終章 手のひらの灯
御影家の墓所の奥。ひときわ小さな墓標の前に、鈴は立った。
「ここに、母が眠っています」鈴は静かに言った。「皆を改葬するとき。母だけは別に、小さな墓を、とお願いしました。——わたしをこの世に遺してくれた、人ですから」
柊の足が、止まった。
その墓標を前にして、屈強なその身が、石のように強ばっていた。あの夜、おのれがその手で斬った、御影の奥方。最も向き合うことのできなかった、罪。それが今、目の前にある。
「縁さま。おれは……」柊の声が、震えた。「おれは、ここへ立つ資格が……」
「柊さま」
鈴は懐から、貝細工の櫛を取り出した。母が遺し、鈴を御影の娘たらしめた、その形見。鈴は、布を解いた指で、そっとその貝の肌に触れた。
息を、心の臓の音を、錨のように下ろす。そして、最後にもう一度、問うた。——母さま。あなたは、何を望んでおられましたか。
櫛の念が、ゆっくりと鈴を満たしていく。
そこに、あったのは。恨みでも悲しみでも、なかった。ただ、あふれるばかりの愛しさ。そして、ひとつの願い。——縁。どうか、しあわせに生きて。
幾度も視た、母の想い。けれど今、鈴はその奥に、もうひとつの声を聴いた気がした。
しあわせに、生きて。——憎しみを、抱えてではなく。
鈴の頬を、涙が伝った。それは、温かい涙だった。
「柊さま」鈴は、顔を上げた。「母は、わたしにしあわせに生きてほしいと、願っていました。——憎しみの中で生きることを、母は望んではいません」
鈴はゆっくりと、柊の傍らに進み、ともに母の墓標に向き合った。
「あなたが、あの夜したことは。消えません。母の命は、還りません。——その痛みは、わたしもあなたも、きっと生涯抱えていく」鈴の声は、静かだった。「でも。その痛みを抱えたまま。それでも、前を向いて生きていくことを。わたしは、選びます。母が願った、しあわせを。あなたと、ともに」
柊が、はっと鈴を見た。
「あなたは十五年、贖い続けてくれた。そして、わたしを生かし、御影の無念を晴らすために、何もかもを賭けてくれた。——もう、十分です、柊さま。どうか、おのれを許してあげてください」
柊の双眸から、堪えきれぬ涙がこぼれ落ちた。
この、十五年。罪の意識に押し潰されそうになりながら、ただ贖いだけを胸に生きてきた、男。その凍りついた心が。今、御影の娘の、まっすぐな言葉に、ゆっくりと溶けていく。
「縁、さま……」柊は、声を絞り出した。「この身に余る、お言葉。——おれは、生涯をかけて。あなたをお守りいたします。あなたのしあわせのために」
鈴は微笑んだ。そして、布の巻かれていない、その右手を。柊のほうへと、そっと差し出した。
かつて、人の痛みや死を視てしまうがゆえに。固く布で覆い、隠していた、その手。忌まわしいと、おのれですら厭うていた、その手を。鈴は今、誰かと繋ぐために、まっすぐに差し伸べた。
柊が、その小さな手を両手で包み込む。
温かかった。視えたのは念ではなく。ただ、目の前の人の、確かな温もりだけだった。
桜が、散る。
墓所に、春の光が降りそそぐ。亡き人々に見守られて。二人は、しばらく手を繋いだまま、立っていた。
——物語は、ここから始まる。
触れた物の記憶が視えてしまう、娘。忌み子と蔑まれ、名すらなかった下働きの少女は。長い旅の果てに、おのれの名を、おのれの居場所を、そして、ともに生きていく人を、見つけた。
その力は、もう呪いではない。
奪われた者の声を、聴き。闇に葬られた真実を、照らす。——人の想いに寄り添う、ひとすじの灯火。
鈴は、空を仰いだ。
かつて、すべてを覆っていた雨は、上がり。今、その手のひらには。春の陽の光が、満ちていた。
(了)




