知れないモヤモヤとした不快感が居座る。
(ま、まあ……確かに、悔しいけどあいつは群を抜いて美形ね。それは認めるわよ……?)
心の中で誰に対してともなく言い訳をしながら、隣の景安を盗み見る。
すると、彼は彼で、なぜか周囲の男たちから向けられる視線に対して、いつもは見せないようなイライラとした気配を隠そうともしていなかった。
男たちの、がっかりしたような目や、値踏みするような目。
翠蓮自身はまったく気づいていなかったが、気さくに町の人々と接する美貌の女侠である彼女は、この町の男たちの憧れの的だったのだ。
露骨に不機嫌そうな顔をした景安は、店主へ向けて、いつもより少し低い声を響かせた。
「……店主。あまり大声で騒がれると、翠蓮が困ります」
さらりと、いつも通りの淡々とした口調で放たれた、その名前。
(……え?)
いま、私のこと。
──「翠蓮」って、呼んだ……?
いつもは「柳姑娘」などと他人行儀に呼ぶくせに。人前で突然された親しげな振る舞いに、翠蓮の思考は一瞬で真っ白に染まる。
一方、そんな二人の様子を特等席で眺めていた肉屋の店主は、にやにやと笑みを深めた。
「がはは! なるほどなぁ。姉ちゃんも年頃だもんなぁ。にしても、どっちも目を見張るほどの美男美女でお似合いだ!」
「そ、そそそ、そんなんじゃありませんっ!」
恥ずかしさが限界に達した翠蓮は、茹で上がった蛸のように顔を真っ赤にして叫んだ。
これ以上この場にいたら恥ずかしすぎて本当に爆発してしまう。翠蓮は景安の手首をガシッと掴むと、そのまま引きずるようにして大股でその場を走り去った。
猛烈な勢いで往来を駆け抜けていく。
風を切る自分の足音に混じって、背後から肉屋のおじさんの呆れたような、けれどどこか楽しげな独り言が、翠蓮の耳へと滑り込んできた。
『いやいや、否定してたってなぁ……。あの兄ちゃん、めちゃくちゃ翠蓮姉ちゃんのことを特別扱いするような目で見てたぞ』
(──なっ!?)
聞かなかったことにしたい言葉ほど、達人の耳には鮮明に届いてしまう。
特別扱いするような目って、一体どんな目よ──!?
掴んだ景安の手首から伝わる熱が、まるで自分の動揺を煽るかのように、やけに熱く感じられて仕方なかった。




