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第一話「街亭、断崖の上」

第一話「街亭、断崖の上」

建興六年、春。天を穿つかと思われた龍は、その最初の飛翔で地に墜ちようとしていた。丞相・諸葛亮孔明が心血を注いだ北伐の第一歩は、ここ街亭で、無惨な敗北という結末を迎えつつあったのだ。


「退け! 魏の騎兵だ!」

「水が…ああ、水さえあれば…!」

「おのれ、馬謖め…!」


降りしきる冷たい春雨は、兵士たちの怨嗟と絶望を洗い流すかのように、泥と血に染まった山肌を叩いていた。馬謖は、数人の供回りと共に、かつて自らが勝利を夢見て陣を敷いた山を、今は敗残兵として転がるように駆け下りていた。見下ろす谷間には、統制を失い潰走する味方の姿と、勝ち鬨を上げながら容赦なくそれを蹂躙する魏軍の黒い奔流が見える。指揮官は歴戦の猛将・張郃。その名を、そしてその用兵の恐ろしさを、自分はあまりにも侮っていた。


(なぜだ…なぜあのような愚かな真似を…!)

臓腑を抉られるような激しい後悔が、馬謖の思考を支配していた。丞相は、要路を押さえ、水源を確保し、堅実に戦うよう、あれほど念を押されたではないか。それなのに、自分は何を勘違いした? 「兵は死地に置いてこそ…」などと、戦場の現実を知らぬ青臭い兵法論に酔いしれ、水源を捨てて山上に孤立する道を選んだ。なんと浅はかで、なんと独善的な判断だったことか。


(才に溺れ、功を焦った…ただそれだけのことではないか…!)

自身の心の奥底にあった、どす黒い驕りと功名心が、今になってはっきりと見えた気がした。「王平殿の諫言は、まさに正論であったのに…」。実戦を知る者の重い言葉を、若輩の自分がなぜ退けることができたのか。ただ、己の非凡さを誇示したい、丞相の期待以上の功を立てたい、その一心で。その結果が、この惨状だ。丞相の、あの信頼に満ちた眼差しが脳裏に浮かび、馬謖は奥歯を強く噛み締めた。


「馬謖殿!」

泥濘の中で、鋭く名を呼ばれた。見れば、全身泥まみれながらも、その双眸にだけは鋭い光を宿した王平が、わずかな手勢と共に立っていた。彼の部隊は、馬謖の愚かな指示に半ば異を唱える形で麓近くに位置していたため、被害を最小限に食い止められたのだ。王平の目は、燃えるような怒りと、そして、どうしようもない失望の色を浮かべて、馬謖を射抜いていた。

「…貴様は、自分が何を為したか、分かっているのか」

吐き捨てるような低い声。それだけを残し、王平は馬謖に背を向けた。敗残兵をまとめ、この地獄から一人でも多く生還させるべく、彼は己の務めを果たそうとしている。その寡黙な背中が、何よりも痛烈に馬謖の罪を告発していた。


「将軍! 追手が!」

悲鳴に近い声が上がる。振り返るまでもない。魏軍の喊声が、雨音を切り裂いて背後から迫っていた。

「逃げろ! 漢中へ…漢中へ戻るのだ!」

かつての自信に満ちた声は、今は見る影もない。馬謖は、泥水に塗れながら、ただ必死に足を動かした。すぐ隣を走っていた兵士が、背後から飛んできた矢に貫かれ、短い呻きと共に前のめりに倒れる。降り注ぐ雨粒が、まるで無数の冷たい針のように肌を刺した。死の恐怖が、じわりと足元から這い上がってくる。

(死ぬ…? これが、私の結末か…?)

生きたい、という本能が叫ぶ。だが同時に、この罪と屈辱を背負って生き延びるくらいなら、いっそここで果てたい、という暗い衝動もまた、彼の心を蝕んでいた。


どれほどの時が過ぎたか。雨は依然として止む気配がない。気づけば、周囲の兵の姿はまばらになり、馬謖は数人の供と共に、霧が立ち込める断崖の縁に立っていた。背後の追撃の気配は、今は遠のいているようだ。極度の疲労と精神的な混乱で、方向感覚も時間感覚も麻痺していた。

その、刹那だった。

世界が、ぐにゃりと歪んだ気がした。激しい雨音の奥で、キィン、と甲高い金属音が響く。目の前の灰色の断崖が、一瞬、燃えるような赤黒い色に見えた。そして、どこからともなく、か細い、しかし無数の悲鳴のような声が聞こえてくる。空を見上げれば、厚い雨雲の向こうに、巨大な赤い星が禍々しく瞬いているような…そんな錯覚に襲われた。

「――ッ!」

息を呑み、馬謖は思わずその場にうずくまった。全身の血が逆流するような、言いようのない悪寒が背筋を走る。幻覚だ、疲労が見せる幻に違いない。そう自分に言い聞かせようとしても、脳裏に焼き付いた光景は、あまりにも鮮烈で、不吉だった。

「将軍、いかがなされました!」

供の者に揺り起こされ、馬謖ははっと顔を上げた。目の前には、変わらず雨に煙る断崖があるだけだ。幻覚も幻聴も、もうない。だが、あの異様な感覚の残滓は、彼の心に深く、暗い影を落としていた。

(今の…は…?)

答えの出ない問いが、疲弊した頭の中でぐるぐると回る。


やがて、彼らは味方の後続部隊に収容され、漢中への撤退の途についた。命は、かろうじて繋がった。しかし、馬謖の心は、冷たい雨に打たれ続ける荒野のように、荒涼としていた。漢中に戻れば、何が待つ? 厳しい裁きは免れまい。だが、それ以上に、先ほど垣間見た不可解な光景が、彼の胸に重くのしかかっていた。

降り続く雨の中、彼はただ、深い絶望と、新たに芽生えた不可解な恐怖を抱きしめながら、運命の待つ場所へと、重い足を引きずっていくしかなかった。真の試練は、この先に待っている。彼自身、まだそれを知る由もなかった。

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