第150話:初夏の風と、終わらない特等席
修学旅行が明けた、翌週の月曜日。
初夏の爽やかな青空の下、俺と奏羽は並んで通学路を歩いていた。
「……湊くん、手、繋ご?」
「はいはい」
すっかり初夏の気候になり、マフラーも手袋もない。
だからこそ、直接触れ合う彼女の指先の温もりが、ダイレクトに俺の右手に伝わってくる。
校門をくぐると、すれ違う生徒たちが「あ、会長! おかえりなさい!」「修学旅行お疲れ様でした!」と笑顔で声をかけてくる。
奏羽はその一人一人に、凛とした、けれどどこか柔らかい笑顔を返していた。
「……なんか、本当に雰囲気が変わったよな、お前」
俺が横目で見て呟くと、奏羽は俺の腕にキュッとしがみつき、小悪魔のように微笑んだ。
「そう? 湊くんが毎日、いっぱい甘やかしてくれるからだよ」
「……はいはい、俺のせいですか」
* * *
放課後。
生徒会室での引き継ぎ作業を少し早めに切り上げた俺たちは、久しぶりに旧校舎の図書室へと足を運んだ。
ガラリと引き戸を開けると、西日が差し込む静まり返った空間が広がっていた。
本棚の隙間、埃の匂い、そして窓の外で揺れる青葉。
栞先輩が卒業し、俺たちが三年生になった今でも、あの奥の書架の死角は、変わらずそこに存在していた。
「……懐かしいね、湊くん」
奏羽が本棚の縁をそっと撫でながら、静かに呟いた。
「ああ。ここが、俺たちの始まりの場所だったな」
去年の春。
プレッシャーで夜も眠れず、目の下に隈を作って倒れかけていた「氷の生徒会長」。
そんな彼女を放っておけなくて、俺が宮沢賢治の童話を読み聞かせた、あの日。
「……あの時のわたし、本当にボロボロだったんだよ」
奏羽はトコトコと歩み寄り、俺の胸にコテンと頭を預けてきた。
「誰も信じられなくて、弱みも見せられなくて、ずっと一人で暗闇の中にいて……。でも、湊くんが隣に座って、その優しい声で本を読んでくれた時、世界が一気にあったかくなったの」
「俺はただ、本を読んだだけだよ」
「ううん。湊くんが、わたしの全部を受け止めてくれたの。……料理もできないポンコツなわたしも、雷が怖い泣き虫なわたしも、全部」
奏羽はゆっくりと顔を上げ、俺の首に両腕を回してきた。
夕日に照らされた彼女の黒髪が、黄金色に輝いている。
その瞳には、かつての孤独の影など微塵もなく、俺への溢れんばかりの愛しさだけが宿っていた。
「……湊くん。もうすぐ、生徒会の選挙があって、わたし、引退するよ」
「ああ」
「そしたら、わたし、もう『生徒会長』じゃなくなる」
「知ってるよ」
「……ただの、湊くんに甘えたいだけの、普通の凪瀬奏羽になるの」
奏羽は、少しだけ潤んだ瞳で、恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐに俺を見つめた。
「それでも……これからもずっと、わたしのお話、聞いてくれる? 毎晩、ぎゅーってして、トントンしてくれる?」
その問いかけに、俺の答えは最初から決まっていた。
「当たり前だろ」
俺は彼女の細い腰を抱き寄せ、力強く引き寄せた。
「お前が生徒会長だろうが、ただの女の子だろうが、関係ない。……俺の特等席はお前の隣だし、お前の帰る場所は、俺の腕の中だけだ」
「……湊くん」
言葉の代わりに、俺たちはゆっくりと唇を重ねた。
窓から吹き抜ける初夏の風が、二人の髪を優しく揺らす。
図書室の死角、夕日のオレンジ色に包まれたこの場所で交わすキスは、これまでのどんな甘い時間よりも深く、心に染み渡っていくようだった。
不眠症の少女と、平凡な図書委員。
小さな図書室の片隅から始まった二人の物語は、たくさんの試練と季節を越えて、誰にも引き裂けない永遠の絆へと結実した。
「……大好きだよ、湊くん」
「ああ。俺も愛してるよ、奏羽」
重なり合う鼓動と、解けることのない指先。
俺たちの愛しい日常は、これからもずっと、この終わらない特等席と共に続いていく。




