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第十話「不吉な影、宴席の凶夢」

第十話「不吉な影、宴席の凶夢」

蔣琬亡き後、費禕が蜀漢の最高指導者となって数年が過ぎた。延熙十四年(西暦251年)を過ぎる頃、彼の穏健で堅実なまつりごとは実を結び始め、国内は比較的平穏を取り戻し、戦乱で疲弊した国力も着実に回復の途上にあった。参軍としての馬謖も、その安定した政権下で地歩を固め、興勢の役での功績以来、費禕からの信頼は日増しに厚くなっていた。その分析力と献策は、国政運営に欠かせぬものとなりつつあった。一方、北伐の旗頭たらんとする姜維は、北方の守備と羌族対策で武功を挙げつつも、費禕の慎重な方針に、若き情熱を持て余す日々を送っていた。蜀は、静かな安定と、未来への胎動が交錯する、そんな時代を迎えていた。


しかし、馬謖の心の内に平穏は訪れなかった。彼を苛む不可解な「予知夢」は、依然として彼の意思とは無関係に訪れ、そして最近、その内容は明らかに不吉な色彩を帯び始めていた。特に、彼の恩人であり、蜀の柱石でもある費禕の身辺に、暗い影が忍び寄っていることを強く示唆する悪夢が、繰り返し彼の安眠を奪っていたのだ。

――絢爛豪華な宴席。居並ぶ臣僚たちの笑顔と喧騒。だがその底流に潜む、張り詰めた空気。きらめく酒杯。刹那、閃く銀色の光! 驚愕と苦痛に歪む費禕の顔。彼の胸元から、止めどなく溢れ出す鮮血…。崩れ落ちる巨体。響き渡る悲鳴と怒号。そして、混乱する人々の間から一瞬だけ見える、険しい目つきの見知らぬ男の顔…。

夢から覚めるたび、馬謖は冷や汗にまみれ、激しい動悸に襲われた。心臓を鷲掴みにされるような恐怖が、彼を支配した。


(費禕殿に危険が迫っている…! あの夢は、間違いなく凶兆だ…!)

彼は強い確信と共に、激しい焦燥感に駆られた。孔明の死の時、自分は何もできなかった。予知していたにも関わらず、ただ見ていることしかできなかったのだ。あの時の無力感、そして骨身に染みる自責の念。二度と同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。今度こそ、この忌まわしい力を使ってでも、恩人を守り抜かなければ!


彼は何度も費禕の執務室を訪れ、時に遠回しに、時には切迫した口調で、身辺への警戒を強く促した。

「費禕様、近頃どうも胸騒ぎがいたします。どうか、ご自身の身辺にはくれぐれもご注意くださいませ」

「宴席など、不特定多数の人間が集まる場では、警護を普段より手厚くされるべきかと愚考いたします」

「魏からの降将の中には、未だ本心を隠している者もいるやもしれませぬ。いかに忠誠を誓っていても、油断は禁物かと…」

しかし、費禕は馬謖の必死の訴えを、いつも困ったような、それでいて穏やかな笑みで受け止めるのだった。

「馬謖殿の忠誠心、実にありがたい。だが、そう神経質になっては身が持たぬぞ。心配は無用だ。私も護衛には気を配っているつもりだ。それに、降ってきた者たちも、皆、蜀に心を寄せていると信じている」

一度だけ、馬謖のあまりの剣幕に、費禕も「…分かった、馬謖殿がそこまで言うなら、少しだけ警護の人数を増やそう。それで安心かな?」と応じたこともあった。だが、それは根本的な警戒心の欠如を補うものではなく、費禕の温厚で人を疑うことを知らない生来の性格が変わることはなかった。馬謖の焦りは募るばかりだった。


彼は、もはや費禕自身の注意に頼ることはできないと判断し、参軍としての権限を最大限に使い、密かに費禕の身辺警護の実態や、特に魏からの降将たちの動向を洗い直した。関連する書類を読み漁り、信頼できる部下に情報収集を命じた。しかし、警護体制に明確な欠陥は見当たらず、降将たちにも不審な動きは報告されてこない。特に、夢で見た「見知らぬ男」に繋がるような手がかりは皆無だった。後に犯人となる郭脩かくしゅうについても調べたが、彼は他の降将たちと共に地道に務めを果たしており、特に疑わしい点は見つけられなかったのだ。

(私の見ているものは、やはりただの妄想なのか…? いや、しかし…)

彼は、見えない脅威への恐怖と、具体的な手がかりを掴めないもどかしさの間で、精神的に追い詰められていった。


そして、運命の日、延熙十六年(西暦253年)の正月がやってきた。新年を祝う盛大な宴会「歳首の会」が、成都の宮殿で催された。後主・劉禅を筆頭に、文武百官が一堂に会し、宮殿内は華やかな音楽と美酒佳肴の香りで満たされていた。馬謖もまた、参軍としてその場に列席していたが、彼の心は祝賀の雰囲気とは裏腹に、鉛のように重かった。あの悪夢の光景が、目の前の華やかな現実と不気味に重なり、彼の神経を苛んでいたのだ。彼は落ち着きなく周囲を見回し、特に魏からの降将たちの席に注意を払ったが、誰もが陽気に酒を酌み交わしており、怪しい者は見当たらない。上座では、費禕が劉禅や重臣たちと穏やかに談笑している。その屈託のない笑顔を見るたびに、馬謖の胸騒ぎは嵐のように激しさを増した。


宴もたけなわとなり、人々の顔が心地よい酒精で赤らみ始めた、まさにその時だった。一人の武将が、やや覚束ない足取りで、しかし確かな目的を持って費禕の座る上座へと近づいていった。魏からの降将、郭脩であった。彼は手に酒杯を持ち、何か祝いの言葉でも述べようとするかのように、費禕のすぐ傍まで歩み寄った。その場にいた誰もが、彼の酔態を微笑ましく、あるいは特に気にも留めず見ていた。馬謖だけが、全身の血が逆流するような激しい悪寒を感じ、思わず立ち上がりかけた――その刹那!


郭脩の表情が、一瞬にして酔っ払いのそれから、冷徹な刺客の顔へと変貌した。彼は懐から抜き放った鋭い短剣を、驚くべき速さで費禕の胸へと深々と突き立てた!

「ぐ…ぁっ…!?」

費禕は、信じられないものを見るかのように目を見開き、声にならない呻きを上げてその場に崩れ落ちた。鮮血が、彼の纏っていた豪華な礼服を、見る見るうちに赤黒く染め上げていく。

一瞬、時が止まったかのような静寂。そして次の瞬間、宮殿内は凄まじい悲鳴と怒号、そして混乱の坩堝と化した。

「費禕様!」「誰か! 誰か早く御典医を!」「刺客だ! 郭脩を捕えよーっ!」

衛兵たちが郭脩に殺到し、必死で取り押さえようとする。他の者たちは、目の前で起こった惨劇に言葉を失い、ただ立ち尽くすか、恐怖に駆られて逃げ惑う。


馬謖は、その全てを、まるで悪夢の再現を見るかのように、その場で凍りついて見ていた。煌めく杯、突然の刃の閃光、血に染まる恩人の姿、そして郭脩の――あの夢で何度も見た「見知らぬ男」の、憎悪に満ちた険しい顔!

(ああ…やはり…! 止められなかった…!)

予知は、寸分違わず現実となった。そして自分は、またしても、何もできなかった。警告したにも関わらず、恩人を、この国の柱を、守ることができなかったのだ。激しい自責の念が、彼の全身を雷のように打ちのめした。なぜだ! なぜいつもこうなるのだ! この忌まわしい力は、ただ悲劇を見せつけるだけで、何一つ救うことのできない、呪われたものでしかないというのか!

呆然とする彼の目に、衛兵に取り押さえられながらも、なお費禕を狂的な憎悪の目で睨みつける郭脩の姿が映った。その瞬間、馬謖の中で、自責の念は燃え上がるような激しい怒りへと転化した。

「郭脩…! きさまぁぁぁっ!」

我を忘れて叫びそうになる。だが、彼の声は、周囲の喧騒と悲鳴、そして絶望的な混乱の中に、虚しく吸い込まれていった。

蜀漢の柱石、費禕は、おびただしい血の海の中で、もはや虫の息だった。新年を祝うはずだった華やかな宴席は、一瞬にして、血塗られた修羅場へと変貌していた。

馬謖は、その惨劇の中心で、ただ打ちのめされ、立ち尽くすしかなかった。運命の非情さ、自身の無力さ、そしてこの呪わしい予知能力への、底なしの絶望感に、彼の魂は粉々に砕け散りそうになっていた。

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