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城下町幽玄クラブ  作者: 長谷川 幸信
3/3

決戦の森

 夕方、八時。三人は長禄寺(ちょうろくじ)の門前にいた。

 あの後一旦家に帰り、夕食を済ませたところに玲子先生が迎えに来た。そして陽子を乗せ、そのまま先生のアパートに行った。先生が打ち合わせをしたいという。さっきはしょうがないとも思ったが、今度ばかりはとても危険な気がするから、二人には門外で待っているようにと、繰り返し話しをした。

 陽子は一も二も無く賛成するのだが、玲子先生がなかなか承知しない。どうしても一緒に行きたいと言うところを、なだめたりすかしたりしながら、今お寺の門前まで来たところだった。

 光一が車の外に出ると、まだ先生は一緒に行きたそうな顔をしていた。(あきら)めてはいないみたいだ。車の中で陽子が先生の腕を取り、光一を見ている。とても不安そうな目つきだ。

 お寺の入り口には、太くて背の高い石の門柱が両側に立っている。曹洞宗、広福山長禄寺。二階堂家の菩提寺だ。

 参道には石畳が敷かれ、その両側には背の低い石垣の土止めがある。そして今は暗くて見えないが、それはずっと奥まで続いている。両側の石垣の上には、六地蔵とか羅漢像、その他幾つものお地蔵様などが、たくさんの石灯籠などと一緒に不規則に立っている。

 それらは一見するとばらばらで、とても不揃いな並び方に見えるのだが、同じ石垣の上に低く刈り込まれたツツジとか、灯籠や地蔵尊の足下に密生している青苔が、長い年月と相まって、そのアンバランスを妙に味のあるものに変えて見せている。更にその石垣の外には、桜や百日紅(サルスベリ)の大木が葉を茂らせていた。

「先生、この門より内側には入ってはいけません。僕自身はっきりとは分かっていないのですが、そんな気がするんです」

 大きな門柱の間から奥を眺めると、十メートルくらい先の石畳の真ん中に、鎧武者が一人立っていた。光一はさっきここに到着したときにすぐに気がついた。こちらを見ている。迎えだろう。光一はいつかテレビドラマで見た耳無し芳一の物語を連想していた。だが敵意は無いようだ。

 後学のために、玲子先生と陽子にも見せてやろうと思った。見ればきっと怖じ気ずくだろう。それでいい。何でもいいから、とにかくついて来られては困るのだ。

 車にいる二人を外に呼ぶと、門柱の間に立ち、先生と陽子を両側にしてその肩に手をやった。境内の奥にはたっぷりとした闇が溜まっている。

「二人とも目を瞑って、いつものように深呼吸をして下さい」

「え? もう何かいるの? ねぇ、光一君。怖くない? 怖いのは嫌だよう」

 陽子はぶすぶす言いながらも、深呼吸を始めた。二人の肩に置いた手を通じて、二人の恐怖心が、スッと光一の身体に流れ込んでくる。背筋がヒヤリとする。

「落ち着いて。ゆっくりと目を開けて、正面の奥を見て下さい。決して声は出さないように」

 とたんに、喉からグッという音を出しながら、陽子が光一の胸のあたりに顔を埋めた。声を出すまいと、片方の手で自分の口を押さえている。そしてまた、ゆっくりと首だけを捻って、恐る恐る鎧武者の方を見ている。先生は、見た瞬間だけはさすがにピクリと身体を振るわせたが、その後はじーっと武者の方を凝視していた。

 暗いお墓の入り口に、ポツンと立つ鎧武者の姿は、黒く窪んで見える二つの目の奥だけが異様に青く光り、とても禍々しいものだった。このような場所で見る鎧兜の装束は、なんとも不気味だ。

「たぶん僕を迎えに来てくれたのでしょう。奥に行けば、きっとあのような人達が何十人も僕を待っている筈です。さっきから、随分たくさんの霊気が伝わってきているんです」

 その参道沿いの石垣の左側は、ずっと向こうまで、広大な墓地になっている。その墓地のほぼ真ん中あたりに大乗院のお墓があり、その家来達のお墓も、ぐるりと大乗院を囲むようにして何十基も並んでいるのだ。

 子供の頃の夏の夕暮れには、よくこの墓所でも肝試しをして遊んだものだ。墓所の中の墓石だらけの通路など、今でもぼんやりと覚えている。

「あぁ・・・ 光一君。気を付けるのよ。いいわね。もし変なことになりそうだったら、大きな声で叫ぶのよ。必ず私も駆けつけるからね。あぁ、そんな・・・ 大丈夫かしら」

「あぁーん、光一君、止めた方がいいよぉ。こんなの無理だよぉ。ねぇ、止めようよぉ」

 陽子などは、もう殆ど泣き声になっている。二人とも、これできっと大人しく待っていてくれるだろう。これから過去にこの町の殿様だった人や、その当時の本物の侍達に会いにいくのだ。四百年前の過去に会える。光一は胸がわくわく踊っていた。

 なんで自分は怖くないんだろう。この二人はこれほど怖がっているのに、自分は怖いどころか嬉しくてしょうがない。自分で自分が不思議だった。

「それじゃ行って来ます。いいですね。決して中に入ってきては駄目ですよ。僕の事は心配ありませんから、車の中で待っていて下さい」

 しっかりと念を押してから、一人山門を潜った。鎧武者は左手に太刀を握っていた。腰には脇差しが差してある。本物だ。近づく程に、その兜の下の顔が不気味だ。口元が暗くニヤリと笑っているように見える。

 光一は武者の手前二メートルくらいの処まで近づくと、礼をした。武者もゆっくりと礼を返す。暗い中にギラリと光る目が鋭い。青白い光を放っている。武者は黙ってくるりときびすを返し、奥へと進んでいく。光一も黙って後に続いた。

 今日も一日中暑かったが、今になってもまだ暑い。まだ三十度近くあるような感じがする。光一はブラックジーンズに黒のTシャツ姿で、黒いスニーカーを履き、頭にも黒いバンダナを巻いていた。暗闇に溶け込んでしまうような姿だ。

 茂みのあちこちから虫の声が聞こえている。三十メートルほど奥に進んだ処に、鐘楼の石垣があった。墓所にはその鐘楼の左側から入る。とくに決まった入り口のようなものはないらしいが、その角には、とても大きな弥勒菩薩の石像が立っていた。菩薩の顔を見上げると、天空には黄金色の満月が夜のとばりをこじ開けるように光っていた。

 大乗院。名は阿南。伊達晴宗の長女であり、須賀川二階堂家、第十八代城主盛義の室となった。天正九年(1581年)夫、盛義死去の後、城主を継いだ。女丈夫である。伊達政宗は甥にあたる。

 少し時を戻す。天正二年。会津黒川城城主、盛興が死去。大乗院の子盛隆は、盛興の未亡人の婿として入り、会津芦名家黒川城城主となった。よって、二階堂家と芦名家は堅い絆で結ばれた。しかし、世は下克上の時。

 天正十二年。芦名家に婿入りして威勢の上がってきた盛隆ではあったが、家臣の裏切りに合い殺害されてしまう。そして、その遺児亀王丸も病死した。その為、芦名家の後継ぎ問題が起こる。

 当時威勢があり、伊達家や二階堂家とも親交深い立場にあった常陸(ひたち)の佐竹家においては、佐竹義重の子義広を、芦名家の後継ぎとして希望していた。伊達家においては伊達政宗の弟、小次郎を望んでいた。

 結果、佐竹義重の子義広が、殺害された芦名盛隆(大乗院の子)の息女(大乗院の孫)に婿入りすることに決まり、会津黒川城城主となった。

 この事により、二階堂家、芦名家、佐竹家の絆は深まる結果になったが、ひとり伊達政宗は、この三家に深い敵愾心を持つに至る。長年に渡り数々の小競り合いはあったにせよ、何とか均衡を保っていた天秤(てんびん)が、ここで折れた。

 天正十七年。伊達政宗は二万三千の大軍をもって会津を落とした。そしてその勢いに乗じ、一気に須賀川二階堂家に攻め入った。

 伊達家に味方すればその曉には、多大なる褒賞をもって篤く伊達家に迎える。政宗は二階堂家の家臣達に、内通服属の密書を次々に送りつける。幾度も幾度も甘言で誘った。

 あの大名は伊達に寝返ったらしい。市中に間者を放ち、流言飛語を飛ばす。政宗の常套手段だった。

 過去の多大なる恩顧を忘れ、褒賞に目が眩み、寝返る者達も多数出た。中でも、腹心と思っていた家老、守谷筑後守の裏切りは酷かった。合戦当時、風上にあった寺町に火を放ち、町を火の海にした。このことにより味方は右往左往するばかり。結果、敗戦となってしまった。

 いかに下克上とはいえ、この裏切りに大乗院は怒った。まだ城に残っていた筑後守の妻を刺し殺した。城主である。そして、女丈夫であった。

 今、その大乗院が目の前にいる。髪は垂れ髪。後ろできつく束ねてあった。白綾の小袖の上に、鮮やかな花模様の小袖を肌脱ぎのようにして腰に巻き、中央の床几(しょうぎ)に座っている。くつろいでいるような感じにも見えるが、目にはしっかりとした強い光が灯っていた。

 その場所は、大乗院の墓のある場所の筈だ。そしてその周りをコの字形に取り巻くように、当時殉じた忠臣達の墓がある筈なのだが、それらは今、全員が鎧武者の出で立ちで、大乗院の周りにコの字形の陣形をとり控えていた。

 辺りは荒涼とした草原と化している。厳かだった。この稟とした空気は、きっとこの武者達の霊気が起こしているのだと思った。

 武者達と同じように、光一も立て膝になる。控えた。

 ざっと二十人ほどはいるだろうか。武者達は二重になって大乗院の周りを取り囲み、控えている。いつか映画で見たような鎧武者だ。全員が様々な飾りの付いた兜を被り、目だけをギョロリと光らせこちらを睨んでいる。陽子が見たら、ショック死するかもしれないような光景だ。

 空気がビリビリと震えていて、むき出しの顔に痛い。半眼になり歯を食いしばり、周りの空気を読む。身体の芯がシャキッとなり、光一の目も爛々と輝いてきた。その身体からは薄青く霊気が立ち昇っているのだが、そのことを本人は気づかない。

 先程から厳しげな目で見つめていた大乗院の頬が、僅かに緩んだ。

「大儀である。さすがは三千代姫様が御推挙するだけのことはある。この期に及んで微塵の動揺もないとは、見事じゃ」

 大乗院の発する声はさほど大きくもないのに、腹の奥に響いた。光一は目の前の大乗院の晴れやかな姿と、周りを取り巻く鎧武者達の物々しい光景に、緊張と嬉しさが混じり合ったような、おかしな自分の気持ちに戸惑っていた。すると、

「面を上げい。直答を許す」

 光一のすぐ右側にいた侍が、ギョロリと光る目でそう言った。三千代姫の時には、これでしくじった。許可があるまでは話してはいけない。顔を見てもいけないらしい。光一は、何か話せと言われたような気がした。

「恐れ入ります。早速ですが、僕の役割は? この後どうすれば宜しいのでしょうか?」

「ん、そのことじゃ」

 大剰院は言葉を区切るように、ゆっくりと話し始めた。

「あの亡者は、すでに過去と現在から数多の獣の霊を取り込み、ずいぶんとその悪気を強めておるようじゃ。いや、正確には獣の悪霊が、迷い彷徨っているおなごの霊に取り憑いておるのじゃ。更に悪い事に、あのおなごの霊が静やかに冥土に旅立てる筈の期限が迫っておる。今宵子の刻を過ぎれば、あのおなごはその怨念が永久に悪霊となって残り、この世に災いをもたらす本当の魔物と化すであろう。もしそうなれば我らにも為す術は無く、市井の者達も迷惑であろうし、悪霊に取り憑かれているあのおなごも哀れじゃ。よって、悪霊はわらわの手の者が、すでに追い込んである。しかしそれ以上のことは叶わぬ。そこでじゃ、あの者を無事に冥土へ導く役割をお主にやってもらいたいのじゃ。その為にはまず、あのおなごに取り憑いている悪霊を退治しなければならぬ。どうすればよいのか、それを今ここでいちいち説明するのは難儀じゃ。その時が来れば自然に分かる。猶予もない。すぐにかかってくれぬか」

 光一の思っていた通りだった。あの女の霊は、ミイラ取りがミイラになった姿だった。

「追い込んであるというのは・・・ ここにでしょうか?」

「馬鹿を申せ」

 その時、周りの武者達の間から一斉に低く笑い声があがった。それは闇にくぐもって、とても不気味な声に聞こえた。とても深い地の底から湧いてくるような笑い声だった。おどろおどろしいとは、こんな有様を言うのだろう。

 暗闇の中で、武者達が互いに顔を見合わせて笑っている。兜の奥に鋭く光る目に加えて、歪んで見える赤い口と白い歯が、更に恐ろしげだ。その武者達のざわめく姿を、空高く茂る欅の大木の隙間から、煌々と月光が照らしている。なんという光景だろう。

「いかに下等な獣の霊とはいえ、我が廟所には近づこうとするものか。思う壺にはまるだけではないか。まさか、その程度のもくろみはできるようじゃ」

「はい。ではどこに?」

「そなたの住まいのある裏山。鎌足様の森じゃ」

 どんぐりの森のことだ。子供達は森の中のどんぐり林に因んで、そう呼んでいる。川沿いの一番左端の奥まった辺りには、こんもりとお椀を伏せたような小山があって、その上に神社があった。鎌足神社と言う。地元の大人達はあの森全体を差して、鎌足様の森と呼んでいた。

 そもそもの大昔。この二階堂家の元祖というのは白尾三郎行政といい、源頼朝に仕えていた。

 文治五年(1189年)頼朝は二十八万の大軍を率い、奥州藤原氏を攻め滅ぼした。その時功績のあった家臣に対し、その恩賞として奥州各地を領地として分け与えた。この地は白尾三郎行政が、その時に手に入れたものだ。

 白尾三郎の本領は近江であったが、この奥州岩瀬地方には代官を派遣して治めていた。そしてその後、1430年代の永享年間の頃、代官を任された治部大輔なる者が謀反を企て、その子である三千代姫の悲劇を招く事になる。

 二階堂家の元祖、白尾三郎行政。元来が文官であり、そしてその先祖は藤原鎌足であった。

「悪霊は(おびただ)しい数の獣じゃ。理屈は通じぬ。ただひと思いに地獄へ落とせばよい。それが親切というものじゃ。その方法は行けば分かる。そなたになら分かる筈じゃ。期限は今宵子の刻。この世の時刻で十二時までじゃ。よいな。頼みましたぞ」

 光一は片膝をつき、大乗院を見つめたまま聴いていた。はい、と応えると、そこは一瞬にして沢山の石碑が立ち並ぶ墓所と化し、光一はコの字形に肩を並べている黒い墓石の間に跪いていた。むろん彼のすぐ目の前には、大乗院のひときは大きな墓石が苔むしてあった。

 胸が躍った。まるで夢の中の出来事のようだ。しかしこのリアルさは夢ではない。長禄寺から鎌足様の森までは、車ならほんの二・三分だ。

 外で待っていた玲子先生と陽子に一部始終を話して聴かせると、案の定陽子は大きな目をいっそう大きく見開いて、声も無かった。

 先生も陽子に負けないほど大きな目を見開いてはいたが、根掘り葉掘り詳しく聴きたがり、なかなか車を発進させなかった。

「光一君、何も変な事はされなかったの? この間の藤内左右衛門さんの時みたいに、大きな声で脅されたりしなかった? 怖かったでしょう? そんなに何十人もの武者達に囲まれて。ねぇねぇ、大丈夫?」

 陽子は光一の顔を覗き込むようにして、本当に心配そうに言う。根は優しい子なのだ。

 陽子の場合、始めから何でも怖いものだと思い込んでいる。玲子先生のように、恐怖心を押し殺し気配を掴む素質はないようだ。でも、それはそれでいいと思う。人はそれぞれでいいのだ。陽子には陽子の良さが沢山ある。

「ねぇ、光一君。それなら私も一緒に行っても良かったんじゃない? ねぇ?」

「んー どうだったかなぁ? 今から思えば大丈夫だったような気もしますが、でも雰囲気的にはどうだったか・・・ それに、最初はこの中で戦いが始まるものだと思っていたものですから。すみませんでした」

「あーん、残念だったわねぇ。今度は? 今度こそは駄目なの? でもあの森は広いから、遠くからちょっと眺めるくらいならいいわよね? ね?」

「いいえ、駄目です。こんどそこは絶対に駄目です。今度は間違いなく悪霊との戦いが待っています。二人とも僕の部屋に入って、お茶でも飲んで待っていて下さい」

「馬鹿なこと言わないでよー 光一君一人に悪霊退治なんてさせといて、私達だけ呑気にお茶なんて飲んでいられると思う? 私を誰だと思っているの。私は幽玄クラブの顧問よ。ねぇ、陽子?」

 先生は陽子に加勢を頼むが、それは到底無理な話しだった。陽子は声もなく、すがるような目で先生を見つめていた。殆ど涙目になっている。不安で一杯なのだろう。

「まかり間違えば、あの翔子さんに取り込まれてしまいますよ。この間の健一君のように。もし、そうなったら・・・ どうなるんだろう? この後ずうっと永久に、翔子さんと一緒に悪霊になっちまうのかな? それとも翔子さんと一緒に、何れはあの世に行くことになるのかな? どうなるんでしょうね、先生? とにかく、どっちにしても碌な事にはなりません。絶対に駄目です。いいですね」

 ちょっと強い口調で言ったつもりだったが、光一の言い方ではそういう風には聞こえない。

 先生は分かったんだか分からないんだか、目を逸らして、やがて車は光一の家の裏道に停まった。すぐ目の前に森が広がっている。

 光一は長禄寺からの長いだらだら坂を下り、四つ路を左に折れたあたりから、強い霊気を感じ始めていた。これは今まで感じたことのない霊気の塊のようなものだった。森に近づくに連れその塊がほぐれ、一人一人、別々の霊気に分れていくような感じがしていた。たぶんそうだと思う。

 それにしても、大変な数なのが分かる。大乗院の手勢だろう。森の中を無数に飛び交っている。そして、車を停めた道沿いにはずっと向こうまで、完全武装の鎧武者がそれぞれ十メートルほどの間隔を置いて、槍や刀の抜き身を手に、等間隔で何十人も立ち並んでいるのが見える。

 そして鉄笊(てつざる)の上に()かれた篝火(かがりび)が、道路際に点々と並べられ、その火が武者達の姿を赤く照らしていた。その篝火の揺らめきが、周りの茂みを濃く薄く揺らし、幽玄の陰が踊っている。

 三つ盛り亀甲七曜。家紋を染め抜いた旗印が森を取り巻くように立てられ、時折の暑い風にたなびいている。鎧武者がすぐ目の前にたくさん並んでいるのに、二人には見えていないのだろう。

 気を入れて、自ら見ようと思わなければ見えない。さっき長禄寺の前でしたように、少し脅かしておいた方がいいかもしれないと思った。こんどは本当に危険なことになる。そのことははっきりしていた。

 光一は助手席から降り、後ろにいた陽子を前に座らせ、入れ替わった。後部座席の真ん中から前に首を出し、二人の肩に手を当てる。

「先生も陽子も目を瞑って、さっきのように深呼吸して下さい」

 二人はすぐに言われた通りにしていた。もういつものやり方に慣れている。

「いいですか? 決して驚かないこと。目を開けてからも深呼吸を繰り返して、恐怖心を消していることです。分かりましたね?」

 目を瞑っている二人に、それぞれにそう言い聞かせると、ふたりは目を瞑ったまま、うんうんと頷き、深呼吸を繰り返していた。

「それじゃ目を開けて。落ち着いて」

 そのとたん。ハァっと、小さな息のような悲鳴のような声を出して、陽子は内側に身体を捻り、自分の左肩にある光一の手に、変な体制でしがみついていた。先生も今度は相当驚いたようだ。陽子と同じように、左手で光一の手を握り、足を突っ張って、ぐいっと座席に身体を押しつけていた。

 その瞬間光一の両方の手に、二人の身体から放たれた恐怖心が、スッと流れ込んできた。背筋がヒヤリとした。

「なによー・・・ 何なのよこれ? いつから? さっきからこんなになっていたの? 見えなかっただけなの? あぁ、とても信じられないような光景だわ。 ・・・現実なのね」

 先生は両足をつっぱったまま、光一の胸のあたりに頭を半分くっつけるような姿勢で話していた。流石に動揺しているようだ。

 この辺りは森に沿ってずらりと住宅が並び、その住宅の裏側と森との間に、昔からの細い道路が一本通っている。今そこにいる。裏通りなのだが、すぐ森の側が住宅地になっていることもあり、防犯上点々と水銀灯が立てられている。とても明るい。

 この細道には、今のこの時間でも人の歩く姿がちらほら見かけられるし、すぐそこの住宅前の大通りには、引っ切り無しに車が行き交っている。森を取り囲んでいる何十人もの鎧武者の姿が、今煌々と輝く水銀灯の灯に(さら)されているのだ。

 八時五十分。右の方から自転車に乗った男性がひとり、三人の乗った車の前を横切り、駅の方向へ過ぎていく。その一・二メートル脇には、刀や槍を手に提げた恐ろしげな鎧武者が点々と立っているし、篝火もパチパチと音を立て、火の粉を上げて燃えている。そのような場所が小道沿いに何カ所もあるのに、余人には見えないらしい。もっとも、見えていたら大騒ぎになっているだろう。

「家に引っ込んでいるのが嫌ならここで見ていて下さい。でも、決して森の中に入ってきては駄目です。なるべくなら車からも出ないように。いいですね」

 先生は勇敢にも深呼吸を繰り返し、しっかりと左右の武者達の様子を観察している。陽子は左肩にかけられた光一の手を両手で引っ張るようにして、しがみついている。それでも目はちゃんと開いているようだ。あまりの怖さに、閉じられないだけなのかもしれない。

 目の前全体が街灯の光で照らされている分、幻惑されて少し奥まった藪の辺りは、漆黒の闇のようになっていて見えない。それでもその藪の奥に目を凝らすと、いつも闇歩きに入っていく入り口の楓の大木が、薄ぼんやりと見えてきた。

 今夜もいい月夜だ。森中を完全に覆い尽くしているように見える厚い木の葉の傘も、実は完全ではない。こんな夜には重なり合う木々の隙間から射し込む月光が、たくさんのスポットライトのように森のあちこちを照らしている筈だ。そのような光景は今までに何度も見てきた。

 闇に慣れた目でよく見ると、楓の大木のその奥の方にも、細い光の線が落ちているのが見えている。そして、その淡い光に小さく翳りがさした。

 霊気が動いている。移動しているのだ。楓の横を通り抜け、何かがこちらへ向かって来る。馬だ。並足で向かってくる。

「先生、向こうから馬が来ます。見えますか? 僕はもう行かなくちゃなりません。いいですね? 陽子と二人でここにいて下さい。決して森の中に入って来ては駄目ですよ」

「分かったわ。光一君、気をつけるのよ。絶対に危ないことをしちゃ駄目。少しでも変だと思ったら、君もすぐに森の外へ逃げるのよ。いいわね」

 真剣な顔で言う玲子先生の声は、少し震えていた。霊気を掴むコツを少し知っただけに、今この瞬間に、自分が非現実的な霊界との境界線を越えている事に気づいているのかもしれない。陽子はさっきから、両手で光一の左手を握りしめているばかりだった。

「光一君、大丈夫なの? ほんとに大丈夫なの? 怖かったら止めた方がいいよ」

 すがりながら、必死な声で言っていた。

「大丈夫だよ」

 ニッコリ微笑んでみせた。 

「陽子、先生を頼んだぞ。じゃ、行って来る」

 陽子の手を剥ぎ取るように外して、外へ出た。それと同時くらいに、馬に乗った武者が目の前に着いていた。栗毛に黒いたてがみ。大きな鞍を付けたその上に、立派な武者装束に身を固めた老体が、不気味に微笑んでいた。鈍く黒光りしている鎧の腕には、短い槍が下げられている。

「須田美濃守盛秀である。この度の戦、殿より総大将を仰せつかっておる。ゆるゆると始めようかと思うが、同道願いたい。なに、相手はたかが畜生霊じゃ。慌てることでもないのだが、何せ四百年ぶりの戦支度じゃ。年甲斐もなく胸が躍ってのう。つい、待ちきれずに迎えに来てしもうた。お主、支度はよいのか?」

 馬上の老武者はその厳めしさとは裏腹に、とても楽しげに見える。実は、光一も胸が躍っていた。正しく今、遠い過去の時代の侍と、話をしているのだ。

「はい。支度は何もありません。このままです。ただ、僕はこの森でどうすればいいのか、未だによく分からないのですが、大乗院様は行けば分かるとおっしゃっていました。ほんとうに分かるのでしょうか?」

「ん、悪霊は現在、我が三百の軍勢が逃さぬように包囲済みじゃ。最早、一匹たりとも逃れられるものではない。これから徐々に中央に追い込む。お主はそれを、片っ端から切って捨てればよい。容易いことじゃ」

 老武者は、いとも簡単そうに言う。

「あのー 切って捨てると言われても、僕は刀の扱い方は知りませんし、だいいち持っておりませんが」

「ふっふっふっ、お主には得物はいらぬ。先程から、このわしとこうして対峙していても、微塵も心の乱れがない。それがお主の武器じゃ。すぐに分かる。さて、参ろうぞ」

 ちっとも分からなかったが、はい、と返事をして車の方を振り返ると、玲子先生と陽子が、車内の中央で頬を寄せ合うようにして抱き合っていた。

 二人とも同じくらいの大きな目を、更にぐっと見開いて光一を見ている。光一はニッコリ笑いながら、軽く頷く。すると二人も同時に、まるで操り人形のような仕草で、コクンと頷いていた。

 威風堂々、須田美濃守盛秀。二階堂家筆頭家老だ。その後に続き、楓の入り口を潜る。

 その瞬間だった。キンと、強く胸に響いた。体中に凄い緊張が走る。あまりにも強い霊気に、光一は思わず腰を落とし身構えていた。

 それは突然冷水を浴びせられたような感覚だった。大乗院も美濃守も、いとも簡単そうに話していたが、今ここに来てそんな生やさしい仕事ではないことを悟った。

 二階堂家の軍勢により、森の中に大きな輪のような結界が張られていたのだ。そして今、結界の中に入った。軍勢の霊気と悪霊達の霊気。何れにしても、夥しい数の死霊の霊が渦巻いていた。森の空気が、その凄まじい霊気でギンギンに冷えている。身体の芯からヒヤリとする。思わず身震いをした。

 美濃守が馬上から光一を振り返り、ニヤリと笑った。暗い兜の奥から、燃えるような鋭い目がギラリと光る。光一は負けずに笑い返そうとしたが、その顔は笑顔にはならず、美濃守をきつく睨み返していた。

 蠢いている。それは確かに犬や猫の霊だった。そのことは光一にもよく分かった。そしてそれらの中心に、ひときわ強い気配がある。それは人の霊気だったが、武者達の武張った霊気とは明らかに違う。悪気だ。覚えがある。翔子だろう。

 妙見山のおばあちゃんがあの後教えてくれた。命を失ってから今日でちょうど五十年目。自ら命を絶った者の霊はなかなか浮かばれず、迷いに迷う。それでも五十年の長き喪が明ければ、ようやく黄泉の国へ還ることができるという。玲子先生の言っていた事と同じだ。

 その迷える者にとっての目出度き日が、正に今宵だというのに、悪霊に取り憑かれてしまって還れないのだ。そして今宵を逃せば、忌まわしい悪霊の姿のまま、この後永久に絶望の闇の世界を彷徨い続けることになる。

 翔子の母親セツは、運良く悪霊に取り憑かれずに済んだ。おそらくセツは充分な覚悟の上での自害だったから、翔子のように迷うことが無かったのだろう。翔子は若かった分だけこの世での未練も多く、悪霊の餌食になり安かったのかもしれない。そもそも、取り込むつもりが反対に取り込まれてしまったのだ。

 入り口を抜けてすぐ左側に、楠の大木がある。光一はその楠にぴったりと背を付け、目を閉じた。そして胸いっぱいに森の精気を吸い込む。ブルッと、身体が震えた。森の精気を受け入れる瞬間にはいつもこうなるのだ。或いは武者震いなのかもしれない。

 もう戦いは始まっている。深閑とたたずむ楠から、スーッと精気が流れ込んてくる。大木の中に身体が吸い込まれるような感覚だ。大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐く。二三度繰り返すと身体の隅々にまで精気が行き渡り、光一の身体は森の闇に溶け込んでいった。

 この森はとても古い森だった。地形的に開発のメリットが少ない場所らしく、押し寄せる建築ブームの時にも生き残った。楢、椚、楓、欅など、年月を経た大木ばかりが立ち並んでいる。そして見上げれば、鬱蒼と茂る木の葉の間から、遠く近く、何条もの月の光が黄金色の太い線となり、森のあちこちに落ちていた。

 舞台は整った。気を静め闇を計る。すぐ目の前には、馬上勇ましく美濃守が光一の様子を見ていた。そして少し離れたそこここに、何十もの鬼火が飛んでいる。

 鬼火は青白い色で薄く、時に濃く、色を変えながら揺れている。それがずっと遠くの木の幹の辺りにも幾つか見えるし、またあちこちの葉陰にも見え隠れしていた。暗い茂みの隙間からスッと出てきたと思えば、長い尾を引いて何十も揺らめいたりしている。黄泉の国から呼び戻された兵士達だろう。

「準備は整ったようじゃな。我が軍兵達も、先程より腕が鳴っているようじゃ。それでは、これより包囲網を縮める。相手はたかが畜生共じゃが、窮鼠猫を噛むの諺もある。油断するでないぞ。いざ」

 美濃守は厳しい顔でそう言うと、土を蹴り森の中央に向かって走って行った。その後ろ姿が十メートルほども離れたとき、馬も美濃守の姿もスッと掻き消え、その後をその代わりのように、青白い鬼火がスーッと、長い尾を引いて飛んで行った。

 光一はゆっくりと楠を離れた。目指す相手は翔子だ。森の中央にいる。暮谷沢で会った時と同じ、あの霊気を感じていた。今や悪気の塊となって、殊更強い邪気を放っている。

 暫くすると、遠くでウオーっという歓声が上がった。北東の方向だ。美濃守は鬼門から攻撃に入ったらしい。強気だ。続いて北の方角からも、そして東からも、ざわめきと雄叫びが聞こえ始めた。総攻撃が始まったのだろう。

 来る。向かって左前方の藪の向こうから、悪霊の気が飛んで来る。速い。束になって来る。奥まった闇全体が深紅の血の色に見える。紅色の鬼火が上下左右と木の枝をかわし、大きくカーブしながら飛んでくる。

 どうする。行けば分かると言われたが、分からない。焦ってしまう。

 鬼火は途中でパッと消えたかと思うと、突然別な場所にスッと出現する。そんなのが何十も、右へ左へ、ゆらゆらと尾を引いて揺れながら進んでくる。

 あれは牽制しているのだろう。そしてまた、突然スピードを上げて向かってくる。止まった。光一は胸いっぱいに吸い込んだ森の精気を、ゆっくりと吐き出していた。取り敢えず、冷静を保つしかない。

 すぐそこにいる筈なのだが、目には見えない。でもすぐ目の前にいる。ほんの二・三メートル先だ。姿は消せても気配は消せない。見えないが、正確に感じていた。黒く闇に沈むツツジの株の中と、その右側の桜の木の陰。それともう一匹は、更にその右側に二本並んでいる松の大木の間にいる。

 三匹の犬らしい。他の悪鬼達は、少し遠巻きになって渦巻いている。成り行きを見物しようというのか、紅い火の玉の群が、少し離れた処で尾を引いて、何十も揺らめいている。

 気を静めて待っていると、闇の中から、グルル・・・ ガゥゥ・・・ っと、低く陰に籠もった唸り声が聞こえる。迷っているらしい。何を迷っているのだろう。本気で来るなら止まらずに一気に襲ってきている筈だ。なるほど。分かった。大乗院の言った意味が。

 光一は目を閉じ、心を無にした。どうなるのか本当のところは分からないが、たぶんこれでいいと思う。他には考えられない。

 一斉に、ガォーっと吠える声が幾つもだぶって聞こえ、同時に三方から悪霊が飛びかかってきた。両方の太股と首根に、なま温い風が当たったような鈍い衝撃を感じ、身体がグンと後ろに押された。その直後、クーン、キャイーンという、負け犬が尻尾を巻いて逃げる時のような声が、深い闇の底に反響して聞こえた。

 それだけだった。三匹の悪霊は、今あっけなく地獄に堕ちた。

 やはりこういう事だった。光一が恐怖心さえ抱かなければ、光一の身体そのものが、悪霊にとっては地獄への入り口なのだ。

 先ほど悪霊達は、威嚇しても恐怖心が跳ね返ってこない人間に対して、戸惑っていたのだ。どうしたらいいのか迷っていたのだろう。しかし、いつまでも迷ってはいられない。軍勢は迫っている。とりあえず飛びかかってみたら、そこには地獄への入り口があった。

 もし今のが本物の生きた狂犬だったら、恐ろしくてとても平静ではいられなかっただろう。しかし、霊であることははっきりしている。例えどんなに現実のように見えたとしても、それは絶対にこの世のものではないという確信を持てる光一には、悪霊の付け入る隙は無かった。

 子供の頃から、霊や物の怪に対しては微塵の恐怖心も抱く事はなかった。同じく目に見えるものであっても、その虚実を見抜くことができる。子供の頃からの訓練の賜物だ。自分では訓練などしてきた覚えはないのだが、自然にそうなっていた。

 目を開けて遙か遠くを見る。殆どが暗がりで何も見えない。闇の中の気の流れを見る。気配を感じるのだ。感じれば読める。

 今現実に見えるものは、頭上に生い茂る木の間から射し込んでいる月明かりと、それに照らされた木の幹や草の薄い反射だけだ。他には何も見えない。それでも、そういう目で見る。すると見えてくる。夥しい数の霊気が、闇の森に錯綜している。

 悪霊達の紅色に燃える沢山の鬼火。あの紅色は誰にも愛されず看取られず、寂しく死んでいった無念の色なのか。思えば哀れなもの達なのだ。栗の木やミズキ、ヤマボウシなどの細い木の間を縫うように、そして背の高い松の木や楠の、空を覆う細かい枝葉の間を、縦横無尽に紅く長い尾を引きながら飛び交っている。

 そしてまた、襲ってきた。今度は猫だ。頭上から怪猫が二匹。でかい。猫も年月を経ると、犬ほどの大きさになるのか。

 目を血の色に染めて、斜め上から首の左右を狙ってきた。光一は拳に力を入れ、スッと目を閉じた。なま暖かい風の塊が、両の肩に消えた。そして、ギャーッという悲鳴のような泣き声が、奈落の底に消えていく。可愛そうに。コツは掴めた。

 いかに百戦錬磨の二階堂家の武者達とはいえ、すでに死んでいる者が死んでいる者を葬るという訳にはいかないのだろう。この世に迷える悪霊を完全にあの世に送るには、恐怖心を抱かずに霊気を自在に読み取れる、この世の生者の力が必要だったのだ。

 ゆっくりと歩いていた。そして遙か遠くを見るような目で見る。気の流れを見る。すると、悪霊達の動きが視野に入ってくる。軍勢の動きも見える。

 入り口から百メートル程も進んできた辺りに、大人が三人位でやっと手が回るような、ブナの大木が立っていた。紅色の鬼火の群は、先程から光一を遠巻きにしながら、彼の動きに合わせて移動している。渦を巻くように、上下左右にうごめきながら威嚇していた。

 ブナを中心にして直径三十メートルほどの鬼火の柱が、ぐるぐると巻いている。光一の恐怖心が読み取れないのだろう。今しがた仲間がやられたばかりだ。かかって行っていいものかどうか、迷っているのだ。

 ブナの大木にぴったりと背を付ける。顎を少し上げるような格好で、後頭部もピタリと幹に付けた。目を瞑る。ゴーッと、全身が振動するような音が背中に響いてくる。木が地下の深い処から、盛んに水を吸い上げているのだ。木はその時に大量の精気を放出する。その力強く新鮮な精気が、光一の身体にたっぷりと充填される。目を瞑ってこうしていると、このまま身体ごと大木の中に吸い込まれていくような気持ちになってくる。いつもそうだ。森が満たしてくれる。

 暗い森の遠いところで、武者達が走り回る怒濤のような足音が響いている。ワーッと、悪霊を追い詰める雄叫びが、あちこちの闇の中から聞こえていた。

 その時、一瞬にして強い悪気がすぐ身の近くに迫った。ズシーンと、一気に身体が重くなるような、嫌な気分に襲われた。全身に痺れが走る。強力な悪気だった。光一は堪らずに目を開けた。

 見ると、すぐ目の前の草むらからは数十の鬼火が立ち上がり、何十頭もの狂犬に姿を変えていた。そして中空に渦巻いていた沢山の鬼火も、襲いかかりながら生前の姿を現し、頭上の木の上からも、三・四十の鬼火が降るように襲いかかってきた。それら全ての鬼火が正体を現した瞬間だった。

 ブナに張り付いている光一に向かってくる。紅色の悪鬼の群が矢継ぎ早に正体を現し、炎のような長い尾を引きながら一斉に襲いかかってくる。そしてまたその後からも、次々と火の玉が飛んでくる。鬼火が飛び交う度に、ゴーッと空気を焼く音が不気味だ。

 それは闇の中から現れ、流れるような線を描いて飛んでくる。その夥しい数の赤い閃光は、まるで地上で花火が炸裂したような感じだ。太いブナの幹も木の葉も、紅色に染まっている。それらの赤い鬼火達は、光一のすぐ間近まで突進して来ると、突然スッと生前の正体を現し、食らいついてくる。

 目の前に無数のように現れる犬と猫。どれもこれも目が鋭く吊り上がり、闇の中でも不気味に光っている。それらが一斉に、そして次々に、光一の顔や首に、そして腹や足に食らいついてくるのだ。

 もの凄い数の悪霊だ。ほんの一瞬、恐怖心が湧いた。自分は大丈夫と信じていても、本当に大丈夫なのかと、疑ってしまう。それで思わず目を閉じた。何も見ない方がいい。そう思った。しかしそのとたん、体中に熱い衝撃が走った。ズシーンと、胸が重苦しくなる。

「ギャー・・・ キャイーィン・・・ クゥーン・・・」

 悪霊達の断末魔の悲鳴が、暗い闇の中に消えていく。遠いこだまのように、次々に聞こえていた。それは深い井戸の底で泣いているようにも聞こえる。反響のように遠のいていく。いかに悪霊とはいえ、次々と地獄に堕ちる有様はとても哀れだ。光一は俄に沸き上がった恐怖心を押し殺しながら、そう思った。

 光一の身体も、そしてブナの大木も、真っ赤な光を発し、足下の雑草までもが赤い鬼火の色に染まっていた。

 身体が熱い。ズシンと、全身が重くなったような気がする。足に根が生えたような感じだ。動けない。痛みはない。痛みはないが、身体が燃えるように熱かった。

 胸が焼ける。煮え湯を飲まされたような気分だ。気分が悪い。吐きそうだった。喉の奥から、熱い鉛が逆流してくるような感じだ。

 ちょっと前のめりにふらついたが、足に力を入れて、後ろの大木に背を押しつけた。吐きそうな気分を辛うじて押し殺し、胸いっぱいに深呼吸をする。すると次の瞬間には、スーッと吐き気が引いていた。

 年月を経たブナの精気が、あっという間に悪気を鎮めてくれた。どんどん身体が軽くなっていく。ブナの発する精気を夢中で吸い込む。そして、ゆっくりと息を吐く。それを何度も繰り返す。心地よい。一息ごとに回復していた。

 身体がたっぷりの木霊で満たされていた。深呼吸を充分に繰り返し、先へ進む。この先凡そ百メートル。目指すはどんぐりの森。そこに翔子が待っている筈だ。

 

 森沿いの道筋にはずっと向こうからこちらまで、点々とではあるが水銀灯が何本も立ち並んでいる。明るいオレンジ色の光がその小道を照らしていた。光一に言われた通りに、二人は車の中でおとなしく待っていた。

 光一が美濃守と一緒に森に消えてからも、暫くの間はまだ森を取り囲む何人もの鎧武者の姿が見えていた。兜の中は真っ黒なのに、それぞれの二つの目だけがギョロリと青く光り、甲冑を付けたその手には、抜き身の日本刀が下げられていた。そして武者達が動くたびに、その刀が水銀灯の強い光を反射してキラリと光る。これがいかにも恐ろしげだった。なにせ、本物なのだから。

 また長い槍の穂先をキラキラ光らせている武者もいたし、とにかく、博物館の展示室でしか見たことがない鎧兜が、目の前をガチャガチャ歩いているのだ。車の中から出るに出られなかった。

 その鎧武者達の姿も今は消えていた。いつの間に、光一や美濃守の後を追うように暗い森の中へと消えて行った。今は二階堂家の旗印だけが森の周りに立て掛けられたままになっていて、その脇では相変わらずパチパチと、篝火が弾けながら炎を揺らしている。あれからもう三十分くらいは経っただろう。もう九時半近くになっていた。待つ身は長い。

 玲子先生と陽子は車の中で身を寄せ合いながら、森の中はどうなっているのか気が気でなかった。だからといって車の外へは出られない。怖い。さっまでの恐怖心が、まだ余韻としてしっかりと心に残っていた。しかし気になる。とても気になる。とくに先生はイライラし始めていた。

「ねぇ陽子、どうなってるんだろうねぇ? 気にならない? 怖そうな人達もみんないなくなったようだしさぁ、ちょっと見てこようか? ちょっとだけ。ね? そこの入り口のところから、ちょっと奥の方を見るだけだったら、そんなに怖くないでしょう? その辺は明るいし、街灯も煌々とついているし、森の中が見えるかもしれないわ。ね? 行ってみようよ。心配だもの」

 この周りには、どこにもそこにも沢山のツルやツタが絡み合っていて、そういうのがぐるりと森を取り囲んでいる。中でもとくに大きく森を覆っているのが葛だった。

 葛は高く伸びて激しく盛り上がり、その大きな葉っぱが森を隠している。これはとても丈夫なツタで、何処にでも生えている。繁殖力がすこぶる旺盛なのだ。この森に限らずその辺を歩くと何処にでもある。森の端からこちらの道路の方にまで大きくはみ出していて、更に数メートルもの高さまで、周りの松や桜の枝を頼りに伸び上がっていた。

 しかし、藪のようにガサガサになって見えているのはほんの周りだけで、一・二メートルも森の中に入ってしまえば、あとは背の高い木がずっと奥まで生えているだけで、森の中はそんなに混み入っている訳ではなかった。

「駄目だよぉ、先生。光一君にあんなに止められているのにぃ。もう忘れたの?だぁーめ。ここで待ってましょう? ね? ねってばぁ。分かった?」

 陽子はきっとその内に先生はそう言い出すんじゃないかと思って、ひやひやしていたのだ。

「だって気になるよぉ。陽子ってば、気にならないの? 光一君がたった一人で、あんな不思議な人達と一緒にいるのよ? 武者達も奥の方に行っちゃったし、まさか、そこからちょっと様子を見るだけだったら、何も怖いことはないわよ。すぐそこだもの。ね? 私だけでもちょっと行ってみるから、もし陽子一人でここにいるのが怖かったら、光一君の家で休ませてもらってて。ね? 一人で行けるでしょう?」

 今車を停めている場所は、光一の家のすぐ裏側だった。台所の窓から家の明りが見えている。

 ついさっき、まだ武者達がいる間にも、車の目の前を男女の二人連れが駅の方へ向かって歩いて行ったばかりだった。篝火の炎も、森を取り囲んでいる何十人もの武者達の姿も、一般人には何も見えないらしい。今この目の前の森の中で、悪霊との戦いが激しく繰り広げられているなどとは、誰も想像もつかないだろう。あれほど不気味な沢山の鎧武者を見たばかりの玲子先生にも、まだ信じられないような思いがあった。昨日陽子も言っていた。キツネに馬鹿されているような気分とは、まさにこんな気分だ。

「嫌だよぅ。先生を一人になんてできないわよぉ。さっき光一君にも言われたんだからね。先生を頼むぞって。覚えてるでしょう? 絶対に駄目だからね」

 陽子はしっかりと先生の二の腕を取っていた。

 しかし結局は、玲子先生の情熱と強烈な好奇心には抗しきれなかった。先生は車から降りると、そろりそろりと楓の入り口に向かって歩いて行った。陽子も仕方なく腕を絡めながら付いて行く。二人ともへっぴり腰だ。光一に何度も教わったように、二人して深呼吸を繰り返しながら森に入った。

 暗い。何も見えない。しばらくして目が慣れてくると、ずっと遠くの木の陰のあたりに、上の方から薄い光が射しているのがぼんやりと見えてきた。よく見るとそんな感じになっている場所があちこちに見える。真っ暗な森の中がこんなになっているなんて不思議だった。月光の木漏れ日だ。

 静かだった。鎧武者の姿など、何処にも見えない。不思議なことに、つい今しがたまでうるさく鳴いていた虫の声すら聞こえてこなかった。森の中独特の、湿気った青臭い臭いがする。土の臭いと草の臭いが混じりあったような臭いだ。湿気を含んだ蒸れた空気が首の回りや顔にまとわりつく。暑い。森の中は、日中に溜まった熱気で蒸し返っていた。

 二人腕を組みながら、上下左右をキョロキョロと見回していた。真っ黒な空の所々に、少しだけ薄白い部分が斑に見える。いや違う。空はいい天気なのだ。その空の殆どの部分を大木の葉っぱが覆い尽くして、闇を作っている。薄白く斑に見える部分が空だ。

 そして数メートル進んで樫の大木に手をついた時、突然身体がヒヤリとした。二人とも思わず顔を見合わせていた。

「なに? なによこれ? ずいぶんヒヤッとするわね? どうしたのかしら?」

 木についた手がヒヤリとしたのではなく、身体が芯から、ヒャっと冷たくなったのだ。

「せんせー 戻ろうよー なんか怖くなってきたよぉ」

 その辺りから突然さっきの鎧武者が出てくるのではないかと思うと、陽子は気が気では無かった。

「大丈夫。さぁ陽子、この大きな木に身体を付けて深呼吸してみよう。光一君に教わったように。この木の精気を少し分けてもらいましょう」

 二人は腕を組んだまま樫の木に背を付け、深呼吸を始めた。胸の中に清々しい空気が流れ込んでくる。とても穏やかな気持ちになってくる。胸一杯に精気を吸い込み、そして、吐こうとしたその時だった。森の少し奥の方を、鬼火がよぎった。チラチラと見え隠れしているのは、周りにある沢山の木の葉のせいだろう。

「先生、あれー やだぁー なによー 怖いよぉー」

 陽子は遠くを指さして叫ぶとすっかり震え上がり、先生の胸にしがみついていた。玲子先生も陽子を抱きしめながら、ありったけに目を見開いている。結界の中に入っていた。

 今の今まであんなに蒸し暑かったのに、ここに来て急に空気が冷たく感じられるのも、今ここには沢山の霊気が渦巻いているせいなのだ。

 どこか遠くの方から、ワーッという雄叫びのような声が聞こえてきた。そしてもっとよく見ると、すぐ先の木々の間を縫うように、赤や青の鬼火が幾つも飛び交っていた。二人は抱き合ったまま声もなく、その場にへたり込んでしまった。

 

 光一の周りには相変わらず沢山の鬼火が飛び交っていた。前後左右、頭上にも、それは五・六個ずつが固まるようにして、遠くなったり近づいたり、あちこちに激しく移動しながら揺らめいている。

 そして、一つの鬼火の群は地べたを這うように、もう一つの塊は頭上の高い処から、狙いを定めて襲いかかってくる。何とかして光一の心の隙間に入り込もうというのだろう。しかしそれらは攻撃を試みる度に光一の身体に吸収され、虚しく奈落の底へと落ちていった。

「ギャォー・・・ キャンキャン。クーン」

 一度に何十もの悪霊が、哀れな泣き声を残して闇に消えていく。悲しいだろう。悔しいだろう。自ら選んだ道じゃない。あの世に輪廻があるのなら、今度生まれてくる時には、心ある飼い主に見つけてもらうがいい。暗い奈落に悪霊達を送りながら、光一はそう心で念じていた。

 光一もすっかり無情のコツは掴んでいたが、悪霊が飛びかかって来る度ごとに、身体には熱い衝撃が走る。光一自身はそれほど激しく動いている訳ではないのに、酷く疲れ、息が上がる。悪霊を吸収するということは、相当の体力を消耗するものらしい。

 疲労が深まったとき、心に隙ができるかもしれない。それはとても危険なことだった。悪霊に取り込まれてしまう。なるべく大木が側にあるような場所を選びながら歩いていた。大樹の側にいると回復が早まる。木に触れればもっと早まる。

 闇を透かして遠くを見ると、武者達の青い霊火が悪霊達の紅い鬼火を取り囲んでいるのが見える。追い詰めている。結界の輪の様子が見てとれた。

 結界の輪はだいぶ狭まってきているようだが、それでも場所によっては、まだずっと遠くの藪の陰にいる者も幾つか見える。悪霊達も必死で逃げているのだ。それで結界の囲みの線が、あちこち不揃いになっているのだろう。悪霊達も逃げながらしぶとく反撃して来るのだが、最早それは無駄なあがきのようにみえた。

 翔子のいるどんぐりの森まであと三・四十メートルほどの処まで近づいていた。それはすぐそこの筈なのだが、立ち並ぶ大木と茂みが障害となって、はっきりとは分からない。でも凝視すると、悪霊達の鬼火の密度がある部分だけ濃いのが見える。そこにだけ沢山の鬼火が集まり、ゆっくりとざわめくように燃えている。暗黒の森を不気味な紅色に染めて、巨大な火の玉のようにも見える。たぶん翔子はその中心にいるのだろう。

 そして光一があと二十メートルほどのところまで近づいた時、翔子がいる場所に漂っていた沢山の鬼火が大きく広がり始め、渦を巻きながら突然左に移動を始めた。

 大木の並木を盾にでもするかのように、その後ろに回り込み、そしてそれはなかなかの速さで移動を始めた。その時、中心にひときわ紅く光る鬼火が見えた。中空で揺れている。あれが翔子だ。それを取り囲みながら、鬼火の群れが左へ左へと移動していく。それは光一から逃げているようにも思える。きっとそうなのだろう。それを見て、右手後方に散らばっていた武者達の鬼火が、追いつめるように集まってくる。

「ウォー・・・」

 青い火の玉が叫び声を上げ、飛び跳ねるようにして突っ込んで来る。その声はとても頼もしく、そして気のせいか、楽しげにも聞こえる。

 どんなに酷く悪霊達に噛まれても引き裂かれても、二度と死ぬことはないからだろうか。それとも四百年ぶりの交戦に、武者達の心が殊更躍っているせいなのか、随分と張り切っているらしいのが分かる。

 走り込んでくる幾つもの青い鬼火が長い尾を引きながらすぐ近くまで来ると、スーッと色が薄れてくる。同時に甲冑を付けた鎧武者が次々に姿を現し、闇に浮かび上がる。それぞれが手には槍や刀を握っている。

 その得物を振りかざした姿が、闇の中にフッと浮かんでは、また鬼火となって遠退いて行く。その様子はとても幻想的で奇麗だった。いよいよ大詰めに入ったようだ。

 そのように、ゆらゆらと揺れながら遠のいて行く武者達の鬼火を目で追っていたとき、その去っていく鬼火のずっと奥の方から、別な鬼火が一つ青い尾を引きながらこちらに向かって飛んでくるのが見えた。

 右へ左へ木々の間を縫いながら、そして上下に波打ちながら、長い尾を引いて飛んでくる。鬼火は光一の目の前でスウーッと薄れると、一人の鎧武者が生前の姿でそこにいた。

「伝令。伝令でござる」

 伝令の武者は光一の前に片膝をつくと、鉄の兜をグイと上げてこちらを見た。禍々しい目が油のようにギラリと光った。闇を震わすような大きな声だった。フウフウと、肩で息をしている。見るからに重そうな甲冑を着て、この森の中を走り回っているのだから息も上がるだろう。

「拙者、長沼彦左衛門と申す。総大将よりの伝令を持って参った」

 総大将とは馬に乗っていた老体、須田美濃守盛秀のことだろう。

「つい先程、森の入り口南側付近にて、お主と関わりのある女人が二人、悪霊共に捕らわれたとの事。至急おいで願いたい。拙者がこのまま御案内致す。いざ、付いて参られい」

「え? なんですって? 先生と陽子が? はい、分かりました。行きましょう」

 びっくりした。武者について走る。地面には松や椚の太い根っ子が、にょろにょろと長く隆起していて、その周りには竜の髭がびっしりと生えている。目を凝らし、気を付けて走らないと足を取られる。天空より射し込む僅かな月明かりだけが頼りだ。

 右へ左へ暗い森の中を飛び跳ねるようにして走っていく。前を走る武者との距離がちょっと開くと、武者はスーッと鬼火に変わる。そして近づくとまた、スッと目の前に鎧武者が現れ、前を走っている。武者は足を踏み出すごとにガサゴソと、鎧のずれる音を出していたが、思ったよりも素早い走りだった。

 なんて事だ、あれ程言ったのに。それもよりによって二人共とは。どうしよう。どうすれば助けられるんだろう。見当もつかない。光一は走りながらも考えを巡らせていた。

 美濃守を中心にして、その他二十人ほどの武者達が待っていた。美濃守の馬が、すぐ脇の松の枝に繋いであった。

「おぅ、来たか。厄介なことになってしもうたぞ」

 そう言いながら美濃守が差す采配の方を見ると、数本の木が重なり合っている茂みの向こうから、翔子がギラギラ光る目でこちらを見ていた。そしてその周りには、十個程のひときわ大きな紅い鬼火が浮遊している。最早あらかたの悪鬼は退治され、特別に凶暴そうなものだけが残っているようだ。

 薄紅色の着物に島田髷。悪霊にとり憑かれた女、翔子。紛れもない、暮谷沢の女だ。ほんの十メートル程先にいる。

「総大将、どうしたらいいのでしょうか? このままそこにいる悪霊に突っ込んで行ったのでは不味いのですね?」

 闇の向こうでは、翔子が鋭くこちらを睨みつけている。その他には悪霊の怨念が旋回しながら浮遊しているだけで、先生と陽子の姿は見えなかった。たぶん翔子の中に取り込まれているのだろうと思った。

「それではあの二人の魂もろとも、黄泉の国へ送ることになってしまう。見ろ、あのふてぶてしい目の色を。悪鬼め、そのことを知っておるから、あのように悠々と構えておるのじゃ。くそ、憎々しいヤツめ」

 美濃守は悔しそうな顔で言っていた。

「二人は、やはりそこにいる悪霊の体内にいるのですね?」

「いや、正しくはそうではない。その悪霊の身体は、お主の身体と同じように、暗黒の世界への入り口にすぎないのじゃ。ただ違うのは、お主の場合は安らかな黄泉の国へ送るか、地獄へ堕とすか、その相手によって自ずと切り替わる。ところがヤツの場合は、彷徨える暗黒の世界への片道通行あるのみなのじゃ。なにせ、元が悪鬼の塊じゃからな。二人はおそらく、その入り口辺りにいると思われる。それにしても、我らとお主が手を組めば、あのようなものなど難なく始末できる筈じゃったのだが、少々甘く見過ぎたのかもしれぬ。くそ、どうしてくれよう。方法があるとすれば、そこな悪霊を地獄へ落とす前に、その心の内に入り込めればうまいのじゃが、そんな都合のいい方法があるかどうか。どうじゃ、お主出来ぬか?」

 森中に散らばっていた武者達の殆どが集まり、ぐるりと遠巻きに翔子を囲んでいた。その数三百。この狭められた囲みからは、最早逃れる術はないだろうが、玲子先生と陽子が人質に取られた。手が出せない。そして、あの恐がりの陽子がどうしているかと思うと、気ばかりが焦ってしまう。

 悪霊の生き残りだろう、翔子の周りには相変わらず十個ほどの紅い鬼火が、ぐるぐると波打ちながら旋回している。ひときわ大きな鬼火ばかりだ。旋回しながらこちらに近づいた時、その深紅の炎の中に、獣の吊り上がった目が形になって現れる。なんて不気味なんだろう。

「凡そ百ほどの畜生霊の内、七十ほどは既に地獄へ逝った。二十ほどは自滅して堕ちた。そこにいるのは最後の残りじゃ。ええい、忌々しい。刻限も迫っておるし、どうしてくれよう。どうじゃ、何か良い手だては考えつかぬか」

 美濃守は悪霊共とさほど変わらないような目を剥いて、怒鳴り散らしていた。

 十時を少し回っていた。光一は先程からじっと翔子を見ていた。翔子のおぞましい目の光りに負けないほどの強い意志を持って、しっかりと睨み付けている。

 先日翔子が健一を取り込んだ時。あの時、昼間の森の薄い精気の中でも、気を計ったら翔子に届いた。あの時よりも更に強く気を飛ばしたらどうだろう。もしかしたら、翔子の心の中の二人に届くのではないか。ましてや今は、木々の精気が芳醇に溢れている夜の森にいるのだ。気が通じれば心が通じる。そして、翔子の中にある暗黒の世界とこの世との間にも、道が通じる筈だ。

 あの時と今とでは、森の精気の量がまるで違う。集中すれば際限なく気を高められる。二人の内先生だけでも、心を静めて気を発してくれていればいいのだが。あの先生のことだ、きっと分かっているに違いない。取り敢えずやってみるしかない。

 右斜め前方に楠の大木が立っていた。樹齢凡そ四百五十年。木の脇に高札が立っている。町の天然記念物に指定されているものだ。大きく、高く、そして四方八方に張り出した沢山の枝葉が、分厚く黒い大傘のように辺り一面を覆っている。この大楠だけは悠久の時の流れを知っていることだろう。

 大楠に向かってゆっくりと歩を進めていく。地上に盛り上がっている根の瘤を跨ぎ、翔子の目を真っ直ぐに見据えたまま進んで行く。翔子もその目を爛々と光らせて、こちらを睨んでいた。

 空気が凛と張りつめ冷えている。武者達の結界の緊張も頂点に達していた。翔子を包囲している大きな鬼火の輪が、めらめらと燃え立つように青く光っていた。光一の身体からもいつの間に、ボゥッと湯気のような燐光が立ち上がり、薄青く光って見えていた。周りの全ての気が張りつめている。

 斜めに進んで行く。光一の歩みに合わせて、翔子も、ジリッ、ジリッと、身体の向きを変えていく。周りを旋回している悪鬼達も、そのスピードを少し上げた。

 今度ははっきりと見てとれた。島田髪に赤い簪。紅模様の入った単衣を着て、薄い茶色の帯を締め、素足に赤い鼻緒の下駄を履いている。

 鼻筋が通り、とても整った顔立ちに思えるが、その目の光だけは、取って付けたように悪霊のものだった。鋭く睨んでいる。獣の目つきだ。その鋭くおぞましい目からは、紅い光りが放たれている。怨念の紅だ。

 距離が縮まる。旋回する鬼火達がその動きを止め、散った。そしてスーッと、正体を現す。すぐ左側に広がる藪の中に、散開した六匹の狂犬が牙を剥き、涎を垂らし、身を低く構えて威嚇している。

 鼻の上にボコボコと皺を寄せ唸っている。つり上がった鋭い目と紅い口が、さも凶暴そうだ。あちこちの闇から低く唸り声が聞こえる。恐ろしい声だ。すぐにも飛び掛かって来る気配がする。

 正面の木の上には四匹の大きな化け猫が爛々と目を光らせ、それぞれに身を乗り出していた。高く持ち上げた尻を小刻みに左右に振っているのは、今にも飛びかかっていくぞという戦闘態勢だろう。

 どれもが今までのものより二周りも身体が大きく、唸り声が不気味だ。この森に入ってからというもの、もう鬼火には慣れていたが、このような間近でこれだけ獰猛そうな悪霊の正体を見ると流石にぞっとする。怖い。背筋がゾクリとした。

 楠がすぐ目の前のところに迫った。そこまで行ってしまえばもう大丈夫だ。光一にとっては、百万の味方を得たようなものだ。そう思って気を散らした瞬間だった。化け猫が四匹、一斉に飛びかかってきた。それぞれ離れた木の上から、ほんの少しずつ時間差をつけて跳躍してきた。

 首と腹を狙ってきた。気を集中して振り払おうとしたが遅かった。真後ろの地べたに、もんどり打って叩き付けられた。盛り上がっている木の根っこで嫌というほど背中を打った。痛い。

 しかし痛がっている暇などない。歯を食いしばり焦って脇の藪を見ると、すぐ目の前に巨大な黒犬が狙っていた。目が合った。瞬間、ドキリとする。

 怪猫に襲われた首と腹が熱い。幸い気力がまだ充分に残っていたらしく、肉は破られてはいないようだ。しかし、そこに続けざまに化け犬が飛びかかってきた。立ち上がる暇がない。まずい。本当に恐怖に襲われた。

 寝そべったまま目を瞑り、歯を食いしばった。両手の握り拳に力を込め、ありったけの気を放つ。破れかぶれだ。

 その瞬間、今まで薄青かった光一の身体がグンと青さを増した。寝そべっている土の色まで緑色の光を放ち、陽炎のようにゆらゆらと揺れている。

 狂犬は闇に響く唸り声を上げながら、ここぞとばかりに襲ってきた。光一の顔と首、両方の足の付け根と腹を食いちぎろうとしている。しかし、勢いよく食らいついてきた六匹の狂犬は、その緑の中に溶ろけるようにして消えていく。

「ギャー・・・ 」

「キャーン・・・」

 胸に熱い衝撃が走る。身体の芯が焼ける。熱い。急いで膝で立ち上がったが目眩がする。さっき打った背中がズキンと痛む。それでも這うようにして、どうにか楠にしがみついた。

 スッと、身体が軽くなる。ゆっくりと立ち上がり、そのまま大楠を背にして急いで呼吸を整えた。背中の痛みも急激に和らいでくる。

 翔子との距離、凡そ五メートル。二人とも真っ直ぐに見合っていた。遠巻きに武者達の人垣が出来ている。逃げ場はない。そして光一も、後には引けなかった。

 楠にぴったりと背をつける。大きく息を吸い込むと、大楠の精気が体中にみなぎってくる。その精気を逃がさないように、空気だけを吐く。ゆっくりと吐く。すると身体が力強く木霊で満たされてくる。

 翔子を、いっそう鋭く睨み付けた。翔子の目の光が、ほんの一瞬たじろぐ。翔子は負けまいとして睨み返しているが、それでもまた次の瞬間には、うろたえるような目の色になっている。

 あのときと同じだ。健一のときと。迷っているのだ。光一に救って欲しい翔子の心と荒んだ怨霊達の心が、翔子の心の中で争っている。その陰と陽との(せめ)ぎ合う様子が、目の色に現れていた。

 翔子も戦っていた。怨霊達に心を奪われまいと、必死に戦っているのだ。そこにいるのは翔子ではない。獣だ。負けていない。入り込めると思った。

 光一は再び目を閉じた。胸いっぱいに精気を吸い込む。ゆっくり吐く。そして、もう一度。数回繰り返し、集中する。気が最高点に達していた。

 ゆっくりと、両方の手の平を前に突き出す。そして目の前の翔子に、ありったけの闘気を放った。

 ブンという鈍い響きがあり、森が震えた。大楠の木霊が光一の身体を通して、束になって飛んでいく。太い緑の光線だ。光一の身体も緑色に光り、ゆらゆらと湯気のような精気が立ち昇っている。

 翔子は光の束に貫かれ、硬直したまま立ち竦んでいた。

「先生、陽子、無事か? 返事をしてくれ」

 闇に気を放つ。手探りのように放った。

「玲子先生。陽子」

「あ、光一君。私、私よ。玲子よ。ごめんなさい。助けて。陽子もいるわ、無事よ。でも動けない。何処にいるのか分からない。真っ暗なの。目を開いているのに何も見えないの。怖い。助けて。ごめんなさい」

 そこで、カッと目を開いた。光一の気の束を全身に受けた翔子は感電したみたいに硬直していたが、そこで我に返った。目が恐怖の色に変わっている。そして、スッと後ろに腰を捻り逃げ腰になったが、その時一瞬早く、光一は尻で後ろの楠を蹴るようにして、一気に跳躍していた。

 一歩、二歩。二歩目で土を蹴り、思い切りジャンプした。

 身体が空中に浮いた瞬間、左右の木の上で構えていた四匹の怪猫達が一斉に飛び掛かって来た。それぞれに光一の足と腕を狙ってくる。血走った目と真っ赤な口で、唸りながら食らいついてきた。しかし、今や気力が最高点に達している光一には、微塵の恐怖心も湧かなかった。それは何の苦もなく闇へと消えていった。

「ギャァー・・・」

 悲しげな断末魔の声が四つ、深い奈落へ堕ちて行く。暗い底なしの冥界へ、きりもみのように遠のいていった。

 翔子は身体を捻りながら、半分後ろへのけぞるような格好で片手を前に突きだし、光一を防ぐような恰好になっていた。その華奢な身体の上に、光一の長身が容赦なく被さっていく。そしてスッと、光一の姿が翔子の中に消えた。

 そこは真の闇だった。黒だけの世界。目の前にかざした筈の、自分の手さえ見えない。あの世とこの世の狭間の空間。静かだ。心を無にして柔らかく気を放つ。掴まって欲しい。光一は強く念じていた。

 いた。身近に感じる。ホッとした。もう大丈夫だ。玲子先生の気が呼びかけている。側に陽子もいるのが分かる。二人の心の震えが伝わってくる。目で見るよりもはっきりと、その姿が見えていた。

「光一君。光一君、助けて。お願い。もう決して勝手な事はしないから、助けに来て。お願い。怖い」

 玲子先生が呼んでいる。

「光一くーん、怖いよう。たすけてー 約束したでしょう、一人だけで逃げないって。助けてよー 怖いよー 光一くーん」

 陽子はこんな処に来ても、まだあんな事を言っている。二人とも思ったよりも元気そうだ。

「バーカ、いつだって一人で逃げたりしないだろう。何ぴーぴー泣いてんだ。まったく、世話ばっかり掛けて。困ったもんだ」

 そう言って、抱き合っている二人の両肩に手を掛けたとたん。鬱蒼と空を覆う大楠の下にいた。無限地獄の入り口から今、現世に戻った。重なり合う木の葉の隙間から、金色の月光が三人を照らしている。ここにも月光の木漏れ日が差していた。そしてその傍らには、翔子が呆然とした表情で座り込んでいた。

「あーん、光一くーん」

 陽子ががむしゃらにしがみついてくる。

「あ、光一君。怖かったよー あーん、ごめんなさい。私が悪かったのよぉー ごめんなさーい」

 玲子先生までが、光一にしがみつきながら泣き出してしまった。よほど怖かったのだろう。助かったと分かって、気が緩んだのかもしれない。周りには美濃守以下三百の武者達が大きく取り囲み、その様子を見下ろしていた。

「見事な働きであった。どうなる事かと思ったぞ。これでわしも、殿に対して面目がたつわ。礼を言うぞ」

 老武者の大きな声が森に響く。美濃守を取り巻くように、すぐ近くには二十人ほどの武者達の姿があった。側近の武将達だろう。

 真夜中の森の中に、眼光鋭い何十人もの鎧武者の姿はいかにも恐ろしげなのだが、今はとても頼もしく見えた。そしてその甲冑姿を、上空の木の葉を縫って降り注ぐ細い月明かりが、怪しい色に染め上げていた。

 またそれよりも遠く離れたあちこちに、木の間隠れに数百の鬼火が揺らめいている。森中が青い燐光色に染まっていた。墨のような暗闇を、揺らめきながら青く染めているその光景は、正に幽玄の世界だ。

 それらの沢山の鬼火が小刻みに揺れているように見えるのは、勝利に満足して武者達が笑っているせいなのかもしれない。

 すぐ近くに美濃守のしわがれた大声を聴いたとたん、二人はドキリとしたようだった。まさか周りがそんな事になっていようとは、夢にも思っていなかったのだろう。素速く首を回して辺りを見回すと、可愛そうに、二人とも声も出なかったようだ。身体を硬直させ、益々がっちりと光一にしがみついてきた。

「さて、戦は終わった。我らも久しぶりに飛び回り、実に愉快であったぞ。そちのお陰じゃ、重ねて礼を言う。後の事は造作もないであろう。任せたぞ。者共、引き上げじゃ。隊列を組めい」

 森中に、おぉーっと言う歓声が響くと、麗子先生と陽子はひぇーっと、情けない悲鳴を上げた。沢山の鬼火が長く尾を引き揺らめきながら、整列を始めた。

「総大将、暫く。お待ち下さい」

「ん? なんじゃ」

「造作も無いって、一体どうすればいいのでしょう? 僕にはどうしたらいいのか分かりませんが? 教えて下さい」

「そうか。分からぬか。そのおなごからは既に悪霊は抜けておる。最早ただの小娘じゃ。それは分かっておるであろう」

「はい」

「間もなく黄泉の国へ旅立つ刻限が来るが、その前にその娘は、自らあの暮谷沢の無縁墓地へ戻る筈じゃ。そなたも此より暮谷沢に行き、そこな娘を静やかにあの世に旅立たせてやればよい。やり方は知っておる筈じゃ。今までと同じでよい。その娘も散々嫌な思いをした筈じゃ、安らかに送ってやるがよいぞ。刻限が迫っておる。急げ。さらばじゃ」

 それだけ言うと、馬上の美濃守は鬼火と変わり、スーッと長い尾を引き流れ始めた。そして大木の間をひらりひらりと縫いながら、森の出口の方へゆっくりと飛んで行った。そしてその後を、三百の鬼火が幾つもの束になって飛んでいく。森の暗闇を薄青く染めて、沢山の鬼火がふわふわと流れていく。道筋にある暗色の木立も、葉っぱも、青い燐光色に染まって見える。綺麗な眺めだった。

 十一時を少し過ぎていた。さて、玲子先生は車の運転はできるだろうか。もし無理のようなら、自分一人で自転車で行くつもりだ。家はすぐそこだし、暮谷沢までなら自転車で行っても十分とかからない距離だ。

 二人は相変わらず光一にしがみついて震えている。震えながらも、恐る恐る鬼火の流れを見ていた。その二人の背中越しに、翔子がじっと光一を見ている。その目の光は先程までとはまるで違っていた。とても優しく、すがるようで、また、寂しそうにも見えた。

 光一と目が合うと静かに俯き、そして、消えた。するとそこに、薄くボォッと青白い火の玉が浮かび上がり、今しがた武者達が飛んでいったのと同じ方向へ、ゆっくりと流れていった。きっと暮谷沢へ戻るのだろう。

「さぁ二人とも、もう済みました。大丈夫? しっかりして。立てますか?先生、陽子」

 二人が両側からしがみついているものだから、三人で草の上に跪いていた。二人の背中に手をやりながら立たせる。陽子は大分ふらふらしていた。無理もない。ずいぶん怖かったことだろう。

 思い返せば、光一は楽しかった。あれ程沢山の幽鬼を相手にしての戦いは、正直に言えば心の芯はまだ小さく震えている。しかし改めて振り返ってみると、何だかお伽噺のヒーローになったような気分だった。ずっと昔の子供の頃に、こんな日が来ることを夢見ていたような気もする。

 三千代姫に大乗院。須田美濃守盛秀に岩桐藤内左右衛門。沢山の鬼火と鎧武者。夢ではない。つい今しがたまで戦っていたあのおぞましい悪霊達でさえも、もう愛おしいような感じがしている。全てが胸躍る経験だった。

 おそらくこんな事はもう二度と無いことだろう。古の姫君や殿様と話ができたのだ。あの不気味な悪霊達を相手にして、三百人の侍達と一緒にこの森の中を走り回ったのだ。思い出してもわくわくする。

「光一君、ありがとう。私もう駄目なのかと思ったわ。あのまま戻れないのかと思っちゃった。何にも見えない世界って、凄く怖いものよ。先生が一緒だったからまだ良かったけど、それでもあれ以上あそこにいたら、私きっと気が狂ってたと思う。健一君は子供なのによく我慢できたと思うわ。ありがとう、光一君。命の恩人ね」

 陽子は光一の腕に縋り、いつになく神妙な言い方で話していた。

「光一君、ほんとにごめんなさい。陽子は悪くないのよ。陽子は一生懸命に止めたのに、私がどうしても行くって、無理矢理森に入ってしまったの。馬鹿だったわ。大変な事になるところだったのね。ほんとにごめんなさい」

 玲子先生までが神妙な物言いだった。今となれば、光一自身はそれ程大変な事だとは思っていないので、思わず笑ってしまう。

「大丈夫ですよ。結局何事も無かったんですから。さて、それより早く暮谷沢へ行ってやらないと、翔子さんが成仏できなくなっちゃいます。先生と陽子はもう家に帰っていて下さい。後は僕一人で決まりを付けます。明日ちゃんと報告しますから。いいですね?」

「・・・ そんな・・・ そんな、お願い」

 玲子先生は光一の顔をまじまじと見つめ、手を合わせている。つい今しがたとんでもない事件を引き起こしたばかりで、その舌の根も乾かない内だから、いつものように強くは言えないのだろう。哀願するような、情けないような瞳がそう言っていた。また、先生のそんな気持ちがよく分かるので、よけい可笑しかった。

「疲れたでしょう? もう帰って休んだ方がいいと思ったんですが、どうしても行きたければ構いませんよ。今度はもう、さっきのような恐ろしい事は起こりませんからね。一緒に行きますか?」

「はい、行きます。ありがとう」

 とてもいい返事だった。まださっきの涙がまとわりついている大きな目が、ニッコリと笑っている。美人先生だ。それにしても、今ではすっかり先生と生徒の立場が逆転していた。

「陽子は帰れ。いいな。風呂にでも入って、ぐっすり眠るといい。分かったな?」

「やだ。なによ。どうして私にばかりそんなに冷たく言うの? 酷いよ。先生が行くんなら、私も行く」

 先生に負けないほど大きな目で言っている。光一は呆気にとられてしまった。

「お前さぁ、怖くないの? つい今の今まで腰抜かしてたくせに、どうなってんの?」

 当然帰ると言うものだと思っていたのに、この二人は何なんだろうと思う。まだ懲りてはいないみたいだ。

「やだ。腰抜かしてたなんて、変なこと言わないでちょうだい。そんなことないよ。ちょっと疲れたから座ってただけ。もう治ったよ。シャンとしてますよーだ。だって、こんなに散々怖い目に合わされたのよ。今度は最後の最後なんだもの、絶対立ち会ってみたいよぉ。例えば小説だって、長々と読んできてよ、最後の一ページだけ読まなかったら気持ち悪いでしょう? そんなの大損だよ。それに今言ったじゃない。もう怖いことは起こらないって。そうなんでしょう?」

 損とか得とか、そういう話しではないと思うのだが、相変わらずの陽子に戻っているのが嬉しかった。

「ああ、もう何もおこらない・・・ と思う。そんな気がする」

「なんでー 気がするって何よぉー はっきりしてよぉ。もう大概の事じゃ驚かないからね」

 変われば変わるものだ。この弱虫が、すっかり開き直っていた。しかも、涙をこすった目の周りを赤くしながら食い下がっているのが可笑しかった。

「そんなこと言ったって、僕にだってよく分からないんだよ。ただ少なくとも、悪さをするような悪霊は、もう全部いなくなったってことさ。まぁ、とにかく時間が無いんだ。分かったよ。行きたいんなら構わない。すぐに行こう。大至急だ」


 十一時二十分。この前と同じように、暮谷沢の手前の空き地に車を停め、三人で歩いている。右側を流れる渓流が、サーサーと涼しげな水音を流していた。暗い。ここは相変わらずだ。細い間道には、崖の上から沢山の木の枝が覆い被さっている。天空には大きな月が出ている筈なのだが、見上げても何も見えない。藪のあちこちから、早鳴きの虫の音が聞こえている。三人の足音が近づくと鳴き止むのだが、通り過ぎたすぐ後ろから、また後を追って聞こえてくる。

 左側の崖の上に三千代姫の御堂がある。今回の結末には満足してくれただろうか。きっと大丈夫だろうと思う。あの優しい微笑みが目に浮かんだ。前を行く二人も小声で話しながら御堂を見上げている。たぶん同じ様な事を話しているのだろう。

 御堂の下を通過した。感じる。もう強い霊気が伝わってきていた。立ち止まり、二人にその事を告げた。

「翔子さんの霊気ね? そうなんでしょう?」

「はい、そうです。でもこの間とは大分感じが違っています。とても穏やかな霊気に変わっています。それにとても強い。憑き物が落ちたからでしょう。気が落ち着いています。とっても和やかな霊気ですよ。あれ? もう一人います・・・ この気は、生きた人間です。誰だろう?」

 ちょっと不安な気持ちになる。もう時間が切迫していた。ここにきて余計な問題が起きては困ると思った。

 切り立った崖の道が大きくカーブしている。足下は暗くて危なっかしいが、右側の渓流沿いに作られているガードレールがぼんやりと見える。その頼りない白を目印に歩いていく。

 こんな時は直接目標物を見るよりも、少し視線を外したほうがよく見えるものだ。そして更に、目で見るよりも感じた方がうまくいく。

 緩い右カーブをゆっくりと歩いていた。すると少し遠くに、ポッと小さな明かりが見えた。真っ暗闇の視界が開けたのだろう。一歩ずつ進むごとに、岩の陰から祠への視界が開けているのだ。明かりが、二つ、三つと増えてくる。小さな明かりが、点々と揺らめいて燃えていた。

 ローソクの明かりだった。その淡い明かりの周囲だけ、岩肌や石碑の一部が、黒く浮かび上がって見える。とてもささやかだが、その(はかな)げな灯の色が闇の奥行きを示しているようだ。

 暮谷沢の祠にお灯明が灯されていた。さっき感じた人の気配は、あのおばあちゃんに違いないと思った。二、四、六、八・・・ 全部で十二本。いつもと同じだ。そして、おばあちゃんがそこにいた。妙見神社の神主の奥さんだ。

 三人は祠の十メートルほど手前で立ち止まった。道路際からほんの一間ほど先にある祠までは、大きな一枚岩の橋が架かっている。そしてその橋の両側には、おもちゃのような低い欄干が、やはり石造りで緩い弧を描いて架けられていた。

 おばあちゃんはその低い欄干に腰を掛け、向こうを向いて座っていた。そしておばあちゃんのその目の前には、青白い鬼火がひとつ揺らめいている。

 離れて見ていると、鬼火はじっと留まったり、時に軽く揺らめいてみたり、色が濃くなったり、ちょっと薄れたり、まるでおばあちゃん相手に、何か話しでもしているような感じに見える。きっと、そうなのだろう。

 このような光景を目の当たりにすれば、今までであれば陽子も玲子先生も、大変なパニック状態になっている筈なのに、先程まで数百もの鬼火の中を潜ってきた二人には、その青い鬼火は、今更それ程奇異なものとは感じなかったようだ。

 慣れか。ショック療法のようなものか。もしくは一種の催眠状態のようなものだろうか。あの特別恐がり屋の陽子でさえ、驚きの声ひとつ出さなかった。もっとも、鬼火の正体が分かっているせいもあるだろう。

 それでも先生と陽子は光一の左右の腕に掴まって、深呼吸を繰り返している。息を吸う音は殆ど聞こえないが、吐く息が、フーッとか、ハァーッとか、聞こえている。

 光一が夜の霊気を大きく吸い込んで、そして静かに吐いていくと、鬼火がスーッと掠れるように消え、そこにはついさっきドングリの森で見たばかりの、島田の髪に赤い簪、単衣の着物を着た翔子の姿が浮かび上がった。やはり、もう戻っていたのだ。こんなに痩せていただろうか。その顔は嬉しそうだが、少し弱々しく見えた。

 翔子にとってはこの場所が始まりであり、そして終わりの場所なのだろう。とても優しく、そして楽しそうで、でもちょっと困ったような顔色にも見える。先程の森での、鋭く凶暴な色はまるで消えている。三人が近づくと、目を伏るようにして佇んでいた。

「先程は大変失礼を致しました。あのような浅ましい姿で・・・ 本来なら会わせる顔も無いところなのですが、恥ずかしながら、もう一度お縋りするよりございません・・・ なんとお詫びを申し上げたらよいのか。申し訳ございませんでした」

 目を伏せたまま消え入るような声で、深く頭を下げていた。始めて聞く翔子の声は、小さな声だが心地よい響きがあった。着物姿によく似合った、昔の女の声だと思った。

 こうして間近で見ると、眉が細く肌の白い、綺麗な人だ。でも首も身体もずいぶん細くて、大変儚げな姿に見えたが、考えてみれば、彼女はとっくにこの世の人では無いのだ。儚くて当たり前なのかもしれない。

「あぁ、先生。それと、光一君に陽子ちゃんだったよねぇ。来てくれたんだねぇ、ありがとう。待ってたんだよ。あんた達にはとってもお世話になったって、今翔子ちゃんから話を聞いていたところだよ。あたしからも御礼を言わせて頂きます。ほんとうにありがとう。お陰でこうして、翔子ちゃんともちゃんと話が出来たし、なにしろ五十年振りだからねぇ。懐かしくて、嬉しくて・・・ ありがとうねぇ」

 おばあちゃんはこちらを振り向いてそう言うと、濡れた目頭に指を当てていた。

「今までのご無礼の数々、重ねてお詫び申し上げます。言い訳がましくて申し訳ありませんが、私には分かっていながらどうしようもなくて・・・ 不本意ながらも、あのような恥ずかしい姿を・・・ どうぞ、ご勘弁下さいまし」

 翔子はそこまで言うと、また深々と頭を下げていた。そして、

「お陰様で、やっと正気に戻ることができました。全て皆様方のお陰でございます。本当に、ありがとうございました」

「いいのよ、翔子さん。気にしないで。あれは貴方の意志ではなくて、全ては悪霊達の仕業。そのことはよく分かっています。だから気にしないで下さい。ねぇ、陽子」

 先生の声が少し弾んでいた。恐る恐る、そして嬉しくて、でもドキドキ、のような話し方だ。

「そうです。それに結局は全部うまく行ったんだし、もう何も気にする事はありません」

 陽子は光一の腕に自分の腕をしっかりと絡めて話している。しっかり過ぎて痛いくらいだ。

 二人とも目がキラキラ輝いている。今度こそ、確かにあの世の人と話をしていると言う現実に、胸がときめいているようだ。

 特に玲子先生は興奮している様子だった。顔つきで分かる。目に星が光っていた。

 それなのに二人とも、両側から光一の腕をがっちりと掴んだままで、それでいて光一よりも、一歩前へ身を乗り出すようにして話していた。

「一時はどうなることかとはらはらしましたが、何はともあれ、間に合って良かったですね。もう時間が迫っています。おばあちゃんともお名残惜しいことでしょうが、そろそろお送りしたいと思います。心の準備は宜しいでしょうか?」

「はい、ありがとうございます。先程から母も迎えに参っております。どうぞ宜しくお願い致します」

 消え入るような声なのだが、翔子の声はとても明るく嬉しそうだ。それでも心做しか、目が潤んでいるように見えた。

 思えば母娘、一日違いでその命を絶ってから、なんと五十年振りに相まみえる訳だ。それは嬉しいだろう。光一の両腕を掴んでいる先生と陽子を、そのまま身体を捻って少し左へずらすようにすると、二人も気が付いたようだ。

 翔子から二間ほど離れた左の藪の前に、ぼんやりと女の姿が透けて見えていた。翔子の母親だろう。日本髪は闇に溶けてただ黒く、白い顔だけが宙に浮かんでいる。セツさんがいた。細い着物姿が夜に透けている。そしてその半透明の白い顔が、ゆっくりとお辞儀をしていた。三人もそれに応えた。

「さぁ、いよいよです。二人とも少し離れていて下さい。翔子さんをお送りします」

 光一は二人を離すと、不動尊に向かい片膝を付いて屈んだ。

「さぁ、翔子さん。僕の背中におぶさって下さい。黄泉(よみ)の国へお送りします。おばあちゃん、お別れですよ。この世では、もう二度と会えません。いいですね」

 光一自身にも不思議な事に、そういう事が本能のように分かっていた。

「はい、いいですとも。宜しくお願いします。お陰様で、もう十分にお話もできました。それに、この世では二度と会えなくとも、あたしだって間もなくあちらに参ります。翔子ちゃん、そしたらまたゆっくりと、お話しようね」

「うん、楽しみにしてるわね。でも、今更慌てることはないんだから、この世でもっともっと充分に生きて、それから来るのよ。いいですね」

「ほほほ・・・ はいはい、そうしますよ。それじゃそれまで、しばしのお別れね。行ってらっしゃい」

 二十歳の花のような翔子の笑顔と、七十を過ぎたおばぁちゃんの年輪を重ねた笑顔。二人の歳はそう違わないのだ。

 翔子は嬉しそうに微笑むと、光一の肩に両手を掛け、遠慮がちにゆっくりとおぶさる格好になった。赤い着物の袖から伸びた翔子の白い両腕が、光一の首の辺りに這ってくる。そしてしっかりと、光一の首に翔子の腕が回された。

「どうもありがとうございました。貴方には大変なご迷惑をかけてしまいました。最後の最後までこのような有様で、本当にお礼の仕様もありません」

 すぐ耳元に翔子の声が聞こえる。細い腕が光一の首に絡みついている。

「迷惑だなんて、そんなことはありません。僕はとても楽しかった。お陰でいい経験が出来ました。お母さんと一緒に、迷わず真っ直ぐに、黄泉の国へ行って下さい。どうぞお気をつけて」

 はい、と言う返事を背中に聞きながら、光一がゆっくり立ち上がると、背中の翔子の着物姿が、スーッと、光一の身体に染み込んで消えた。そして、母親の姿も消えていた。

 おばあちゃんが手を合わせ、一心に祈っている。その脇で先生と陽子は抱き合って興奮していた。十一時四十分。全てが終わった。

 もうしばらくお祈りをしていたいと言うおばあちゃんと別れ、三人で歩き出した。すこし行ったカーブの手前で祠を振り向くと、十二本のか細いローソクの炎が、闇の中にゆらめいているのが見えた。それは恰も、小さな鬼火の揺らめきのようだった。

 光一は今更ながらに驚いていた。夜の森に魅せられて子供の頃から続けてきた闇歩きだったが、自分にこんな力があったとは、光一自身が一番驚いている。

「こんばんはー」

 玄関の引き戸をガラリと開けざまに、大きな声で入ってくる。そしてトントントンと、勢いよく階段を駆け昇っていく。

「はーい、陽子ちゃんね? いらっしゃい」と、光一の母親が返事をしたときには、もう光一の部屋のドァを開けていた。

 いつものことだ。幼稚園児の頃からこうしている。違うのは、幼稚園児の時よりも駆け昇る早さがはるかに早くなったことくらいだ。

「ねぇー 光一君。来て来て。玲子先生がちょっと来てって言ってるの。早く早くぅー」

 光一は部屋で借りてきた新作映画のビデオを見ていたところだった。

「こらこら、何なんだよお前は、えぇ。その登場の仕方は、いいかげんに何とか出来ないのか? ん? もう高校生なんだからな、そろそろ色んな事を考えておかないと、嫁のもらい手が・・・ あー 何すんだよぉ、やめろよ。さっき始まったばっかりなんだぞ。おい、こら」

 光一の話しなんぞ、端なっから聞いていない。陽子はビデオのスイッチを切って、テレビも消していた。カシャーッという音がしてデッキからテープが出てくる。勝手知ったる光一の部屋。なんでも自由自在だった。

「ね、ね、もうちょっとなのよ。ほんとにもうちょっとなの。ついさっきね、ほんの一言、ううん、ほんの一言の半分くらいだったけど、交信ができたの。ね? 凄いでしょう? 大した進歩でしょう? だからもうちょっとなのよぉ、来て来て、早くぅ。先生が待ってるよう。早く、早く、はやくー」

 陽子の言葉は本当に機関銃のようだ。光一などが敵う筈はない。座椅子に座っている光一の腕を両手で掴んで、ぐいぐい引っ張っている。

 三日前から夏休みに入っていた。休みに入ると同時に玲子先生と陽子に呼び出され、先生のアパートに軟禁された。今度の事件の顛末をきちんとした記録にしておきたいから、レポートを書くのを手伝えと言う訳だった。

 まず、光一の子供の頃の闇歩きのきっかけから始まって、今のような不思議な力を身につける迄の経緯を、分かるように説明しろと言うのだ。

 そもそも本人にさえよく分かっていないのだから、他人に分かるような説明など出来る筈がないのだが、玲子先生の手料理はとても美味しかった。飲み物も食べ物もふんだんに用意されていて、陽子の手作りクッキーまで登場したのには驚いたが、これもなかなか美味しかった。

 そんなことで始まった夏休み。二人は光一の話を聞く内に、何とかして光一と同じようになりたいと言い出した。そこで、先ずは森の精気を取り込む練習から始めようということになったらしい。

 そしてあの事件の最中に、光一が放った気の力で話が出来た事に興味を持った二人は、この技をどうしても身に付けたいと思った。それから毎晩、と言ってもまだ三日目だが、ドングリの森に入って修行するんだとかなんとか大層な事を言いだし、このところ夕方になると、裏の森で何やらやっているのだ。

 二人にすればあの事件の事はまだまだ記憶に新しく、おぞましい想い出がある。流石に女二人だけでは心細いと思ったのだろう。手に手に大きな懐中電灯を持った幽玄クラブのメンバーが七・八人、いつも顔を揃えていた。

 クラブのメンバー達には今回の事件のことは話していないらしい。話してみた処で本気にしてはもらえそうにないからと言っていた。当然だと思う。光一にしてもまだ誰にも話していない。おそらく、これからも話すことはないだろう。

 他人には話せない事を共有している間柄でもあるし、しょうがないので、最初の晩だけは光一も手伝って要領を教えてやったのだが、いつまでも手取り足取り手伝ってもらっていては自分の力にはならないからと、二日目からは何とか言い逃れた。その後は幽玄クラブを引き連れて、二人で頑張っているみたいだ。

 クラブのメンバー達はどんなつもりでやっているのか分からないが、美人先生となかなか可愛い陽子が、二人揃って本気になっているのだから、それなりに楽しみながら、また遊び半分にでもつき合っているのだろう。

 どうせすぐに飽きるだろうと思っていたのだが、どうしてどうして、二人とも日を追うごとに益々張り切っているみたいだ。なにせ、あれだけの実体験は強力だった。忘れろと言った処で忘れられる筈もないだろう。

 玲子先生などはもうすっかり光一の力に惚れ込んでしまっている。それでも流石に自分ひとりでは誘いにくいとみえ、必ず陽子と一緒に誘いに来る。先生にとっては、最強の味方を手に入れていた。

 光一は立ち上がり、裏側の窓を開けた。眩しい水銀灯の明かりの奥に、森の入り口が霞んで見える。あの森の周りに沢山の武者達が篝火を焚いていたのは、ついこの間のことなのだ。

「陽子、ここに来てみろよ」

 陽子を窓の前に立たせ、後ろから陽子の両肩を鷲掴みにして気を送る。森は目の前にある。細い裏道を一本隔て、すぐ目の前が森だ。

「陽子、心の中だけで先生を呼んでみろよ。無心になって、玲子先生って、大きな声で叫ぶんだ。勿論声には出さないで。さぁ」

「え? そうすると何か起こるの? あ、通じるのね? ここからでも通じるの? こんなに遠くから? 先生に? へぇ・・・ うん」

 陽子は振り向きながら言っていたが、すぐに前を向いて目を閉じ、しかめっ面になっていた」

 別に目を閉じる必要も無いし、顔をしかめるほどの事もないのだが。

「あっ? ・・・ 通じた。凄い。流石は光一君だね。すごいすごい。一発だわ。フフ・・・ 先生よく分からないみたいよ。フフフ、もう一回。ね? いい? もう一回」

「いいよ。何回でも」

「・・・   」

 勿論光一には聞こえていた。

「陽子? 陽子よね? なんで? 分かった。光一君にやって貰ってるのね?そうなんでしょう? 凄い。さすがだわぁ。すごいすごい。こんなにはっきり分かるなんて、やっぱり光一君は凄いわね。ね、何処にいるの? 何処から気を送っているの?」

「今晩は、先生。今僕の部屋の窓辺から気を送っています。先生も大分使えるようになりましたね。よく分かりますよ、先生の気配が。随分上達が早いですよ。その調子で頑張って下さい。大丈夫です。今の状態なら、却って僕はいない方が早く上達すると思います。取り敢えず、陽子と二人で頑張ってみて下さい。今はその方がいいと思います」

「分かったわ。ありがとう、光一君。ちょっとだけ自信がついてきたわ。陽子、戻っていらっしゃい。もう少し私達だけでやってみましょう。光一君もそこで感じていてね。たまに気を送ってちょうだいね」

 陽子はただポカンとした顔で光一を見つめていた。今の二人の会話は、現実には無言のままなのだ。陽子の目の前にいる光一は、ただ暗い窓の外を見ているだけで、口は全く動いていない。それなのに、二人の会話は陽子にも全部聞こえていた。

「・・・ すごい」

 一言そう言うと、ニッコリと微笑んでいた。

「じゃぁ、また後でね。帰りに寄るからね」

 そう言って、軽やかに階段を下りていった。

 

 この町には「松明(たいまつ)あかし」という年に一度の行事がある。大昔から続く勇壮な火祭りだ。毎年十一月の第二土曜日に開催される。

 今から四百余年前、二階堂家と伊達家が戦をした。今正に戦いが始まらんとしていた時。二階堂家城主、大乗院に奮起してもらおうと、町中の有志が手に手に松明を持って五老山に集結した。結局二階堂家は滅ぼされてしまったのだが、その後町の人々が戦に散った数多の霊を慰めるため、年に一度五老山に松明を灯し、二階堂家の過ぎた日を偲んだ。そしてそれは長い間麗々と引き継がれ、途切れることなく今も行われている。

 地域の有力な企業とか各学校などが、毎年大松明を五老山に奉納するのだが、その数三・四十本にも上る。

 すっかり陽が落ちた初冬の山に、火の粉を振りまきながら激しく燃えさかる松明の炎。それは女だてらに勇壮果敢だった、大乗院率いる二階堂家家臣達の心意気が、四百年後の今もなお燃え盛っているかのような炎の勢いだ。

 いつか光一は父親に聞いたことがある。父親が子供の頃のこの火祭りは、昔ながらのスタイルで行われていたと言う。その時刻になると町の辻々に明るく篝火が焚かれ、町中の誰でもが思い思いに小松明を手にし、五老山を目指して登って行ったという。

 小松明は各自が自分で作る。ぼろ布を針金で丸めて、たっぷりと油を浸み込ませたものを、一メートル程の棒の先に縛り付け、火を点けて持って歩く。子供も、大人も、そして家族連れが、火の玉を連れて町のあちこちから五老山目指して集まってくる。

 火の点いた小松明は、歩くごとに鬼火のような長い火の尾を流す。自然一列に並んだ幾百もの火の玉の行列が、数ヶ所の山陰の細道から一定の間隔を保ち、揺らめきながら昇ってくる。

 陽が落ちた遠くの高台から眺めていると、それはまるで狐火の行列のようでもあり、とても幻想的な光景だったと言う。

 各学校などで作る大松明は、予め各家庭から集められたぼろ布や太い孟宗竹などで芯を作り、筵を何重にも巻きつけて作られる。大きい物だと直系が二メートルを越え、長さは十メートルにも及ぶ。その重量は相当なものだ。

 それの下に何本もの丸太を通し、百人ほどの中学生や高校生達が、それぞれに寄ってたかって肩に担ぎ、山頂まで運び上げる。 

 そんなものを三・四十本も狭い山の上に立て並べ、一斉に火を放つのだ。五老山はたちまちの内に火の山と化し、二階堂家古の栄華が偲ばれる。昔も今も、そのやり方にさほどの変わりはない。

 この町は高台にある。夏の日の午後。光一は陽子と二人、肩を並べて暮れなずむ町を歩いていた。目抜き通りを行くと、枝分かれしている脇道を何本か横切る。二人はその中の一本の処で立ち止まった。

 町は夕陽でセピア色に染まっていたが、その脇道からひときわ強い金色の光が射し、太い筋となって本道を横切っていた。

 光りの来る方を見ると、道の左右にはずっと奥まで古い家並みが続き、少し下り坂になっている。その家並みを通したそのまた向こうに、狭く切り取ったような山並みが見えていた。

 薄い藍色の山の端が何層にも重なり、それは遠くに行くに従い、少しずつもっと薄い藍色に変わりながら、その後ろの空に溶けていた。

 とてもいい色合いだ。そして今正に、その一番遠くの山陰に太陽が落ちようとしているところだった。その山の上に浮かぶ雲の輪郭が、鮮やかな黄金色に縁取られている。

「へぇー きれいだねぇー 見て見て、あの雲。金色よ。うわぁ、眩しい。目が覚めるようだねぇー きっと明日もいいお天気になるね」

 陽子は目を細め、いかにも眩しそうに顔を斜にして見ている。その細い首や頬も、金色に染まっていた。

「うん、そうだな。きっといい天気になるよ」

 玲子先生に呼ばれ、今二人揃って向かっているところだ。

 先生は近頃、二階堂家から始まるその周辺の家系や、家臣だった人達の事を調べているらしい。二階堂家が伊達家との戦に敗れた後、別な地に散って新たな人生を始めた者や、山深く入り、土に生きた者なども沢山いた筈だ。そういう事柄をできる限り調べたいと言っていた。

 須田美濃守盛秀の場合。敗戦を知ったとき、自分の城である和田城に火をかけ、落ちのびた。その後、常陸佐竹家を頼り、一緒に落ちのびた家臣共々須賀川衆と呼ばれ、茂木城一万石の城代として活躍した。だがその後、佐竹家が秋田へ国替えとなり一緒に流された。

 しかし、流石に剛胆無二の美濃守。秋田に移封された後も、須賀川衆を率いて角館城城代を勤めた。次いで横手城城代を勤め、数々の実績を残し、九六歳の天寿を全うした。

 城主大乗院の場合。美濃守と一緒に秋田移封の旅の途中病に倒れ、やむなく住み慣れた須賀川の地に留まった。旧家臣達が菩提寺長禄寺内に住まいを建て療養を申し上げたが、その後の大乗院は、戦で散っていった家臣達を想い、念仏三昧の日々を過ごしたという。六二歳にて黄泉へ旅立った。

 大乗院殿法岸秀連大姉。戦国女武将の法名である。

 光一はいつか、何かの本で読んだ事がある。戦国時代には手柄さえ立てれば、たとえ名も無い素浪人であっても重く取り立ててもらえた。だがその時に、自分の家系が素浪人では恰好がつかないので、家系を金で買ったり、また、適当でまことしやかな家系をねつ造したりする事がよくあったらしい。だから日本人の家系図ほど当てにならないものはないらしい。

 しかし今回の出来事で、自分に潜んでいた不思議な能力とか、三千代姫や大乗院が自分の前に姿を現したことなどを考えてみると、もしかしたら、自分の家の家系は本当なのかもしれないと思うのだった。

 二階堂光一。十六歳の夏だった。夕べ遅くどんぐりの森で、鬼火がひとつ浮かんでいるのを見た。楽しい夏休みになりそうな予感がしていた。

                                                                                                                                                                         了



「参考文献」

 須賀川城主、二階堂氏の事跡。(福島県須賀川市教育委員会発行)


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