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第九話「伯約(姜維)の情熱、幼常(馬謖)の憂鬱」

第九話「伯約(姜維)の情熱、幼常(馬謖)の憂鬱」

興勢の役での勝利がもたらした安堵は、しかし長くは続かなかった。延熙九年(西暦246年)、蜀漢を支えてきたもう一つの柱、大将軍・録尚書事であった蔣琬が病没。国政と軍事の全権は、彼の盟友であり、孔明、蔣琬からの信頼も厚かった費禕の双肩に託されることとなった。費禕は、先達たちの路線を堅実に継承し、国内の安定と国力の涵養を最優先とする方針を明確にした。それは、孔明亡き後の蜀を着実に支えるための、賢明な選択であった。


その費禕政権下で、馬謖は参軍として、徐々にその存在感を増していた。興勢の役での功績は、彼の評価を大きく変えた。かつて向けられたあからさまな敵意は影を潜め、代わりに、その卓越した分析力と的確な献策に対する敬意(あるいは、若干の畏敬)が、政権中枢に広まりつつあった。王平との間にも、戦場での共闘を経て、互いの立場を理解し合う空気が生まれていた。しかし、馬謖自身の心は、依然として晴れることはなかった。記録書記官時代に得た知識と経験は彼を確かに成長させたが、同時に、あの忌まわしい「予知」の力もまた、彼の内に潜み続けていたからだ。それをひた隠しにし、自身の能力として偽装し続けることの重圧は、常に彼の心を苛んでいた。


そんな中、蜀漢の軍事において、ひときわ強い輝きを放ち始めた若き将星がいた。姜維、字は伯約。涼州の風土が育んだ、類稀なる軍才と、燃えるような情熱を併せ持つ男。孔明に見出され、その遺志を継ぐことを自らの使命と信じる彼は、北伐こそが蜀漢の存在意義であり、丞相への最大の忠義であると固く信じていた。彼は北方の守備や羌族との連携において目覚ましい功績を挙げ、軍内での声望を高めていた。


そして今、姜維はその情熱を抑えきれずにいた。魏では興勢の役の敗北後、権力闘争が激化し、曹爽が失脚、司馬一族が実権を掌握しつつあるという。国内が不安定な今こそ、千載一遇の好機ではないか。彼は、費禕や馬謖に対し、熱心に北伐の即時実行を訴え続けていた。

「費禕様、馬謖殿! ご覧ください、この形勢を! 魏は内憂を抱え、動揺しております! 今こそ、丞相(孔明)が果たせなかった悲願を、我々の手で成し遂げる時です! なぜ、この好機を座して見過ごされるのですか!」

執務室で地図を指し示しながら力説する姜維の瞳は、若々しい理想と、勝利への渇望に燃えていた。


その真っ直ぐな情熱を、馬謖は眩しく感じずにはいられなかった。自分もかつては、これほど純粋に勝利を信じ、功名を夢見ていた時期があった。しかし、今の彼には、姜維の言葉を素直に受け入れることはできなかった。なぜなら、彼の脳裏には、姜維の勇猛果敢な進軍の先に待ち受けるであろう、暗く、不吉な未来の断片が、繰り返し映し出されていたからだ。――長く伸びきった兵站線が、白い雪原の中で敵襲を受け、炎上する光景。敵の巧妙な罠にかかり、孤立無援となり、悔し涙にくれる姜維の姿。そして、まだ見ぬ強敵、老獪な策謀の気配を漂わせる魏の将(鄧艾という名であろうか?)の、冷たい横顔。

予知は断片的で、いつ、どこで起こるのかまでは分からない。だが、姜維の言う積極策が、破滅的な結末を招く危険性を孕んでいることを、馬謖は確信に近い形で感じ取っていた。


「…姜維将軍、その熱意は理解できる。北伐は我ら蜀漢の宿願でもある。だが、」馬謖は、努めて冷静な声で、しかしきっぱりと反論した。「焦りは禁物だ。魏の混乱は表面的なものかもしれぬ。彼らの国力、動員力は、依然として我が国を遥かに上回る。思い出してほしい、丞相ご自身が、第四次北伐の際、鹵城で勝利を得ながらも、兵站の限界から撤退を余儀なくされたことを。その記録は、書庫に厳然と残っている。大規模な軍事行動を支えるだけの国力、とりわけ兵糧と輸送の備えが、今の我々に本当にあると断言できるか? 街亭での私の失敗も、元を辿れば兵站への配慮不足、そして功を焦る心にあった。同じ過ちを繰り返してはならぬ」

彼は、具体的な過去の事例と自身の反省を織り交ぜ、慎重論を説いた。もちろん、予知のことなど微塵も匂わせることはできない。


しかし、姜維は納得しなかった。彼の目には、馬謖の慎重さが、過去の失敗に囚われた臆病さと、あるいは覇気のなさのように映ったのかもしれない。

「馬謖殿! 貴殿はあまりにも理屈に走りすぎる! 記録や過去にばかり目を向けていては、未来は切り開けませぬぞ! 丞相の偉業は、時に常識を超える決断から生まれたはずだ! 街亭の失敗を恐れるあまり、好機までも見逃すおつもりか!」

二人の意見は、熱と冷静さ、理想と現実のように、どこまでも噛み合わなかった。


この両者の対立に、費禕は深く頭を悩ませていた。姜維の才能と意欲は高く買う。彼のような若き力が、今後の蜀を担っていくことも理解している。しかし、馬謖の指摘する国力と兵站の問題は、無視できない現実であった。そして何より、費禕自身、孔明や蔣琬と同様、今は焦らず力を蓄え、万全を期して事を起こすべきだと考えていた。

「…姜維将軍、君の北伐への思いは誰よりも強いと知っている。だが、馬謖参軍の言うことにも、また理があるのだ」費禕は、穏やかに、しかし指導者としての威厳をもって結論を述べた。「丞相(孔明)も、決して無謀な戦を好まれたわけではない。今はまだ、その時ではないのだ。当面、大規模な北伐は許可できぬ。国力の涵養を最優先とする。君には、引き続き北方の守備を固め、涼州の羌族との連携をさらに深めるという、重要な任務を任せる。力を蓄え、来るべき日に備えよ。それでよいな」

姜維は、唇を噛み、不満の色を隠そうともしなかったが、最高指導者である費禕の決定に、不承不承ながらも従うしかなかった。


軍議の後、自室に戻った馬謖は、重い溜息をついた。姜維のあの真っ直ぐな瞳を思い出すと、胸が痛んだ。自分も北伐を願っている。だが、あの予知夢が現実になるかもしれないと思うと、どうしても彼の背中を押すことはできないのだ。しかし、その真実を告げられぬもどかしさ。姜維との間にできてしまった見えない壁。それが、彼の心を憂鬱にさせた。孔明の遺志と、予知が示す(かもしれない)現実。その狭間で、彼は再び、誰にも理解されない孤独な葛藤を深めていた。


そんなある日のこと。姜維が北方の偵察任務から帰還し、費禕と馬謖に報告を行った。その内容は、魏の国境にある特定の砦で、最近兵士たちの規律が緩み、守りが手薄になっている兆候がある、というものだった。それを聞いた瞬間、馬謖は内心で息を呑んだ。数日前に彼が見た予知夢の断片――砦の櫓の上で兵士たちが酒盛りをしているような光景――と、あまりにも符合していたからだ。彼は自身の分析として、その砦への牽制攻撃の有効性を、既に費禕に進言していた。

費禕は、姜維の報告を聞くと、馬謖の方を見て軽く頷いた。「うむ、姜維将軍の報告は、馬謖参軍の分析とも一致するな。彼の読み通りであったようだ」

姜維は、驚いて馬謖を見た。

「馬謖殿が…これを? まるで、ご自身で見てきたかのようではありませんか…」

興勢の役の時もそうだった。この男の洞察力、あるいは「読み」は、常軌を逸している。姜維は、改めて馬謖の実力を認めざるを得なかった。しかし同時に、疑問も深まった。これほどの先見性を持つ男が、なぜあれほどまでに北伐に消極的なのか? まるで、何か別の理由があるかのように…。まさかとは思うが、この男は本当に…? 一瞬、ありえない疑念が姜維の脳裏をよぎったが、彼はすぐにそれを打ち消した。

馬謖は、姜維の視線を受け止めながら、努めて冷静に言った。「…日々の記録の分析と、過去の戦例から導き出した推測に過ぎませぬ」

二人の間には、互いの能力を認め合いながらも、決して交わることのない深い溝と、そして相手の真意を探り合うような、複雑で緊張をはらんだ空気が流れ始めていた。それは、今後の蜀漢の針路を巡る、新たな対立の始まりを予感させるものだった。

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