第41話:深夜の猛追と、彼女の「特等席」
「……ん、湊くん。朝だよ、起きて」
耳元でくすぐったい声がして、俺はゆっくりと目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、俺のベッドの横で身を乗り出し、長い黒髪をさらりと垂らした奏羽の顔だった。
「……ふわぁ、おはよう、奏羽」
「おはよう。……昨日の夜、膝枕のあとそのまま寝ちゃったでしょ。風邪引かなくてよかった」
奏羽はクスクスと笑いながら、俺の頬を指先でツンと突いた。
彼女はすでに制服に着替えており、心なしか俺の部屋に馴染んでいる。……というか、彼女の私物が少しずつ増え、部屋の空気が「俺一人」のものではなくなってきている。
「……なぁ、奏羽。昨日の数学の応用問題、もう一度解き直したいんだが」
「うん、朝ごはん食べながら一緒に見よう。……でも、その前に」
奏羽は俺の布団の中に潜り込もうとするのを、俺は必死に片手で押し止めた。
「お前っ、もう学校行く時間だろ!」
「あと五分だけ……湊くんの成分を補給させて……」
「補給ってなんだよ! ほら、飯食うぞ!」
結局、朝から彼女のペースに巻き込まれ、俺はフラフラになりながら食卓についた。
押しに弱い俺の性格を、彼女は完全に理解して利用している節がある。
* * *
放課後の生徒会室。
一条副会長(零)による「地獄の補習」は、さらに苛烈さを増していた。
「風森さん、手が止まっていますよ。特進Sクラスのトップ、冴木という男を知っていますか?」
「冴木……?」
「模試でも全国一桁が定位置の化け物です。彼は今回のテスト、全教科満点を狙ってくると宣言しています。彼のような『精密機械』が上位十人を独占しているのが、この学園の現実です」
零の言葉に、俺は冷や汗をかいた。
中の上の成績で満足していた俺にとって、それは別世界の住人の話だ。
「……湊くん、大丈夫。冴木くんは確かにすごいけど、湊くんには、わたしがついているから」
奏羽が俺の手の上に、自分の手をそっと重ねた。
冷たい零の視線が飛んでくるが、奏羽はそれを無視して、俺の目をじっと見つめる。
「わたしが、湊くんを十位以内に入れてみせる。……二人で、お母様を驚かせよう?」
彼女の真っ直ぐな瞳。
俺を信じ切っているその光に、折れそうだった心が再び熱を帯びる。
「……あぁ。やってやるよ」
それから三時間。
俺は零のスパルタと、奏羽の(過剰なまでの)応援を受けながら、特進クラスの問題を解き続けた。
* * *
夜、十一時。
俺のマンションの部屋。
夕飯を済ませ、シャワーを浴びた後も、俺たちはリビングのテーブルで参考書を広げていた。
「毎日泊まる」と宣言した奏羽は、すっかり俺の部屋の主人のような顔で、俺の隣に座っている。
「……ふぅ。これで最後か」
「お疲れ様、湊くん。……ねえ、ちょっと休憩しない?」
奏羽が参考書を閉じ、俺の腕にギュッとしがみついてきた。
俺のパーカーの袖を、いつものように指先でぎゅっと握りしめる。
「……湊くん。わたしね、最近すごく幸せなの」
「勉強漬けなのにか?」
「うん。……だって、夜中に目が覚めても、隣の部屋(※リビング横の客間)に湊くんがいるってわかるから。……お母様との約束は厳しいけど、こうして湊くんと一緒にいられる時間が、今のわたしの『お守り』なの」
奏羽は俺の肩に顔を埋め、深呼吸をした。
甘い香りが、夜の静寂の中に溶けていく。
「……だから、湊くんも頑張りすぎないで。……もし、十位以内に入れなくても……」
「……?」
「わたし、お母様に逆らってでも、湊くんのところから離れないから。……無理やり海外に連れて行かれそうになったら、湊くん、わたしを攫ってくれる?」
「……奏羽」
俺は彼女の細い肩を抱き寄せた。
彼女は、俺にプレッシャーを与えないように、あえて「失敗してもいい」と言ってくれている。だが、その声は微かに震えていた。
彼女も、本当は怖くてたまらないのだ。
「……攫う必要なんてないさ。俺が勝って、堂々とここにいさせてやる。……お前の隣は、俺の特等席なんだから」
俺がそう告げると、奏羽は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
そして、不器用に、けれど力強く、俺の首に腕を回した。
「……バカ。……そういうこと言うの、反則だよ……」
彼女の熱い吐息が首筋にかかる。
押しに弱い俺にとって、この「甘すぎる攻勢」は、どんな難問よりも解くのが難しかった。
「……湊くん。……寝る前に、もう一回だけ……ご褒美、ちょうだい?」
彼女の唇が、至近距離で囁く。
深夜の二人きりの部屋。
学年十位という高い壁の向こう側にある、さらに甘くて深い「秘密の関係」へと、俺たちは一歩ずつ、確実に足を踏み入れていた。




