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城下町幽玄クラブ  作者: 長谷川 幸信
2/3

探索

 姫宮神社は、光一達の高校から東へ、長いだらだら坂を車で三・四分ほど下って行った処にあった。そこは完全に町外れで、広々とした田園地帯の始まりになっていた。

 右側にある小山の裾に沿って曲がりくねった道路が遠くまで続き、藪の中に見え隠れしている。道路の左側には、遙かに緑の田圃が広がっていた。そしてその緑の山の中に、小さな神社が埋もれるようにしてあった。

 あの後一旦家に戻り、夕方の八時に迎えに来た玲子先生の車に乗り込んで、三人は今、姫宮神社の鳥居の前に立っていた。夜の神社や真っ暗な森の雰囲気に慣れておきたいというのが玲子先生の希望なので、ことさら深夜でなくてもいいだろうと言うことになった。

 南の空の高いところには、黄金色の月が煌々と輝き、西の空にはまだ少し光を残した深い群青色の空が、厚いビロードのように広がっている。だが地上には、既にはっきりとした闇が流れていた。

 植えられてから(およ)そ二ヶ月半ほど経っている筈の田圃の苗が、黄金色の月明かりにふさふさと揺れ、暗い緑の絨毯(じゅうたん)のように広がっている。そして蒸し暑い夜気の中に、青い草いきれを放っていた。

 日が落ちても気温はあまり下がらず、まだ二四・五度はあるのだろう。冷房の効いた車から降りると、すぐに蒸れた空気が体中を包んだ。

 いい月夜だ。絶好の夜日和である。それは光一の大好きなお膳立てになっていた。

 陽子は例によって玲子先生と腕を絡ませ、ぴったりとくっつき、さらに左手で光一のシャツの背中を掴んで、引っ張るようにしてぶら下がっている。光一がそれを嫌い、身をよじって振り解こうとするが、離すものではない。

「こら、うるさいよ。離せ」

「やだ、怖いもん」

 しょうがないヤツだ。このようなところには、夜になれば人など絶対に来ないだろう。例え昼間でも祭礼の時でもない限りは、わざわざお参りに訪れる人も少ない筈だ。その昔にはそれなりに栄華の場所だったのかもしれないが、なんとも寂しい場所にあるものだ。

 賑やかなのは蛙の鳴き声ばかりだ。どんなに広々とした場所であっても、その全てが闇に包まれたとたんに、その空間は無に変わる。広さに意味は無くなる。そして視覚が途絶えると、聴覚ばかりが鋭くなってくる。それが闇の世界だ。

 無数にいるであろう蛙の鳴き声が、大きなうねりのようになって聞こえていた。喧しいという事では昼間のセミの声と同じだが、夜の静寂をかき混ぜる蛙の声には、また違った(おもむき)がある。

 そしてその中に、時折、ボー ボーッと、ひときわ低く、殊更大きな鳴き声が響き渡る。牛蛙だ。なんて不気味な声なんだろう。陽子はそのたびごとに、光一の背中を強く引っ張る。陽子の胸の震えが伝わってくる。

 神社への参道は両側を背の高い杉の木立に囲まれて、小さな山の上に向かって続いていた。入り口には立派な石造りの鳥居が構えている。暮谷沢の社と同じように、左右を狛犬が守り、鳥居の真下に立ってその奥を見上げると、自然石の石段がずっと続いているのが見える。

 目を凝らすと、石段を昇った少し先が、段差になっているらしいのが分かる。たぶん途中で踊り場のようになっているのだろう。そしてその先にも更に石段が続いているようだが、ここからは暗すぎてよく見えない。

 参道の入り口から始まっている杉木立は、ずらりと並木を成していて、それは山の上まで切れ間無く続いているようだ。二人とも心の準備はできただろうか。

「さぁ、先生。行きますよ」

 今夜の主導権は光一にある。

「はい、行きましょう。陽子、ちょっと離れなさい。肝試しにならないでしょう?」

「あーん、先生までそんなこと言ってるぅ。怖いよう。光一くーん」

 玲子先生に見放されて、陽子は今度は光一のシャッの背中に両手でしがみついてきた。

「はい、二人とも昨日の事を思いだして、深呼吸をして下さい。さぁ、胸いっぱいに吸ってぇー・・・ はい。ゆっくり、吐いてぇ・・・」

 陽子を前に押し出しながら、やり方を指図する。二人は言われた通りに繰り返している。

「はい、もう一回。吸ってぇー・・・ ゆっくり、吐いてぇ・・・ もしも途中で不安な気持ちになったら、時々それをやって下さい」

「初めから不安な人はどうすればいいの?」

 この子は本気なのか冗談なのか・・・

「お前ねー 置いてくぞ」

 陽子は先生から渋々離れた後も、光一の背中だけは離さない。光一はもう相手にしなかった。

 深呼吸をする事によって、森の精気が体内に深く取り込まれる。それで気持ちが安定するのだが、この二人はまだそこまでは気づいていないのだろう。もっとも、馴れないとその取り込み方がうまくいかないのだ。それは口で言っても分からないだろう。それでも、なにもしないでいるよりは随分落ち着くはずだ。

 石段を上がる。一段一段ゆっくりと、踏みしめながら上っていく。スニーカーを履いていても、自然石を踏む感触は足に伝わってくる。とても気持ちのいいものだ。古い石段からも、古の霊気が伝わって来るような気がする。

 杉の木の間を縫って、頭上から急角度に差し込んでくる月の光が、上り坂になっているずっと前方の石段や、太い杉の木肌の所々を照らしている。ずいぶんと年期の入った杉並木だ。幹全体がごわごわとしていて、触ると手が痛いようだ。厚い木の皮が剥けかかっているような感じにめくれていて、縦に深い溝が入っている。その暗い茶色の木肌が月明かりに浮かび上がり、とても重厚な年月を思わせていた。

 その立ち並ぶ杉並木が、参道の両側からたっぷりと、豊かな精気を放射している。とても心地良い。石段を上がって踊り場まで来ると、更にこの石段の先にも、もうひとつ踊り場があるように見える。石の階段は、大きく三段に分けて作られていた。それは結構急勾配な石段で、当然社も高い処にあった。

「先生、ここはずいぶん古い神社なんですねぇ。とてもいい感じです。この森全体の雰囲気もいいですけど、特にこの沢山の太い杉の木がいいですね。古い分だけ、たっぷりと精気が流れ出ています。とても重厚な感じのする精気です」

「ふー はぁー ふぅー・・・」

「先生? どうしたの? ねぇ・・・ 変なことしないでよぉ。やだよぉ」

 陽子は左手で光一の背中をしっかりと掴んだまま、右手で玲子先生の肩を揺すっている。まったく、この二人は本当の姉妹のようだ。

 参道の杉木立が左右からせめぎあい、周りは暗い。お互いの顔もぼんやりとしか見えないくらいだ。それでも昨日の暮谷沢と比べたら、葉の隙間を縫って差し込む月の光が、場所によっては随分明るく照らしているところもある。ここは暗闇ばかりではなかった。

「大丈夫よ。深呼吸でしょう。それに、さっきから空気がとっても美味しいの。森林浴の効果かなぁ? きっと、オゾンがたっぷりなのね」

 その通りだ。そしてそのまま心を無心にできれば、もっと大きな効果が出る筈なのだ。この先生ならすぐにそうなれるような気がした。

 社の境内は広い石畳になっていた。背の高い石灯籠が左右に二基ずつ並び、その横の方には不揃いの石碑が幾つか立っている。どれもこれも古そうだ。

 光一は前に進み、ポケットから百円玉を取り出すと、賽銭箱に静かに落とした。カタン、コトンと、乾いた木の音がした。太い綱を揺らして鈴を鳴らす。礼をして、手を合わせ、打った。

 ガラン、ガランと、鈴が大きな音を出したとき、後ろの二人はさも不安そうに周りをキョロキョロ見回していた。陽子は光一のシャッを、ぐいぐいと引っ張っている。

 暗い境内に響く鈴の音は、とても異質な音として闇を攪拌(かくはん)した。こうするのは昼間なら当たり前で何でもないことなのに、暗闇の中にあっては、普通の人には恐怖を誘う行為なのだろう。まずこのようなことに馴れる必要がある。お参りをするのに、夜も昼もない筈だ。玲子先生は光一の脇で、陽子は相変わらず光一の背中から、ちょっとだけ顔を出すみたいにして、お印のように軽く手を打ち合掌していた。

 さっきから何十もの鳥の気配を感じていた。木の高いところで眠りについているのだろう。 それだけだった。邪気は感じない。とても清々しい社だ。光一は元々このようなものには興味は無かったのだが、折角だし、その由緒を訊いてみたくなった。そう思って先生の方を向いた時。

「このお社? この辺りにはね、その昔は為氏さんと三千代姫のお屋敷があったのよ。え? ・・・ なに? 今訊いたわよね? 光一君。えぇ? あれぇ?・・・ 何これ?」

「凄いですよ先生。もうコツを掴んでいる。今僕は心で思っただけです。このお社の由緒はって。でも一言も言葉にはしなかった。なのに先生は僕の心を読みとった。僕の気を受け止めたんです。驚いたなぁ、大したものですよ」

 このような能力は誰にでもあると思ってはいたものの、それでもそう簡単ではないだろうという気持ちもあった。それがいとも簡単に、玲子先生がやってみせたことに、本当に驚いていた。そしてまた、玲子先生のような人に自分と同じような能力があると思うと、光一は嬉しくなってしまった。

「なぁにぃ? 何よぉ? 二人で何の話ししてるの? ねぇねぇ、先生、光一君も。私も仲間なんだからね、ちゃんと仲間に入れてよぉ。私だけ仲間外れは嫌だよぉ」

「玲子先生は今、僕が放った気を捕まえたんだよ。僕が心で思ったことを感じたんだ。それも確実にね。すごい進歩だよ。だって、昨日の今日だもの。きっと、積極的なのがいいんだね。陽子も頑張れよ。幽玄クラブの主力メンバーなんだろう? もっとも、そんなにびくびくしてちゃ、絶対無理だけどな」

「すごーい。ありがとう、光一君。うれしーい。そうか、こういうことなんだぁ・・・ よし、なんだか分かってきたような気がする。陽子、貴方も頑張るのよ。いいわね」

「あぁーん、私には何が何だか分からないよぉ。先生、後でちゃんと教えてよねぇ。頼むからさぁ」

 たぶん合掌して気持ちが集中した瞬間だけ、雑念と恐怖心が消えたのだろう。もちろん、この森の発する豊かな精気の助けが一番の要因であった事も間違いないだろう。

 先生の話によると、今から五百六十年ほど前の大昔、この辺りにこの和田村一帯を治めていた豪族、須田美濃守秀一と言う武将の館があって、当時鎌倉からこの地を統治するために下向してきた二階堂為氏は、家臣共々(しばら)くその館に身を寄せていたという。

 為氏には総勢四百余名の共と侍がいたというから、大きな館だったのだろう。そして城に立て籠もるようにして、一向にその城を明け渡す気配のなかった代官が、和睦の証として、自分の娘である三千代姫を為氏に嫁がせ、三年後には城を明け渡すという約定を取り交わした。

 そしてその約束の日が来るまでの間、為氏公と三千代姫は、その美濃守の館で仲睦まじく日々を送っていたという。

 婚姻当時、二階堂為氏十五才。三千代姫は十三才。まるで絵に描いたような、花のような二人だったそうだ。

 しかしその後、約束の三年が経過しても、三千代姫の父親である代官、治部大輔は一向に城を明け渡す気配を見せず、業を煮やした家臣達が無理矢理姫を離縁させ、送り返す道中のあの暮谷沢で、悲劇が起きたという訳だ。

 成る程。ようやくストーリーが飲み込めた。

その後、自害して果てた三千代姫の亡霊が夜毎に為氏公の夢枕に立つので、その霊を慰める為に建てられたのがこの姫宮神社だ。

「先生、大乗院さんは? あの人は何処に登場してくるんですか? 陽子は最後の城主とか言ってましたけど」

「彼女はそれから更に、百五十年ぐらい後の人なのよ。だから三千代姫とは特別な関係はないの。大乗院様は第十八代目城主、二階堂盛義さんの奥方様で、伊達家から嫁いできた人なの。これは伊達政宗の叔母にあたる人で、この人が活躍した頃の時代背景は、時の政権が織田信長から豊臣秀吉に移って間もなくの頃ね。その後運悪く、旦那様の盛義さんが亡くなってしまって、その後を奥方である大乗院様が継いだっていう訳なんだけど、戦国の世で女の城主というのはとても珍しかった筈よね。でも結局は、近い血縁者である筈の、甥っ子の政宗に滅ぼされてしまうことになるのよ。戦国の世って、私達が考える以上に非情な時代だったのね。この町に今も伝わる松明(たいまつ)あかしの行事は、この二階堂家最後の時から始まったのよ」

「あ、そうなんだぁ。松明あかしって、そんな時から。毎年見てるのに、そんなことも知りませんでした。へー そうだったんだぁ。んーと、そうすると・・・ 少なくとも四百年以上も続いているって事になるんですね? へー 凄いなぁ」

「ね? 玲子先生といると勉強になるでしょう? 光一君もうちのクラブに入らない? ん?」

 陽子は光一の後ろから背伸びして、肩越しに覗き込むようにして言っている。無論左手はまだ光一の背中をしっかりと掴んでいる。

「いいよ、僕は。コンピュータークラブで頑張っているんだから。パソコンが好きなんだよ」

 きっぱりと言っておかないと、また二人にいいようにされてしまいそうだった。でも今夜の、この姫宮神社には来て良かったと思っている。今までの光一の闇歩きは、子供の頃から馴れ親しんだ家の裏にある森の中だけだったし、別段他の場所に行ってみたいとも思わなかった。しかし今、半ば無理矢理のようにでも二人にここに連れて来られて、場所によって森の気配が違う事を知った。そして、たぶんそれは、姫宮神社が三千代姫の廟所(びょうしょ)の森であるために、夜気の中に古からの霊気が混じっているせいかもしれないと思った。

 その後暫くの間姫宮神社の境内で話をして、夜の肝試しは一通り終了とし、戻ることにした。陽子は兎も角として、玲子先生は森の気配を感じる糸口を見つけられたのかもしれない。

 来たときと同じく自然石の石段を降りる。一段、二段、三段。何気なく数えながら、ゆっくり降りて行く。上から初めの踊り場までの石段は十五段。そして二メートル幅程の石畳の踊り場がある。

 それからまた、一段、二段・・・ 次の段も十五段。同じだった。後は最後の石段。この石段を下れば石の鳥居があり、その両側には大きな石の狛犬が待っている。

 そして、一歩足を踏み出した。その時。思わず立ち止まった。気を感じた。とても強い気だ。背中に感じる。またしても突然の気だ。光一のすぐ右側には、ここへ来たときと同じように、陽子が光一のシャッの背中を左手で掴んで並んでいる。そしてその陽子の隣には玲子先生が、陽子と腕を組んで寄り添っていた。

 気はずっと後ろから来ている。振り向かなくてもはっきりと分かる。

 鳥居が見えない。暗闇とはいえ、ここは昨日の暮谷沢とは違って真っ暗闇ではない。杉の梢のあたりからは明るい月光が届いている。足下の石段もちゃんと見えていた。両側の杉の大木がその殆どを遮ってはいるが、なにも見えないという程ではない。

 さっき昇ってきた時のことを思い出してみる。いま目の前にある最後の石段の長さも、いま下りてきた石段とそう変わりはなかった筈だ。ならばすぐそこに、大きな石の鳥居がある筈なのに、目の前数メートルから先が真っ暗闇となり、それより先の風景は深くその闇の中に消えていた。

 そこには黒々と闇が溜まっていた。

 おかしい。

 進んでいなかった。

 ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには社があった。

 三人はまだ境内の一番上に立っていた。これではいくら下って行っても、十五段の石段を永久に降り続けることになる。そして、一歩たりとも前には進めない。

 なんということだ。二人もおかしいと思ったのだろう。光一と一緒に後ろを振り向いて、そのとたんに陽子の身体が震え始めた。驚き過ぎて声も出せなかったようだ。二人して光一の背後に回り、両側からその腕にしがみついていた。

「何? これはなんなの、光一君。どういうこと?」

 玲子先生の声も震えていた。

「やだよー・・・ なんでよー なんでここにいるのぉ? ちびっちゃうよぉー」

 陽子は可愛い顔をして、時々下品な言葉を口にする。二人とも光一の耳元に口をつけて、震える声で囁くように言っていた。

 玲子先生も完全に飲まれてしまっていた。気は社の中から放たれている。射すような強い気だ。瞬間的に、これは霊気だと思った。

 周りの大木からの精気とか、その他の小動物の気配とは明らかに違っている。この森に入ってからというもの、光一自身が森の芳醇(ほうじゅん)な精気をたっぷりと吸い込んでいるので、敏感に感じ取れるようになっている。

 何だろう。心が躍る。わくわくしている。とても嬉しい気分だった。両側の二人がこんなに怯えているのに、変なヤツだと自分で思う。何かが現れる筈だ。

 同じ霊気でも、少なくともあの女の気とは全く違う。そのこともすぐに分かっていた。それに不思議なことに、さっきこの気を浴びた瞬間から、光一の心はとても和んでいた。傍らの二人は、ただ恐怖におののいているというのに。しかしその和みの陰から、張りつめた鋭い気が同時に放たれていることにも気づいていた。

 この穏やかさは何だろう。この嬉しさは何だろう。例えて言えば、ずっと以前の子供の頃、いつも一緒に遊んでいた仲良し達が、たまたま皆それぞれに都合があって光一が一人寂しく森の中で遊んでいたときの事。後ろからそっと近づいて来て両手で目隠しをした子がいた。その時はとっても驚いたけれど、凄く嬉しかった。今はそんな気分だった。

 その目隠しをした子というのは、実はいま後ろで震えている陽子だったのだけれど。そういうことって、いつまでも忘れないものだ。でもきっと、陽子はとっくに忘れていることだろうと思う。

「大丈夫です。とても強い気だけど、悪意は全く無いようです」

 まずい。二人の恐怖心が光一の無心をうち消している。二人の怯えという負の気持ちが、腕を伝ってじわじわと光一に流れ込んでいた。

 光一の両腕にしがみつく二人の手を丁寧に解き、それぞれの肩を強く抱く。恐怖心は瞬間的に吸い取ってしまえばいい。昨日の暮谷沢の時のように、二人の二の腕あたりを鷲掴みにして、ぐっと力を入れて抱き寄せた。スーッと、二人の恐怖心が光一の身体に流れ込んでくる。身体の芯がヒャリとした。

「さぁ昨日と同じです。目を閉じて。しっかり閉じて。深呼吸をして下さい。何も考えないで、心を無に出来ればいいんだけど」

「無理だよー こんな時に何も考えるななんて言ったってぇー 怖いよー 光一くーん」

 消え入るような、震える声で言っている。

「そうだ。昼間だと思えばいい。先生も陽子もしっかりと目を閉じて。そして今は昼間だと思って下さい。今この周りは、ピカピカの明るい太陽がいっぱい照らしている。そう思って下さい。そしてその事だけを考えていて下さい。いいですね」

「ええ、分かったわ。やってみる。陽子、しっかりして。大事な時よ」

「はい・・・ 怖いよー」

 無理かもしれない。と、思った時。出た。スッと、出てきた。流石の光一も、ドキッとした。あまりにも近かったからだ。

 すぐ目の前の賽銭箱の前に、片膝をついた格好で、背筋をしゃんと伸ばした侍が鋭いまなざしでこちらを睨んでいた。二メートルも離れていない。腰には大小を差している。そして左手は、その大刀の(つば)の辺りを掴んでいた。まさか、鯉口を切っているのではあるまいか。光一は目を見張り、生唾をごくんと飲んだ。

 侍はきれいに月代を剃って(まげ)を結い、時代劇そっくりだった。だがそれは役者ではない。本物の侍だ。流石に心臓がドキドキしてきた。でも胸はわくわくしている。変な気分だった。

 そしてそのすぐ後ろ。社の縁の上には、こちらは雛祭りのお姫様のような衣装を着た女性が、着物の裾を両側に流して、すっくと立っている。さっき感じた穏やかな優しい気は、この女性が発していたのだ。そして鋭く刺すような気は、言うまでもなく目の前の侍から出ていた。二人の気が混じり合っていたのだ。

 二人のいるあたりには、月の光は届いてはいない。社の(ひさし)も深く被っているし、とても暗い。なのに、不思議なことに、二人の姿は隅々まではっきりと見えている。

 侍は眼光鋭く眉間に皺を寄せ、横真一文字の細い目が、光一をきつく睨みつけていた。角張った顔をしている。

 幾つくらいだろう。四十才くらいか。あるいはもっと上かもしれない。その気はとても鋭く揺るぎがない。戦士の気だ。だが攻撃の気配ではない。これは威嚇の気だ。さっき背中に鋭く感じたのは、この侍が威嚇していたのだ。何かあれば、今にも腰の刀を抜きそうな気配だ。真っ二つにされてしまう。それでドキッとしたのだ。だが先程から邪気は伝わってこなかった。

 お姫様の方は少し痩せ形の様に見えるのだが、地の厚そうな着物を重ね着しているのでよくは分からない。白い襟の上に、幾重にも綺麗な色模様の小袖の襟が重なって見えている。腰のあたりには(きら)びやかな織りの打掛けを巻いていた。暑くないんだろうか。若い。眉が無く、その代わりその上のあたりに、黒い点が二つ並んで付いている。これは高貴な女性の印なんだろう。三千代姫に違いないと思った。

 顎が細く、頬の膨らみが優しそうだ。目が輝いている。綺麗な人だ。この女性からは、とても柔らかく穏やかな気が、切れ間無く放たれていた。紅色の唇が少し微笑んでいるように見える。

 そして、侍が口を開いた。

「これより、姫様よりお話を(たまわ)る。ご無礼の無きよう、謹んで承れ」

 大きな声で、一言一句を切るように、怒鳴るように言っている。何だか怒っているような言い方だ。ずいぶん凄みのあるがらがら声だ。それこそ時代劇のようだった。先生と陽子が両側からギュッと、きつく身体を寄せてきた。お姫様が口を開く。

「これ、藤内。そなたはまたそのように言う。今の世は、そのような時代ではありませぬ。分かっておろうに。そなたは黙って控えておりなされ」

 リズムに乗るような、軽く淀みのない話し方だった。

「ハハッ」

 藤内と呼ばれた侍は、身体を半身だけお姫様の方に向けて、地べたに拳をつき、深々と頭を下げていた。しかしすぐにまた、光一達を睨み付けていた。

「すまぬ。無骨者です。そなたたちを驚ろかせたこと、許して下され」

 お姫様はとてもにこやかに、楽しそうに話している。姿に似合った、とても澄んだ声だった。

 先生と陽子は顔を半分ずつ光一の胸に埋めるようにして、盛んに深呼吸を繰り返している。吸うときはともかく、ゆっくり吐くときの音がかなり震えている。小さく吐きながら、泣くような声が漏れていた。陽子の身体の小刻みな震えが、光一の胸に伝わってくる。

「いいえ、お気遣いは結構です。それよりも、もしかして貴方は・・・ 三千代姫様? でしょうか?」

 突然、雷のような声が飛んだ。

「無礼者。誰が直答を許した。勝手に口などきくでない。下がれぃ」

 鼓膜が痛くなるような凄い声だった。侍が大刀を握った左手にぐっと力を込めて押し出してきた。鬼のような顔で睨んでいる。すぐ目の前にいるだけに、大変な迫力だ。これには心臓がドキンと鳴った。

 玲子先生と陽子も同時にピクリと身体を引きつらせ、ヒャァっと、小さな叫び声をあげていた。それくらい大きな声だった。おまけに分厚い唇をへの字に曲げて、凄い形相なのだ。どうも、お姫様と口を利いたのがまずかったらしい。驚いてしまった。

「これ、藤内」

 こんどは姫の顔つきもキッとなり、ちょっと強い口調だった。

「ハッ、ですが姫様」

「そなたは何度教えたら分かるのですか。最早時代が違うのです。それに今は、この御仁の合力が是非にも必要なのですよ。下がっておりなされ」

「ハッ・・・ ですが」

「お下がりなさい」

 キッとした目で侍を見据えたまま、でも最後は優しい声で言っていた。

「ハッ」

 侍は光一の顔を一瞬きつく睨みつけたかと思ったら、スッと消えた。凄いものだ。まるで夢中の出来事だ。

 光一は初めてジェットコースターに乗った時のように、心がわくわくドキドキして、冷や汗をかいていた。

「光一君、見てもいい?」

 玲子先生が光一の胸に顔を埋めたまま、消え入るような声で言った。今さっき思い切り驚いて、開き直ったのかもしれない。侍も消えた事だし。気の強い人だ。

「そっと、静かに、堂々として下さい。決して動揺しないことです」

 光一が小さく囁いた。陽子の方は、さっきからプルプルと、小刻みに震えたままだ。身体がふらふらして、膝が笑っているみたいだ。時折陽子の身体が下へ落ちそうになるのを、片手でぐっと持ち上げてやる。

「ほほ・・・ お察しの通り、三千代です。ほほほ・・・」

 口調が変わった。先程よりも益々にこやかな顔になり、楽しそうに見える。

「今の者は私の従者で、岩桐藤内左右衛門と言う者です。いつまで経っても窮屈な考えで困ってしまいます。さぁ邪魔者は消えました。私も、この世ではこの世に合った話し方で話します。あなた方も、どうぞ楽にしなされ」

 にっこりと笑っている。その笑顔で緊張が解けた。

「先程、僕の合力をとおっしゃっていましたが、どういう事なのでしょうか?」

「はい、そのことです。それであなた方をお引き留めしたのです。実は、今この城下に悪鬼が入り込んでいます。あなた方も既にご存じの筈です。初めのうちは大したものではないと思い、放っておいたのです。ところが次々と獣の霊を取り込んでは、大きく悪くなっていくばかりなのです。私達も迂闊(うかつ)でした。このまま捨ておくと、いつか市井の者が犠牲になりかねなくなってきたのです。それで早々に退治しておく必要があるのです。しかしそれについては、私達黄泉の国の者だけの力ではどうにもなりません。是非とも現世の人間の助けが必要なのです。そこで是非貴方に、合力をお願いしたいのです」

「悪鬼? 昨日と今日と、僕達が出会ったあの女性は悪鬼なのですか?」

「そうです。あの者は魔物です。貴方もうすうす気づいていた筈です。あれはまともな人の霊ではありません。彷徨(さまよ)える亡者がたくさんの獣達の霊を取り込んだ姿なのです。暮谷沢には人ばかりではなく、数多の獣達が無縁仏として葬られています。あの中の、死してから五十年を経たない無縁仏達は、未だ完全には成仏出来ないでいるのです。その中の一人で、心に多くの迷いを残すおなごの霊が、沢山の獣の霊を取り込んだ姿。それがあの悪霊なのです。そして今、更に城下の獣の生き血を吸い取り、なおも大きく、凶暴に変化しています。これを退治します。手伝って下され」

 突然の話に驚いてしまう。

「そんなこと、僕にできるのでしょうか? いったいどうすればよいのでしょう?」

「そなた・・・ いぇ、貴方にしかできません。まずは長禄寺(ちょうろくじ)の大乗院殿に逢って下され。大乗院殿は全て承知しております。事は急を要します。明日、既に明日でなければ間に合わないのです。明日の夜、逢えるようにしておきます。頼まれてくれますね? いいえ、是非にもやってもらわねばなりません」

「承知しました。明日の夜。必ず」

 優しい顔で、それに必死な様子で頼まれて、思わず承知してしまった。光一の返事に、三千代姫はにっこりと微笑んでいる。綺麗なお姫様だ。

「藤内」

「ハッ、これに」

 一瞬にして現れた。これにはびっくりする。今度はこちらに背を向け、姫の方を向いて片膝をついていた。

「今宵そなた達に逢えた事、嬉しく思います。今の事、しかと頼みましたぞ」

 優しく笑ってそう言うと、二人ともスッと消えた。今まで薄明るく見えていた二人のいた場所が、二人が消えた瞬間にぐんと暗さを増した。そこには闇の社殿があるだけだった。

「すごい。すごいよ、光一君。なんて事でしょう? すごい、すごい」

 玲子先生は目に月の光を映しながら、盛んに光一の身体をぐらぐら揺さぶり、凄いを連発していた。

「せんせー すごかったねぇ。死ぬほど怖かったけどぉ、でも・・・ あぁ、夢みたい。キツネにでも化かされてるみたいな気分って、こんな気分の事なのかなぁ。あぁ、でも怖かったよぉ」

 陽子が光一の腕に自分の腕を絡めたまま、先生と抱き合うみたいにしたので、三人で抱き合っているみたいな格好になってしまった。嬉しいような、恥ずかしいような気分だ。

「陽子、お前も見てたの? へー よく見られたもんだなぁ。ずっと、ガタガタ震えていたくせに」

「もぉー すぐそんな意地悪言うんだから。だって凄く怖かったんだからね。気が遠くなりそうだったんだから。だってだって、あの藤内さん、なによ。あんなにでっかい声で怒鳴らなくたっていいじゃない、ねぇ。失礼しちゃうわ。心臓が止まっちゃったかと思ったわよ。でも、ちゃーんと見ましたよーだ。横目でちらっとだけどね。でも見ちゃったもん。三千代姫はイメージ通りのお姫様だったよね。やっぱり綺麗な人だったわ。それにしても凄いことだよねー こんな事がほんとにあるなんて。あぁ・・・ まだ信じられないよー 何だかこれって、SFの世界みたいだよねぇ。ねぇ、光一君。光一君はどうしてこんな事ができるの? ねぇ? 今までは本当にこういうことは無かったの? こういうのは昨日からが初めてだって言ってたけど、ほんと?」

「ほんとだよ。僕も驚いているんだ。それに、これは僕がやってるんじゃないよ。向こうが見せているんだ。例えば僕が一方的に、会いたい、見たいと思ったところで、無理だと思うよ。全部相手が仕掛けているんだ。それより先生、暮谷沢の一番左の端にある無縁仏ですが、脇に十方観世菩薩とか、無縁一切の供養塔っていう石碑が建っていましたけど、あれはどんな意味なんですか?」

「さっきの三千代姫の話ね? 十方とか無縁一切のというのは・・・ そうね、全てのという意味かしらね。臨終に臨んで、縁者が無かった生き物全てのものを、無縁仏として奉ってあると言う意味ね。つまり、それは人だけじゃなくて、例えば犬とかネコとか、もしかしたら馬とか、とにかく何でもよ」

「何でも一緒くたですか? だからだ。三千代姫の話しによると、無縁仏の中の、まだ成仏出来ないでいる人間の亡者があの女性で、それが同じ墓の下に眠っている獣の霊を取り込んで操っているんだ。いや、もしかしたら、今では操るつもりが、逆に獣達に操られているのかもしれない。あのおどおどとした目の動きは、人のものでは無かった。今から思えばそんな気がします。先生、さっき三千代姫は、悪霊が城下の獣の生き血を吸っているとか言ってましたよね。どういう意味なんでしょうね? 城下の獣って、何のことでしょう?」

「えぇ、そう言ってたわね。私もさっきから気になってるの。何の事かしらね? 生き血。何だか恐ろしい響きね。まぁ、ともかく今日の処は帰りましょう。明日ね? 明日になればまた、新しい事が分かりそうよね。よし、明日は長禄寺ね」

「え? まさか? 玲子先生は明日は駄目ですよ。明日は僕一人だけで行って来ます。後で必ず報告しますから。明日は駄目です。危険です。いいですね?」

「足手まといだって言うのね? ・・・ そうよね。いいわ、分かった。残念だけど、しょうがないわ。陽子と二人で、お寺の外で車に乗って待っているわ」

 玲子先生が一緒に行くような顔をしたとき、陽子は大きく目を見開いて、とても何か言いたそうな様子だったが、待っていると聞いたとたんに、その顔がほっとした色に変わった。でもこの人が、本当に素直に待っているだろうか。あんまりすんなりと引き下がったので、光一は却って心配になった。

 一歩、また一歩、石段を降りていく。初めの段は十五段。さっきと同じだ。次が二十一段。こんどはちゃんと前に進んでいるようだ。そして石の鳥居が見えてきて、最後の石段は二十五段あったのだが、二人は分かっていたのだろうか。

 梅雨明け宣言が出されたのは一昨日だったが、ここのところ十日くらい前から、とても暑い日が続いていた。月は益々明るさを増して来ているようだが、見上げると、その月の周りがぼんやりと霞んでいるように見える。空中に蒸気が溜まっているのだろう。

 狛犬が守る石の鳥居を抜けると、広い田圃からの熱気が熱い風に乗って一気に押し寄せてきた。草いきれの青い臭いが、ムワッと胸をつく。行儀良く植えられている暗い田圃の苗の間に、満月が映っている。天空に輝く月の姿が、薄く張られた水に映って、あちこちで旗のように揺れていた。明日は日曜日。そして次の日の月曜日に登校すると、火曜日からは夏休みに入る。高校生になって始めての夏休みだ。


「昨日三千代姫の言っていた言葉の意味、分かったわよ」

 日曜日の午後。陽子と二人で玲子先生の部屋の前に並ぶと、先生はドァを開けるなり言っていた。

「十日くらい前から町のあちこちで犬やネコが死んでいるんだって。このアパートの大家さんはこのすぐ隣の家に住んでるんだけどね、その大家さんとこの犬もやられたって言ってたわ」

「やられたって言うのは? 殺されたってことですか?」

「そうよ。始めはあんまりあちこちで犬や猫が死ぬので、誰かが悪戯で毒殺してるのかもしれないっていう話しになって、保健所で胃の内容物などを調べてもらったんだって。でも死んだ犬やネコを何匹調べても、毒物は検出されなかったそうよ」

「ふーん。死因は何なんですか? みんな同じなんですか? 分かったんですか?」

「分かったそうよ・・・ 死因はみんな同じで、失血死だって」

「失血死ぃ? やだー 気味が悪いよー 吸血鬼の仕業みたい。先生、それが昨日三千代姫が言ってた、あの悪霊の仕業ってことなの?」

「どうやら、そういう事らしいわね。何匹調べても外傷は何処にもなくて、血液だけが無くなっていたんですって。それで今町中の動物愛好家達が戦々恐々としているそうよ。もしこれが毒殺なら警察も調べるらしいけど、原因不明となると、なかなか警察までは動かないらしいわ。なにしろ、死んでいるのは犬猫だけだからねぇ」

「悪霊が城下の獣の生き血を吸っている。もし、町中の獣の血を吸い尽くしたら、その後は・・・」

 光一が深刻そうに言った。

「えー やだよそれ、光一君。やめてよ。もうこれ以上、怖い話は嫌だよぉ」

「そうよ、光一君。三千代姫はその事を心配しているのよ。それだから大至急、あの悪霊を退治しようって言ってるのね。それにしても素敵だわぁー ねぇ、君達もそう思わない? かつて自分の治めていたこの町を心配して、遙か五百六十年の時を越えて、町を救う為に私達の前に姿を現したのよ。なんてロマンチックなんでしょう。ねぇ、陽子」

 玲子先生は目を輝かせて、ひとり感激している。その先生に水を向けられ、陽子は言葉もなく、ただ小さく頷いていた。幽玄クラブに籍を置けば、大好きな玲子先生と一緒にいられるからそれはいいのだろうが、怖い事は嫌いなのだ。

「結局、暮谷沢の女性は三千代姫でも大乗院さんでもなく、なにやら恐ろしげな、悪霊だったという訳ですね」

「そういう事だわね。それと三千代姫は、大乗院殿も承知しているって言ってたわ。二人の間には百五十年の時の隔たりがあるはずなのに、あの世では時間は関係ないのかしらね。同じくこの町を治めた者同士、ちゃんと連絡がついているのね。益々素敵だわ」

「でも先生、これはとっても怖い話よ。京子ちゃんとこの健一君も、もしかしたらもう少しのところで、生き血を吸われてしまうところだったのかもしれないのよ。危なかったわねぇ。とんでもない大事件になるところだったのね」

「もしそんなことになっていたら、今頃町中がひっくり返るような大騒ぎよね。それにしても、三千代姫が光一君にしか出来ないことだっていうのは何なのかしらね? 光一君に何をやらせるつもりなのかしら? たぶん光一君の、その不思議な気の力のことだとは思うんだけど、まだよく分からない事ばかりだし、私心配なの。光一君ひとり大乗院様の前に出していいのかしらねぇ? 私考えたんだけど、例えば別な人とか、誰か頼りになりそうな大人の男性に、加勢してもらうっていうのはどうかしらね? それなら私にも二三人心当たりがあるし、どうかしら?」

「うんうん、私もそれがいいと思う。光一君一人で夜のお墓に行くなんて、おっかないよぉ。ね? そうでしょう? 光一君、そうしようよ」

 陽子は光一に顔を寄せて、不安そうに言っていた。

「それは駄目です。僕にも未だに、何故こんな具合になっているのかはよく分からないんですが、もしそうしたら、大乗院様には会えないと思います。やはり僕じゃないと駄目なんです。そんな気がするんです。大丈夫ですよ。今夜長禄寺に行く事自体は、何の危険もありません。そのことは、はっきり大丈夫だと分かっています。このことは不思議なんですが、夕べからそう感じているんです。それよりも、次にあの女の人の霊と対峙したときにどうなるのか、それはその時になってみなければ分かりませんが、心配といえば、大乗院様よりも、むしろそっちの方です」

「そう。そうよねぇ。なにしろ相手は、どちらもこの世の人じゃないんだものねぇ。いくら力自慢の男性がいたとしても、おそらく何の役にも立たないんでしょうね?」

「うーん、そうかもしれないよね。それにしても、三千代姫は思っていた通り、とっても綺麗で優しそうなお姫様だったわ。でもあの側用人さん。なによ、あの人ったら。あんなにでっかい声で怒鳴るんだもの。怖かったよねぇ。ほんとに失礼しちゃうわ。えっと、岩桐藤内左右衛門さんだったっけ? 昔の人って、どうしてこんなに長ったらしい名前を付けるんだろうね。とっても覚えにくいわ。もっとも、あんまり覚えたくもない名前だけどね」

 陽子は変なところで憤慨していた。よほど藤内さんが怖かったんだろう。光一も怖かった。

「先生。長禄寺に行く前に、もう少し大乗院様の事を教えておいて欲しいんですが、この人はどんな性格の人だったんでしょうか?」

「うん、そうね。いいわ、聞いて。この女は伊達家から二階堂家に嫁いできた人で、伊達政宗の叔母さんに当たる人だって事は、前に話したわよね。そして夫の盛義さんの死後、家督を継いで城主に納まったこともね。つまりその事だけをみても、ずいぶんと気丈夫な女よね。それは完全な男社会の、戦国時代の事なのよ。当時の武家社会での女性の地位なんて、無いも同然だった筈よ。精々政略結婚の道具とか、戦の後の、和睦の人質くらいの価値しかなかった時代なの」

「ひどい時代よねぇ。失礼しちゃうわ」

 陽子が合いの手を入れる。

「この人は女丈夫の上に、とても善政を引いた人らしくてね、政宗との決戦が避けられないと分かった時も、町中で力を合わせて頑張るから、政宗には絶対に降伏しないで欲しいと、大乗院への激励と嘆願の意を込めて、町中の有志が、手に手に松明を持って五老山に集結したのよ」

「なるほど。そして、それが松明あかしの始まりになったんですね」

「そう言う事よ。でも結局は政宗の謀略にはまってしまったのよ。腹心だと思っていた家老の一人、守谷筑後守が政宗に寝返ってしまってね、戦が始まった時に、彼が町に火を付けてしまったの。それが原因で囲みが破られてしまい、負けてしまったのよ。その後大乗院様は、もう一人の甥にあたる常陸の武将、佐竹氏を頼って暫くの間を過ごし、再興を夢見たんだけど、その後、佐竹氏自身が秋田に移封されてしまって、結局夢は叶わなかったのね。それで佐竹氏移封の時にも、一緒に秋田について行こうとしたんだけど、その途中で健康を害してしまったらしいの。それで大乗院様は秋田行きを断念して、その旅の途中、再びこの町に留まる事になったんだけど、その後は亡くなるまで、ひっそりと余生を送ったということよ。そういう訳だから、この町に対する思い入れは人一倍強かった筈ね。それからはずっと今現在まで、菩提寺である長禄寺の真ん中に、数人の家臣達と共に静かに眠っているわ。考えてみたら凄いことよねぇ。光一君は今夜、その大乗院様と会うのよ。あぁ・・・ 私も会いたいなぁ・・・」

 先生は、さも恨めしそうな目で光一を見ながら言っている。

「だめだめ、先生。帰って来れなくなっちゃうよぉ。嫌だよう、そんなの」

 陽子は玲子先生の身体に取りすがって、本気な顔で言っていた。放っておくと、この先生なら無理にでも会いに行き兼ねないと思っているのだろう。光一もそう思っていた。

「私ね、今のうちに、あの暮谷沢の無縁仏の過去帳を調べてみようと思うの。うまくいけば、あの暮谷沢の女性の正体が分かるかもしれないわ」

「えー ? そんなことが分かるのぉ? 過去帳って何? 先生」

「過去帳っていうのはね、仏様の生前の事を書き留めてあるノートよ。あの山の上の妙見神社には、お墓はないから過去帳もないだろうけど、暮谷沢の方の分はあると思うのよ。でも無縁仏というのは、過去が分からないから無縁仏になった訳だからねぇ・・・ でも、お墓を守っていた人が途中から途絶えてしまった為という事もあるし・・・ まぁ、何も分からず終いになるかもしれないけど、でも亡くなった時の様子とか、何処から来たとか、何かしら分かる可能性はあると思うの。駄目で元々よ。あそこは、あの谷の上にある妙見神社の管轄だから、すぐそこよ。これから三人で行ってみない?」

 玲子先生のアパートは、町の谷底を流れる川を挟んで、その向こうに見えている五老山とほぼ同じ位の高さにある。言わば山の崖っぷちのような所にあるのだが、周りには同じようなアパートとか沢山の家が、軒を連ねていた。

 その下に続く山肌は綺麗に手入れがされていて、点在する木々の緑や花壇などが、ずっと裾の方まで覆っている。崖のような感じはしない。

 妙見山は、今向こうに見えている五老山の、すぐ右隣の小高い山だ。その上に神社がある。山と言ってもちょっとした丘のようなもので、それ程高いものではない。

 その五老山と妙見山の間にある、切り立った細長い谷間が暮谷沢だ。包丁で深く切れ目を入れたような谷だ。

 ここから眺めてみると、もしかしたらこの二つの山は、元々ひとつだったのかもしれないと思う。そんな感じで、せめぎ合うようにして並んでいる。

 ここからなら、妙見山までは歩いても十五分もかからないだろう。わざわざ車で行く程ではない。とても景色の良い場所でもあるし、三人でゆっくりと、散歩がてら歩くことにした。

 エアコンの効いた部屋を出ると、すぐにムッとした生ぬるい空気が襟首に絡みつく。朝の天気予報では、十日くらい前から連続真夏日を更新していると言っていた。今も気温は間違いなく三十度を超えていると思う。連日猛暑を経験しているせいか、体感温度も正確になっている。とても蒸れる。

 アパートを出ると、道は急な下り坂になって続いていて、ずっと下手の道の底に、川の対岸の石組みが見えた。

 この坂道の両側にも桜の古木がずらりと立ち並び、そして川に架かる小さな石橋を越えると、また川向こうの坂道を駆け上がるように、並木は順序よく列を成していた。

 見上げると、幾重にも重なり合う木の葉の隙間から、眩しい陽の光がまるでレンズで焦点を合わせたみたいに顔に射す。思わず額に皺を寄せ、目が糸のように細くなる。とても強烈な夏の日射しだ。

 十重二十重と、無数に重なり合う木の葉の影が、白いアスファルトに黒い切り絵のように張り付いていて、微かな風にうごめいている。その黒影から外れた不規則な斑の白い面が、とても眩しく光を反射して、白と黒、光と影、その極端な明暗が、歩くごとに不安定な坂道に錯綜する。それは幻想的な感じさえしてくる。

 夏の日の午後。そして相変わらずのセミの声が、耳鳴りのように暑い空間を占めていた。

 橋を渡る。小さな川だ。両岸はしっかりとした石組みで造られていて、川というより大きめの堀のような感じがする。水の流れはとても穏やかで、殆ど止まっているようにも思えるくらいだ。

 川の上にはそれを覆い尽くすように、桜の枝が左右からこんもりと溢れていて、その隙間から覗く僅かな水色の空が、鏡のような水面に映っている。その空の上をカルガモの親子連れが、V字型の波紋を作りながらゆっくりと流れて行く。

 橋を渡って右へ、川に沿って進む。少し行くと左側の草むらの奥に、暮谷沢へ続く道路が見えてきた。妙見山へ行くにはそちらへは曲がらずに、そのまま真っ直ぐ進めば良い。すると左側はもう妙見山だ。山沿いの道はその土手の下の方だけ、綺麗に下草が刈られていた。

 三人並んで歩く。頭より少し高いあたりの土手からは、もうもうと生えている細い雑木の先端が、狭い道路の中程まで大きくしなだれている。それはずらりと向こうまで、緑の日傘が差し延べられているようだ。その葉陰が嬉しい。

「先生。過去帳っていうのは、そんなに大昔からのものが残っているんですか?」

「うーん、そうねぇ。この辺のお寺の場合も、明治維新のすぐ後に出された神仏分離令で、その宗旨を始めとして、あり方が大きく改められた処が多い筈だし、途中で戦争とかもあった訳だから、どさくさで紛失してしまったものも多いんでしょうねぇ。でも神社は大丈夫だった筈よ。燃えていない限りはね。この町には大きな戦火は無かったって聞いているわ。それに今回の場合は、今から五十年以内の物をあたればいい訳だから、たぶん残っているような気がするの。ほら、言ってたでしょう、三千代姫が。死してから五十年を経たない無縁仏って。あの意味はきっと、自殺とか殺されたりして、非業の過去を持つ霊が成仏できるまでには、五十年の時が必要だということなのよ。仏教ではそういうことになってるの。だからあの女性の霊も、まだ不安定で完全には成仏出来ないでいるんだと思うわ。と、言うことは、あの女性の霊も、迷える獣達の霊も、今から最大で五十年以内のものだということになる筈よ。そうでしょう?」

「すごーい。さすがは玲子先生ねぇ。素晴らしい推理だわ。そっかぁ。成る程、成る程。三千代姫の話をただ聞いていた訳じゃないんですねぇ。私なんて怖くて怖くて、話なんか半分も聞いてなかったもの。ほんとにさすがだわぁー 尊敬しちゃう」

 陽子はしきりに感心していた。

「ということは・・・ まず、今から五十年前っていうのは、いつ頃の事なんでしょう?」

「貴方達が来る前に調べておいたわ。逆算すると、昭和三十二年頃が今から五十年前に当たるの。西暦で言うと、千九百五十七年頃ね。だからその辺からこっちを調べればいいって訳よ」

「へぇー すごーい。益々すごいよ、玲子先生。何だか探偵ごっこみたい。面白くなってきたね、光一君」

 陽子は目を輝かせて嬉しがっていた。いざとなると真っ先に震え出すくせに、何が探偵ごっこかと、光一は内心では呆れていたが、陽子が弾んだ声で嬉しそうにしている様子は、とても可愛かった。

「あぁ、そう言えば、僕の父の生まれた年が昭和三十三年です。ふうーん、おおよそ父さんが生まれた頃かぁ」

「うん、そうね。五十年って言うと半世紀だからね、感覚的にはずいぶん昔のような感じに思えるけど、そんな風に考えるとそれ程でもないのよね。そうなのよ。あの迷える女性は、私達の親達と大して変わらない年代の人なのかもしれないわね」

 妙見山は岩山だ。今は緑の葉っぱや下草が、その山肌の殆どの部分を覆い尽くしていて、本来むき出しになっている筈の岩肌は所々にしか見えていないが、冬になって草やツルの葉が全部枯れて落ちると、濃いベージュ色をした切り立った岩壁が、ゴツゴツと急角度でそびえていることがよく分かる。妙見神社はその上にあった。

 見上げると、その頂上には太くて枝振りのいい松の木とか桜の古木が、しのぎを削るように何本も生えているのが見える。あんな大木ばかりが、よくも倒れもせずに立っているものだ。いったいこの岩山の何処にどんな風に根を張っているのか、なんとも不思議な光景だ。

 そして見上げるその山の上の方からも、辺り一面に降るようなセミの声だ。暑い夏が始まっていた。

 地面から上まで岩肌が剥き出しになっている場所があった。その岩を直に削って造られた階段を昇る。脇の岩壁に手をついて、掴まりながら昇らないと危ない。荒削りでとても急な石段だ。それでも途中に一カ所、鍵の手に折れている処があって、急勾配を多少なりとも緩和してくれているようだ。

 しかしその一段落した場所からが、また特別な急勾配になっていて、岩壁に太いチェーンが張り渡してあった。岩肌の所々を穿って留められているチェーンは大きく弓なりにたわんでいて、錆びついてはいるが手すりの代わりらしい。チャラチャラさせながら、三人並んで昇る。

 石段の途中から見上げる崖の右上に、これもまた石造りの、天馬の像が立っていた。高い崖の上から遠く下界を見下ろすように、そして今にも中空に飛び出しそうな、大きな羽を持った石像だった。

 山そのものはそれ程高い訳ではないのだが、参道の石段が急なため、両手両足を使ってよじ登るようにして上がっていく。

 息が切れる。頂上はほぼ平らになっていて、数本の太い松の木の奥に社殿があった。そして、そこから少し離れた右奥に民家が一軒建っている。神主の住まいらしい。

「ハァー ハァー・・・ 疲れたよー すごい急な階段だよねぇ・・・ こんなところがあったんだねぇ。ハァー・・・ 知らなかったなぁ。近くに住んでいても、知らないことってたくさんあるのねぇ。ハァー もっとも、普段は用がないものねぇ、こういう処は・・・ フゥー もう駄目」

「ふぅー・・・ そうね。ふぅ、ふぅ。私は前に何度か来てるけど、この石段は何回登ってもきついわねぇ・・・ ハァー 着いたぁ」

 頂上に着いてから暫くの間、三人してしゃがみ込んでいた。酷い汗だ。

 玲子先生が鈴を鳴らし、三人並んで礼をする。手を打ち、また礼をする。この頃では神社の参拝の仕方をすっかり覚えてしまった。神主の家に行き、声をかける。はい、と言う声がして、迎えてくれたのは、あのおばあさんだった。

「こんにちはおばあちゃん。また来たわ。しばらくでした」

 玲子先生は顔馴染みらしい。

「あらまぁ、先生。いらっしゃい。ほんとにしばらくだわねぇ。まぁまぁ、石段から来たのかい? ほほほ・・・ 元気だねぇ、若い人は。そんなに汗びっしょりになって。ほほほ、嬉しいよ。さぁ、お上がり」

 おばあちゃんは三人の汗びっしょりの顔を見ると、呆れたような顔で、でもとても嬉しそうに笑っていた。

「ほんとはね、暮谷沢を抜けた先に細い路地があってね、そこから入れば殆ど平らな道を歩いてここまで来られるんだけどね、でもこっち側からそこを通ろうとすると、たぶん四・五百メートルくらい遠回りになっちゃうのよ。だからこっちから昇ったの。それに、こっちの石段が正式な参道だものね? おばぁちゃん」

「うんうん、そうだよ。でも私なんか一番最後にあの石段を昇ったのは・・・はて、いつだったっけかなぁ? もう何十年も前の話で、忘れちまったよ。ほほほ・・・ はい、そっちのお二人さんもよく来たね。いらっしゃい」

 いつも学校帰りの暮谷沢で、神妙な顔でロウソクに火を灯し、ブツブツ念仏を唱えている姿しか見たことがなかったが、今目の前にいるおばぁちゃんは、とても明るく温厚そうな人だった。陽子とふたり挨拶をして、座敷に上げてもらった。

「おばあちゃん今日はね、ちょっと調べたい事があって、過去帳を見せてもらいにきたの。暮谷沢の無縁仏のものなんだけど、見せて頂けるかしら?」

 穏やかに、にこやかに笑っていたおばぁちやんの顔が、とても驚いたような顔色に変わった。

「暮谷沢? まさか・・・ 先生、暮谷沢の無縁仏ってまさか、あの翔子ちゃんのことじゃ・・・ あら? ごめんなさい。私ったら勝手に決めてかかって。そんな筈ないわよねぇ。ほほほ・・・ ごめんなさいね。年寄りはしょうがないねぇ、すぐに思い込んじゃって。いいですよ。先生のお役に立つのなら、どうぞ見ていって下さい」

 おばあちゃんはすぐに元の笑顔に戻っていた。

「おばあちゃん、翔子ちゃんって? 翔子ちゃんって誰? ねぇ、お願いします。何でも話して下さい。その人は暮谷沢に関係のある人なのね? 暮谷沢のことで、何か心当たりがあるんでしょう? ねぇ、おばあちゃん。お願いします。昔のことから近頃の事まで、暮谷沢に関することなら何でも詳しく知りたいの。特にあそこに縁のある女性のことについて知りたいんです。教えて下さい」

 玲子先生にも、ピンとくるものがあったみたいだ。

或いは、三千代姫がそのように仕組んでくれたのかもしれない。

「やっぱりそうなのかい? 不思議な事だねぇ・・・ でもどうして? そうかい。実はこの頃の事なんだけどね、毎夜のように夢枕に立つんだよ。あの翔子ちゃんがね」

 この妙見神社の神主はこのおばあちゃんのご亭主なのだが、今は他出していた。そもそもおばあちゃんは、昭和二十六年の春、十五才の時にここへ嫁いできたという。昔の人はずいぶん早く結婚したらしい。今の光一達よりも若い頃に嫁いできたことになる。

 それは第二次世界大戦が終わってから六年後の事であり、世の中は大分落ち着いてきたとはいえ、まだ政情が不安定な時だった。人々の暮らしもまだ満足ではなく、地方などでは仕事も少なかった。誰もが食うや食わずの中で、細々とした生活が続いていた時代だった。

「あれは昭和三十二年の春の事だったわ。私がここに嫁に来てから六年目の春だった」

 おばあちゃんが話し始めたとたんに三十二年と言ったので、三人ともどきりとして顔を見合わせていた。

「春と言ったって三月の頃だったから、まだずいぶんと寒い時分だったのよ。あの日は確か、朝から雪が降っていたんだ。もう三月も中頃になっていたというのにね。思えば、昔は今よりもずっと雪が多かったわよねぇ。あの日の朝、こんこんと降りしきる雪の中を、旅の途中だという母娘の二人連れが訪ねて来たんだよ。娘の具合が良くないのでちょっと休ませて欲しいといってね。二人でひとつの唐傘をさして、支え合うように、よろけるようにして来たものさ。娘さんはどうも風邪を引いているらしかった。布団を敷いてやって、頭を冷やして休ませてやったんだけどね。母親は、あの時は訊きもしなかったんだけど・・・ そうだねぇ、三十五・六才くらいだったかなぁ。まだ若い人だったよ。セツさんって名乗っていた。あの時の事は今でもよく覚えているよ。その風邪を引いて弱っていた娘が翔子ちゃんだよ。二人ともよく似ていた。親子なら当たり前かもしれないけど、とても器量良しの親子でね、あの時翔子ちゃんは二十才になったばかりだと言っていた。そのときの私より一つ年下でね、とても肌の白い綺麗な人だったんだよ。二人とも長旅をしてきたせいか、とても疲れている様子だったけど、髷を島田に結って絣の着物を着ていたっけ。こうして思い出すと、懐かしいもんだわねぇ。あの頃はまだ、日頃から日本式の服装をしていた人はいくらでもいたんだよ」 おばあちゃんはとても遠い目をして、懐かしそうに想い出話をしてくれた。

 玲子先生も、どうやら過去帳など調べなくても、今おばあちゃんが話している中の人物こそが、目指す相手らしいと分かってきたので、真剣な目つきで話しに聞き入っていた。

「ねぇ、おばあちゃん。それで、その親子はどこから来たの? そして何処へ行くって言ってたか覚えていない?」

 先生は身を乗り出すようにして訊いていた。

おばあちゃんの話しによると、母親のセツさんにはご亭主がいて、親子三人東京の浅草あたりで暮らしていたらしい。ところがそのご亭主が病気で亡くなり途方にくれた母娘は、これから仙台の親戚を頼って行く途中だと言っていた。宇都宮までは汽車で来たのだが、途中で旅費が底をつき、その後寒空の下、あちこちの軒先を借りながら、なんとかここまで辿り着いたとの事だった。

 今の時代には想像も出来ないだろうが、当時の東北本線には蒸気機関車が走っていて、それも単線だった。一日一往復。とても時間がかかったし、庶民には贅沢な乗り物だった。

 その後十日ほどもすると、娘の翔子の容態も大分良くなり、起き上がれるようになった。そして同年代だったこのおばあちゃんとも、よく話をするようになっていた。

 仙台の親戚へ行くといっても、前もって了解を取ってある訳でもなく、他には頼れるようなところが見あたらないのでとりあえず行ってみるということらしい。その様子を察した神主夫婦は、どうなることか分からない処へ元々病気がちな娘を連れて行き、もし頼れなかったら困るだろうという話をして、しばらくここで暮らすよう勧めた。神社の手入れを手伝ったり、小さな畑を手伝ったりしながら、母娘はここで四ヶ月ほどを暮らした。

 そして、ある夏の日の朝。身なりを整えた母親のセツさんが、ちょっと出てくると言い残し一人出ていった。

 そのときのセツさんの顔はとても晴れやかで、綺麗な笑顔を残し出て行ったと言う。しかしそれきり母親は帰らず、夕方頃になって、翔子の布団と並んで畳まれていた母親の布団の下から、書き置きが見つかった。

 親戚を頼ると言ってもそれは遠い親戚で、当てになるかどうかは分からず、無理に行ってみたところで、たぶん追い返されるだろう。その事はもう諦めている。この神社に来てからの四ヶ月間は、お陰様でとても気持ちも安らいだし、もう充分にお世話になった。しかし、もうこれ以上甘える事はできないというような事が連綿と書きつけてあった。

 頼り切っていた亭主が死に、この先娘と二人で生きていく自信が無い。自分の身は自分で始末するから、大変な迷惑だろうが、なんとか娘だけでも身の立つように、面倒をみてもらえないだろうかという内容の遺書だった。

 人間の心情とは時節によって変遷する。自分は貧しくとも、困っている人を見かけたら何とかして力になろうという篤い人情は残っていた時代だった。また、だからといってそれに甘え、長々と他人の世話になる事を恥とした時代だったのかもしれない。

 そして最愛の連れ合いを亡くした悲しみの深さも、その時のセツの心を弱くした原因のひとつだったのだろう。

 翌日の朝。近くの川にセツの溺死体が上がった。

 おばあちゃんは黒い手文庫から、その時の遺書を取り出して見せてくれた。それはセピア色に染まった和紙に、細い毛筆の文字で書かれていた。

 今から五十年前の時代。自分の親達が生まれた頃の時代。仕事も食べ物さえもまだ満足ではなかった時代の、悲しい話だった。

 こんな時、なにも死ぬことはないだろうと、他人はいとも簡単に思うものだが、それは他人事だからそのように言うのであって、その当時の当人にすれば、それはとても深刻な問題だったのだろうと思う。

 通りすがりの他人様に、自分ばかりか娘までが厄介になっている。それも一日や二日ではない。セツにしてみれば、そのような心苦しい状態は、延ばしに延ばして四ヶ月がギリギリの限度だったのだろう。

 セツさんは何故、死に行く朝に明るい笑顔を見せたのだろう。世話になった神主夫婦に対する、せめてものお礼の笑顔だったのだろうか。

 死に望んで見せる会心の笑顔。なんて切ないんだろう。墨書きの女文字の遺書が今目の前に広げられている。セツさんはどんな気持ちでこれを書いたのだろう。五十年前に確かにセツさんが書いた物が今目の前にあることが、とても生々しく、そして悲しかった。

「先生、悲しいよぉ。そんな風にして死んじゃうなんて」

 陽子も涙ぐんでいる。玲子先生も悲しい目をしていた。

「そうだねぇ、悲しいねぇ。まだそういう時代だったんだよ、あの頃は。セツさんの歳ははっきり訊かなかったけど、おそらく大正の初めの頃の生まれの人だったと思うよ。昔の女はね、みんなそういう潔さみたいな気質を持っていたんだよ。今の時代じゃ考えられないけどね。私なんかも、今じゃからっきし育児が無くなっちまったよ」

「それで? おばあちゃん。それでその後、その娘の翔子さんはどうなったの?」

「うん・・・」

 おばあちゃんは急に顔をゆがめ、今にも泣き出しそうな目になっていた。セツさんの話をしながら、同時に翔子さんの事も思い出していたのだろう。

「あの人はとても心の素直な人だった。ほんの数ヶ月の間だったけど、毎日話をしていたからよく分かっていたんだよ。短いつき合いだったからこそ、よく分かったのかもしれないねぇ・・・ それなのに、私もうっかりしていたんだ。もっともっと、よく考えてあげるべきだった。あれからずっと、それだけが悔やまれてねぇ・・・ 今の時代みたいに福祉も何も、満足なものは何も無い時代だったんだよ。父親を亡くして、次いで母親まで・・・ 当然気弱になっていたんだよねぇ。私がちょっと目を離した隙に、母親と同じ場所で・・・」

 おばあちゃんは目頭を熱くしていた。

「それじゃ、あの無縁仏のお墓に二人とも?」

 おばあちゃんは黙って頷いていた。翔子さんはその時、母親以上に生きる気力を無くしてしまったのかもしれないと思った。

 それ以来、あのようにして毎日、このおばあちゃんは二人の為にお墓に参っているのだ。もう、五十年も。

「おばあちゃん。さっき、その翔子さんが夢枕に立つって言ってたわね? それはどういうこと?」

「うん、そうなんだよ。あれはねぇ、今から一月ほど前の明け方近くだった。にっこりとした笑顔でねぇ・・・ あの時のまんまだったわ。二十才の翔子ちゃんだった。とっても嬉しそうだったんだよ。綺麗な笑顔だったもの。あたしにはすぐに分かったわ。あの時、何だか急に目が覚めたの。朝の四時ちょっと前頃だったかな? そしたらそこに、翔子ちゃんが笑顔で座っていたの」

 おばあちゃんは隣の部屋の押入の前のあたりを指さしていた。その八畳間が寝室になっているのだろう。

「私が翔子ちゃんって呼ぶと、ニコニコ微笑みながらゆっくり頷いて、そしてすーっと消えたの。それがいちばん最初だった。怖いとか、そんな気持ちはちっとも起きなかったわ。あたし自身が五十年前のあの頃に戻ったような感じだった。とっても懐かしかったよ。あんまり懐かしくって、涙が出ちゃったわよ」

 おばあちゃんと玲子先生は、長方形の座卓を挟み、その端の方で向かい合って話している。光一と陽子はその玲子先生の横に並ぶようにして座っていた。

 翔子さんが出てきた話しになった時、陽子の左手がすっと伸びてきて、光一のシャツの背中を強く掴み、身体を寄せてきた。光一はまたかと、呆れたように、横目で陽子を見ている。

「それからというもの、毎日明け方近くになると夢枕に立つのよ。今朝も来たわ。ただ近頃はちょっと様子が変なのよ」

「変? どんなふうに変なの?」

 おばあちゃんは不安そうな目をして、思い出しながら話し続ける。

「翔子ちゃんは、始めの頃は嬉しそうに微笑むばかりで、滅多に口は開かなかったんだけどね、そのうちに少しずつ話すようになったんだよ。いつかあたしがね、翔子ちゃんとても嬉しそうだねぇ、何かいいことがあったのって、訊いたことがあったんだよ。そしたら・・・」

「うん、そしたら・・・ ねぇ、そしたら、なんて言ったの?」

「もうすぐお母さんと一緒に、あっちに行けるのよって、だから嬉しいって」

「あっちっていうのは、あの世の事ね?」

「そうだね、たぶん。まだ成仏できていなかったんだね。可哀想にねぇ、もう五十年も経つのにねぇ」

「それで・・・ それで、変ていうのは? 何が変なの?」

「うん、それがね。今から十日くらい前からだったかなぁ? いつもあんなに嬉しそうだった翔子ちゃんの顔が、ちょっと浮かない顔に変わってきたんだよ。そしてね、昨日とか今日なんかは、もうとても悲しそうにして、今にも泣き出しそうになっているんだよ。あたし、それがとっても気になってねぇ・・・ それでね、あたしはいつだって色々と話しかけてるんだけど、翔子ちゃんはなかなか話してくれなくて、それでも今朝はちょっとだけ話してくれたんだよ。でも話を聞いても、あたしには何のことか、意味がよく分からないんだよ。なんの力にもなれやしないんだ。困っちゃってねぇ。そんな所に突然、先生あんたが暮谷沢の事を聞きに来るから、もうあたしは、てっきりそうかと思っちゃって・・・ 先生、あんた何か分からないかねぇ?」

「うん、それでそれで? ねぇねぇ、おばあちゃん。それで翔子さんは何て言ってたの? 何が悲しかったの? ねぇ」

 玲子先生は、とうとう座卓の上に身を乗り出して訊いていた。

「おかあさんと一緒になれないって言うんだよ。あたしがどうしてって訊くと、もう時間が無いって。もう時間が無いのに魔物に憑かれてしまったって。このままじゃあっちにも行けなくなっちゃうって、泣きそうな顔でそんなことを言うんだよ。ねぇ先生、どういう事なんだろうねぇ? あんた何か分からないかい? もう亡くなっている人が魔物に憑かれるって、どういうことだい? あんたこういうことを研究してるんだろう? 何とか翔子ちゃんの力になってやれないもんかねぇ? ねぇ、先生」

 おばぁちゃんの顔をじっと見つめながら、玲子先生の大きな目が、爛々と輝き始めた。

「光一君、間違いないわね。どんぴしゃり、この事ね。なんとかしよう? ね?なんとかしてあげようよ。大丈夫よね? 君なら大丈夫。よし、おばあちゃん、大丈夫よ。任せて。私達がその翔子さんを、きちんと黄泉の国へ行かせてあげる。任せておいて。光一君、やっぱり今夜は私も一緒に行くわ。いいわね」

 有無を言わせぬ強い言い方だった。後ろから光一のシャツを掴む陽子の手に、ギュッと力が入った。光一は思わずのけぞりそうになる。見ると、情けないような、泣き出しそうな、複雑な顔色をした陽子の顔が、玲子先生を見ていた。

 玲子先生はもうすっかり入れ込んでいる。どうしよう。何分、この後すぐの今夜の事だ。時間が無い。おそらく、もう何を言っても止められそうにないと思った。しょうがない。どうなることか分からないが、こういう話しになってしまった以上やるしかないだろう。たとえ今更光一が止めるなどと言ったところで、この先生は承知しないと思った。

 なるべく沢山の情報を集める必要がある。光一は訊いてみた。

「あのー おばあちゃん。その翔子さんが言った、時間がないというのは、どういう意味か分かりませんか? 何か心当たりはないでしょうか?」

「うん。たぶんね、あたしゃ、たぶんこのことだと思うんだよ」

 そう言って、さっきから前に出ている母親のセツさんの遺書を示した。最後の処に、昭和三十二年七月十七日とある。遺書の日付だ。七月十七日とは、一昨日のことだ。そして今日は十九日だ。

「あのー おばあちゃん。翔子さんが亡くなったのは、セツさんが亡くなってから何日後なんでしようか?」

「セツさんが見つかった次の日だったんだよ。つまり一昨日がセツさんの命日で、今日は翔子ちゃんの命日なんだよ。時間がないと言うのは、きっとこのことじゃないのかねぇ? ただの当て推量だけどさ。何がどう時間が無いのかは、あたしにはてんで分からないんだけどさぁ、時間のことと言ったら、他には思いあたらないんだよねぇ・・・」

「今日が翔子さんが亡くなってから、丁度五十年目になるのですね?」

「早いもんだねぇ。あたしにはつい昨日の事のように思えるよ。このところ、あの頃の翔子ちゃんに毎日会っているせいかしらねぇ・・・」 

 これは大事だ。三千代姫は、大乗院に会うのは今夜でなければならないと言っていた。

このことを言っていたのに違いない。おそらく今夜が決戦の時になる。光一はそう思った。

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