第63話:波のプールと、沈まない防波堤
流れるプールでの「歩行訓練」という名の密着タイムを終え、俺たちは波のプールへと移動した。
「……ふぅ。これで基礎体力は十分ほぐれましたね」
一条副会長(零)は、相変わらず息一つ切らさずにゴーグルを外した。
周囲には、人工の波にはしゃぐカップルや子供たちが溢れかえっている。
「では、次は波のプールで体幹トレーニングです。押し寄せる波に対して、足腰の力だけで姿勢を維持しなさい。……私は少し、奥の方で本格的に泳いできますから、十五分後にここへ戻りなさい」
「お、奥って……一番波が強いところですよね!?」
「当然です。……会長、風森さんがサボらないよう監視を頼みますよ」
零はそう言い残し、迷うことなく波の高いエリアへと進んでいった。
そのストイックな背中を見送りながら、俺は深い深いため息をついた。
「……零さん、本当に高校生か? アスリートの合宿みたいだぞ」
「ふふっ。零は昔から、何事にも全力だもん」
奏羽は俺の腕にギュッとしがみつき、波打ち際の浅瀬でパチャパチャと足をつけて笑った。
彼女のオフショルダーのビキニと白いパレオが、水に濡れて肌に張り付いている。
「……湊くん、わたし、あっちの方行きたいな」
奏羽が指差したのは、波のプールの端にある、比較的人が少なくて波も穏やかなエリアだった。
零からの「体幹トレーニング」という指示からは完全に逸脱しているが、この人混みの中で彼女の水着姿をジロジロ見られるのも気が気ではない。
「……わかった。でも、あまり深入りはしないぞ」
「うんっ!」
俺たちは手を繋いだまま、波に揺られながら端の方へと移動した。
水深は腰の辺りまであり、浮き輪を持った子供たちが通り過ぎるくらいで、確かに落ち着ける場所だった。
——ザパーンッ!
「ひゃっ!?」
不意に、少し大きめの波が押し寄せてきた。
奏羽がバランスを崩し、俺の胸にドンッとぶつかる。
「っと、危ない」
「ご、ごめん湊くん……波、結構強いね」
俺は咄嗟に彼女の腰を両腕で抱きとめ、自分の方へと引き寄せた。
水面下で、彼女の細い身体が俺の身体にピタリと密着する。
「……湊くんの身体、波が来ても全然動かないね。かっこいい」
奏羽は俺の胸に顔を押し付けたまま、上目遣いで俺を見上げてきた。
その瞳は水に濡れて潤み、色っぽさが限界突破している。
「……お前が軽いから支えられるだけだ。それに、零さんに体幹トレーニングしろって言われてただろ」
「してるもん。湊くんを支えにして、体幹鍛えてるの」
「それは俺の体幹を鍛えてるだけだろ」
俺が苦笑いしながらツッコミを入れると、奏羽は「えへへ」と悪戯っぽく笑い、さらに俺の首に腕を回してきた。
「ねえ、湊くん」
「ん?」
「……周りの人、みんな楽しそうだね」
彼女は周囲のカップルたちをちらりと見つめ、ぽつりとこぼした。
「わたしね、今まで夏休みにプールとか海とか、遊びに来たことなかったの」
「えっ? そうなのか?」
「うん。……お母様が『そんな暇があるなら勉強しなさい』って。……だから、こういう場所って、すごくキラキラしてて、別世界みたいだった」
奏羽は、俺の首元に顔を埋め、深呼吸をした。
「……でも、今は、わたしもその『キラキラ』の中にいる。……湊くんが、わたしをこの世界に連れ出してくれたんだよ」
彼女の言葉に、俺の胸の奥がじんわりと温かくなった。
完璧な生徒会長という檻の中から、彼女は俺の手を取って飛び出してくれたのだ。
「……大げさだな。俺はただ、お前が笑ってくれればそれでいいだけだ」
俺が彼女の濡れた前髪をそっと撫でると、奏羽は目を細め、至近距離で囁いた。
「……湊くん。……好き。大好きだよ」
波の音にかき消されそうな、小さな声。
だが、その熱は水越しでもはっきりと伝わってきた。
「……俺も、好きだ」
周囲の目を盗み、俺は彼女の柔らかい唇に、そっと自分の唇を重ねた。
波が寄せては返すプールの中。
水面下で強く抱きしめ合いながら交わしたキスは、塩素の匂いと、彼女の甘い香りが混ざり合った、この夏一番の思い出の味だった。
「……コホン」
俺たちが熱い時間を貪っていた、その時だった。
背後から、わざとらしい咳払いが聞こえた。
「っ!?」
慌てて唇を離し、振り返ると、そこには波のプールのさらに奥から生還してきた一条副会長が、腕を組んで立っていた。
ゴーグルを額に上げ、呆れ果てたような、しかしどこか満足げな顔をしている。
「……十五分経ちましたよ。体幹トレーニングはどうしましたか?」
「れ、零っ! これは、その……波が強くて……っ!」
「……ええ、そうですね。波のせいにしておきましょう。……さあ、シャワーを浴びて帰りますよ。夜の補習は、この分の『遅れ』も取り戻してもらいますからね」
零はフッと短く笑い、更衣室の方へと歩き出した。
「……また地獄か」
「ごめんね、湊くん。でも……わたし、すっごく幸せ」
奏羽は真っ赤な顔で俺の手を握りしめ、弾むような声で言った。
俺の体幹は波には耐えられたが、彼女の笑顔という最大の波には、どうやら一生沈み続けるしかないらしい。




