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第二話「丞相の涙、刑場の予言」

第二話「丞相の涙、刑場の予言」

漢中の丞相府は、敗戦という名の重い空気に支配されていた。街亭から命からがら逃げ帰った兵たちの顔には、拭い去れぬ疲労と恐怖、そして責任者への静かな怒りが刻まれている。北伐の輝かしい夢は、緒戦にして砕け散った。その全ての原因を作った男、馬謖が、泥と垢にまみれた罪人として、ついに諸葛亮孔明の前に引き据えられた。


力なく床に額をつけ、小刻みに震えるその背中に、周囲を取り囲む諸将の冷徹な視線が突き刺さる。

「丞相! 馬謖の罪状は明白! 軍律に基づき、即刻、厳罰に処すべきかと!」

「兵卒たちの無念を晴らすためにも、この者を許してはなりませぬ!」

「丞相のご命令に背き、国家の大事を誤った罪、万死に値します!」

弾劾の声が、静まり返った府内に厳しく響く。特に王平の声は、個人的な憤りも加わり、ひときわ鋭利な響きを帯びていた。


玉座に座す孔明は、固く目を閉じていた。誰も見ていないと信じて、彼はそっと袖で目頭を押さえた。白い頬を、一筋の熱いものが伝うのを止められなかった。脳裏をよぎるのは、白帝城での先帝・劉備の遺言。「馬謖は言過其実、重用すべからず…」。なぜ、あの時、もっと深くその意味を考えなかったのか。いや、分かっていながら、この才気煥発な若者に未来を託したいという、自身の願望が勝ってしまったのか。己の不明、そして愛弟子にも似た存在への断ち切れぬ情。だが、それら全てを押し殺し、今、彼は非情な決断を下さねばならない。地に堕ちた軍律の威信を取り戻し、街亭の露と消えた数多の将兵の魂に報いるために。


「丞相、お待ちくださいませ!」

蔣琬が、そして費禕が進み出て、必死に声を上げた。

「馬謖の罪は許されるものではありませぬ。しかし、彼ほどの英才を失うは、蜀の未来にとってあまりにも大きな損失…。どうか、今一度、更生の道を…」

だが、彼らの懸命な訴えも、憤激する諸将の声の前にはかき消されそうだった。孔明は、ゆっくりと目を開いた。潤んだ瞳の奥には、深い悲しみと、しかしそれを振り払うかのような、鋼の決意が宿っていた。彼は、絞り出すような声で、しかしはっきりと命じた。

「…馬謖を、引き立てよ」


その一言は、死刑宣告に他ならなかった。馬謖の身体が、絶望に打ちのめされたように大きく揺れた。兵士たちに無造作に両腕を掴まれ、引きずられるようにして府内の中庭へと連行される。そこには既に、筵が敷かれ、抜き身の剣を手にした屈強な執行官が、冷たい表情で彼を待っていた。

(…終わるのか。これで…なにもかも…)

馬謖は、力なく灰色の空を見上げた。街亭の断崖で見た、あの不可解で不吉な光景の残滓が、まるで死の予告のように脳裏をちらつく。あれは一体、何だったのだろうか。結局、何も分からぬまま、この世を去るのか。処刑への恐怖。わずかに残る生への執着。そして、全てを台無しにした自分自身への、底なしの嫌悪感。様々な感情が濁流のように渦巻き、彼の意識は急速に白濁し始めていた。


執行官が、陽光を鈍く反射する剣を、ゆっくりと振り上げた。陽炎のように揺らめく刃先が、死の確かな訪れを告げている。馬謖は、最後の抵抗のように、固く目を閉じた。万事休す。その、永遠とも思える一瞬――。


「――五丈原に、星墜つッ!!」


突如、馬謖が、耳をつんざくような甲高い声で叫んだ。それは彼の声ではなかった。まるで身体の奥底から、別の何かが迸り出たかのような、異様な響きを持っていた。彼の目は虚ろに宙を見つめ、焦点が合っていない。身体は小刻みに痙攣している。

「丞相! 赤い崖…、あの崖には…決して近づかれてはなりませぬぞ! 道が…ああ、道が断たれる…!」

周囲の者たちは、その異様な光景に息を呑んだ。何事かと訝しむ者、気味悪さに顔をしかめる者。「ついに狂ったか」「見苦しい悪あがきを」と嘲る声も上がる。王平は、苦虫を噛み潰したような顔で、忌々しげに馬謖を睨みつけていた。

だが、憑かれたような馬謖の口は止まらない。普段の彼からは想像もつかない、狂的な熱を帯びた声で、さらに言葉を紡ぎ出す。

「都に…黒い影…! 司馬…、そうだ、司馬…! 玉座に涙…龍が…龍がなく…ううっ…!!」

その言葉は、支離滅裂でありながら、妙に具体的な単語を含んでいた。「五丈原」「赤い崖」「司馬」「玉座」。そして何より、聞く者の背筋を凍らせるような切迫感と、不吉な予感に満ち溢れていた。


執行官が、一瞬ためらいながらも、再び剣を振り下ろそうとした、その時である。

「――待てっ!!」

雷鳴のような、鋭い声が轟いた。諸葛亮孔明であった。彼はいつの間にか中庭に降り立ち、蒼白な顔で、しかし燃えるような眼差しで馬謖を凝視していた。その額には、玉のような汗が浮かんでいる。馬謖の口走った言葉、特に「五丈原」「司馬」といった単語が、彼の胸を激しく打ったのだ。それは、彼が夜ごと観測する天文の動き、研究する易卦の凶兆、あるいは遠く魏から届く間諜の断片的な報告と、偶然では片付けられない、奇妙な符合を見せていたのかもしれない。これは単なる狂人の戯言ではない。何か、計り知れない、無視することのできない「何か」が、この男を通じて告げられているのではないか? 孔明の第六感が、強く警鐘を鳴らしていた。

「その処刑、暫し待て」孔明は、周囲のざわめきを睥睨するように制し、威厳を込めて続けた。「馬謖は錯乱しているやもしれぬ。だが、その言葉…いや、その状態そのものが尋常ではない。詳しく調べる必要がある」

「丞相、しかし…!」「妖言に惑わされてはなりませぬぞ!」反論しようとする諸将を、孔明は厳しい視線で黙らせた。

「これは命令である! 馬謖を牢に繋ぎ、厳重に監視せよ! 何人たりとも、許可なく近づくことは許さぬ!」

その有無を言わせぬ気迫に、執行官も、諸将も、押し黙るしかなかった。

馬謖は、自分が何を叫んだのかも、なぜ処刑が中断されたのかも、もはや朦朧とした意識の中では理解できなかった。ただ、再び兵士たちに両腕を取られ、今度は牢へと引き立てられていく。遠のいていく意識の片隅で、孔明の険しい、しかしどこか探るような眼差しを感じた気がした。

孔明は、馬謖が連れ去られた後も、しばらくその場に立ち尽くし、重く垂れ込めた曇天を仰いでいた。彼の胸中では、軍律と人情という葛藤に加え、新たに「未知なる凶兆」への警戒と、あるいはそこに潜む万に一つの「天機」への探求心とが、複雑な綾を織りなし始めていた。運命の歯車は、確かにこの瞬間、予期せぬ方向へと、軋みを上げて大きく回転し始めたのである。

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