第55話:夜の特訓と、お嬢様のパジャマ事情
旧校舎の備品倉庫での水漏れ騒動から帰宅した俺たちは、泥だらけの身体を交互にシャワーで洗い流し、ようやくリビングのソファに倒れ込んだ。
「……っ、疲れたぁ……」
「お疲れ、奏羽。文化祭の資材、無事でよかったな」
俺が麦茶を二つ持ってリビングに戻ると、奏羽はソファのクッションを抱きしめ、完全に脱力していた。
シャワー上がりの彼女は、またしてもあの「もこもこルームウェア(ショートパンツ)」姿だ。
いくら同棲生活に慣れてきたとはいえ、濡れた黒髪と無防備な薄着のコンボは、俺の疲労困憊の脳に別の意味でダメージを与えてくる。
「……湊くん、ありがと」
奏羽は身を起こし、俺からグラスを受け取ってゴクゴクと喉を鳴らした。
そして、そのままコテンと、俺の肩に頭を預けてきた。
「……んー、湊くんの肩、落ち着く……」
「おいおい、寝るなよ。零さんから『三倍の密度で補習する』って宣告されただろ。今日の分の遅れを少しでも取り戻さないと」
「えー? 今日はもう、肉体労働で体力ゼロだもん……」
奏羽は俺の制服の袖口ではなく、今日は俺のTシャツの裾をぎゅっと握りしめ、目を閉じて甘ったるい声を出す。
「それに、わたしが教えるより、湊くんが自分で過去問解いた方が早いし……わたし、ここで湊くんのこと応援してるから」
「応援って、寝てるだけじゃないか」
俺が呆れ半分でツッコミを入れると、奏羽は「ちがうもん」と唇を尖らせた。
「……湊くんが勉強してるの、隣で見てるの好きなの。湊くんの横顔、すごく真剣で……かっこいいから」
「……っ」
不意打ちの褒め言葉に、俺は思わず視線を逸らした。
最近の彼女は、本当にストレートに愛情をぶつけてくる。氷の生徒会長だった頃の反動なのか、それともこれが彼女の「本来の姿」なのか。
「……わかったよ。じゃあ、俺は机に向かうから、お前はソファで寝てろ」
「やだ。……湊くんが机に行くなら、わたしも行く。隣に座る」
奏羽は頑なに俺から離れようとせず、俺がダイニングテーブルに移動すると、彼女も椅子を引きずって俺の真横にピタリとくっついてきた。
「あのな、奏羽。これじゃノートが開けないんだが」
「大丈夫だよ。……わたし、湊くんの邪魔しないように、こうしてるから」
そう言うと、彼女は俺の左腕に自分の両腕を絡ませ、俺の肩に顎を乗せた。
完全に俺の左半身がホールドされている。
「……邪魔しないって、めっちゃ邪魔だろ」
「えへへ……湊くんの体温、あったかい」
(……この状況で、特進クラスの数学を解けと?)
俺は深くため息をつきながらも、シャーペンを握った。
左腕からは、彼女の柔らかい感触と、シャンプーの甘い香りがダイレクトに伝わってくる。
脳のリソースの半分以上が「理性の維持」に持っていかれている状態で、俺は必死に数式と向き合い始めた。
* * *
「……んっ、湊くん……」
一時間後。
俺の肩に寄りかかっていた奏羽の頭が、カクンと沈み込んだ。
規則正しい寝息が聞こえてくる。どうやら、本当に限界だったらしい。
「……たく。肉体労働の後に、こんな格好で寝たら風邪引くぞ」
俺はシャーペンを置き、彼女の寝顔を見つめた。
無防備に開いた無垢な唇。長いまつ毛が落とす影。
この世界で一番美しい寝顔を、俺だけが独占している。その優越感と責任の重さに、俺は自然と口角が上がってしまった。
「……さて、ベッドに運ぶか」
俺は彼女を起こさないように、そっと左腕を引き抜き、彼女の膝裏と背中に腕を回して抱き上げた。
軽い。日頃からちゃんとしたものを食べているのか心配になるくらい、彼女の身体は華奢だった。
客間のベッドにそっと寝かせ、夏用のタオルケットをかける。
「……んぅ……湊くん、いかないで……」
寝言を漏らしながら、奏羽が俺のTシャツの裾をぎゅっと掴んできた。
その力は、起きている時よりもずっと強い。
「……行かないよ。ちゃんとここで、お前の寝顔見てるから」
俺はベッドの脇に座り込み、彼女の手を優しく握り返した。
(……それにしても、こいつの寝相、どうなってんだ?)
タオルケットの隙間から、彼女のルームウェアのショートパンツがずり上がり、白くて細い太ももがあらわになっている。
さらに、キャミソールの肩紐がずり落ちかけ、胸元の谷間が……。
「……っ!!」
俺は慌てて視線を逸らし、タオルケットを首元までしっかりと掛け直した。
「……本当に、心臓に悪い」
俺は真っ赤になった顔を両手で覆い、深呼吸を繰り返した。
凪瀬夫人からの「学年十位以内」という条件。
一条副会長の「地獄の夏期講習」。
そして、この「無防備すぎるお嬢様との同棲生活」。
俺の夏休みは、あらゆるベクトルで俺を追い詰める、史上最大の試練となっていた。
「……絶対に、十位以内に入ってやる。……この寝顔を、誰にも渡さないために」
俺は決意を新たに、彼女の寝息をBGMにしながら、再びリビングのテーブルへと戻っていった。
夜はまだ長い。俺の孤独な戦いは、ここからが本番だ。




