第61話:甘やかしの休日と、二人きりの映画鑑賞
「……はぁ」
朝食を終え、食器を片付けた俺は、リビングのソファに深く沈み込んだ。
熱は完全に下がったとはいえ、病み上がりの身体には少しだけ怠さが残っている。
「湊くん、お水飲む? それとも、もう一回寝る?」
奏羽が、パタパタと小走りで俺の隣にやってきた。
彼女は「今日はわたしが甘やかす日」という宣言通り、朝から俺の身の回りの世話を焼こうと必死になっている。
ただ、その「世話」の方向性が、どうも俺の理性を試すベクトルに向いている気がしてならない。
「いや、寝るほどじゃない。……テレビでも見て、のんびりするよ」
「そっか! じゃあ、一緒に映画見よう!」
奏羽は嬉しそうに提案し、テレビの電源をつけて動画配信サービスの画面を開いた。
「湊くん、どんな映画が好き? アクション? それとも、泣けるやつ?」
「んー……あんまり頭使わない、気楽に見れるコメディとかがいいかな」
「わかった! じゃあ、これにするね」
彼女が選んだのは、海外のドタバタラブコメディだった。
再生ボタンを押し、奏羽は俺の隣——というより、俺の腕の中にすっぽりと収まるように座り込んできた。
「……おい、奏羽。近いぞ」
「だって、映画見る時はこうやってくっついて見るものでしょ? お母様がいないんだから、少しくらい甘えさせてよ」
奏羽は俺のTシャツの裾をぎゅっと握りしめ、俺の肩に頭を預けてきた。
シャワー上がりのような、ふわりとした甘い香りが鼻腔をくすぐる。
俺は小さくため息をつきながらも、彼女の頭にそっと顎を乗せた。
「……まぁ、今日くらいは特別にな」
「えへへ……湊くんの匂い、落ち着く」
映画が始まり、俺たちは無言で画面を見つめていた。
主人公とヒロインがすれ違いながらもドタバタと距離を縮めていくストーリーは、確かに気楽に見られて面白かった。
だが、俺の意識の半分以上は、腕の中にいる奏羽の存在に持っていかれていた。
彼女の体温、規則正しい呼吸、そして、時折映画の展開に反応して小さく笑う声。
その全てが、俺にとって心地よいノイズになっていた。
「……あははっ、この人、すっごく不器用だね」
映画の中盤、主人公がヒロインへの告白のタイミングを逃し続けるシーンで、奏羽がクスクスと笑い声を上げた。
「そうだな。……でも、俺も人のこと言えないか」
「え?」
「俺も、お前の母親に啖呵を切ったくせに、まだお前にちゃんと……『好きだ』って、面と向かって言ってないし」
俺がポツリと本音をこぼすと、奏羽は驚いたように顔を上げ、俺を見つめた。
その瞳は、映画の画面の光を反射してキラキラと輝いている。
「……湊くん」
奏羽は、少しだけ身を乗り出し、俺の顔に近づいてきた。
「わたしは、湊くんが隣にいてくれるだけで、十分だよ。……言葉がなくても、湊くんの優しさは、ちゃんと伝わってるから」
「奏羽……」
「でも……」
彼女は、少しだけ悪戯っぽく微笑み、俺の鼻先をツンと突いた。
「たまには、言葉にしてほしいな。……わたし、湊くんの声で『好き』って言われたら、きっと世界で一番幸せになれると思う」
その甘いおねだりに、俺の心臓は大きく跳ねた。
彼女の顔が、どんどん近づいてくる。
映画の音声が、遠のいていくような気がした。
「……好きだよ、奏羽。世界中の誰よりも」
俺が低い声で囁くと、奏羽の顔がみるみるうちに赤く染まり、彼女は「ひゃぅっ」と可愛らしい悲鳴を上げて、俺の胸に顔を埋めた。
「……ずるい。……今の声、反則だよ……」
「お前が言えって言ったんだろ」
「そうだけど……心臓、止まるかと思った……」
奏羽は俺の胸に顔を押し付けたまま、俺の服をぎゅっと強く握りしめた。
「……わたしも、好き。……湊くんのこと、大好き」
もごもごと、くぐもった声で返ってくる彼女の告白。
俺は彼女の背中に腕を回し、強く抱きしめた。
「……ありがとな」
映画はまだ続いているが、俺たちの意識は完全に映画から離れていた。
病み上がりの休戦日。
俺と奏羽は、ソファの上でただ互いの体温と鼓動を感じ合いながら、甘すぎる時間を溶かしていった。
(……明日から、また零さんの地獄の補習が始まるんだよな)
そんな現実的な思考も、今は彼女の温もりに包まれて、遠い彼方へと追いやられていた。




