華奈の決断。メアリーの覚悟。
【近衛騎士団・修練場】
パシィィィ……。
早春の澄んだ空気のなか、華奈は練習用の人形台に向かって、一心不乱に木剣を振るっていた。
風を切り裂く鋭い音が修練場に響き渡る。
「──ッ!」
だが、傍でその様子を眺めていた匠の眉が、微かにひそめられた。
どこからどう見ても、今日の華奈にはいつものようなキレがないのだ。迷いが剣に乗り、如何とも見ていられないほどに、心ここにあらずといった様子だった。
今思えば今朝、顔を合わせた時から彼女の様子は少し変だった。
極力、こちらと目線を合わせないように視線を彷徨わせ、時折、ひどく寂しそうな表情を浮かべていた。
何か重大な考え事に心を囚われているのが、傍にいる匠には丸わかりだったのだ。
(あのブレは、一人で何かを抱え込んでいるな)
宙を舞う剣の軌道から、彼女の悲痛な迷いが痛いほどに伝わってくる。
「華奈……切先がブレブレだ。そこまでにしとけ。何かあったんだろ」
匠の声が静かに響く。
今の匠はレベルの制限のせいで、華奈と直接打ち合うような激しい稽古はできない。だが、物心ついたときから彼女の武を見続けてきた匠の『眼』は、ほんの僅かな重心のブレや迷いの軌跡を完璧に見抜いていた。
「え……っ? あ、あはは……。そんなことないよ? ほら、ちゃんと真っ直ぐ振れてるし!」
図星を突かれた華奈は、慌てて木剣を構え直して取り繕おうとする。
だが、やはり切先が僅かにブレていた。匠のシルバーグレイの双眸は、その些細な違和感を冷徹に捉えて離さない。
「話したくないなら無理しなくてもいい。今日はこれくらいにして、少し休め」
「うん……」
昨晩の秘密だけは、絶対に口が裂けても明かせない。
話してしまえば、優しい彼はきっと私を気遣って、魔人族領へ行ってくれるとは思う。けれど──そうなれば、彼が置かれる環境は今よりもっと辛く、過酷なものになってしまう。
今の、彼の心だと耐えきれない──。
あの日の夜、無力さに唇を噛む彼の、あの痛々しい横顔が脳裏をよぎる。
匠に真実を明かせない自分に気づき、華奈はとある決断をするために、目の前の最愛の人に対して、そっと心の扉を閉ざした。
(──なら、私が裏切ればいい。もう、これしか残されていない──)
私が裏切り者になれば、私を激しく恨むだろう。
けれど、その激しい憎悪こそが、彼が過酷な魔境を生き抜くための絶対的な糧になるはずだ。
決して歪んだ考えなどではない。それほどまでに、あの魔境を生き抜くには相応の覚悟が必要なのだから。
今の匠の心は弱り切っている。
このまま無防備に送り出せば、世界の理不尽さに絶望し、もしかしたら諦めて自死を選んでしまうかもしれない。
(そんなの、絶対に嫌……! だったら、私を呪ってでも生き延びて!)
激しく愛しているからこその考えを、自らの心に深く突き刺すように──華奈は静かに、けれど決定的な「偽りの裏切り」を決断した。
※※※※※
【フィルモア城・廊下】
鍛錬を終えた華奈は、昨日吹き矢が飛んできた方に並び、屋根付きの廊下を歩いていた。
(流石に同じ場所では狙わないよね……)
華奈は索敵スキルを使い周囲を警戒しつつ城内に入る。安全が確保され少しだけ肩の力を抜く。だがそんな予測の裏をかくように、最悪の瞬間は訪れた。
「――っ、タクちゃん伏せて!!」
「バリィィィン――!! バン! バン!」
鼓膜を突き破るような爆音と共に、廊下の大きな窓ガラスが派手に割れ、飛び散る無数の破片を切り裂いて突っ込んできたのは、どす黒い殺気を孕んだ二本の太矢だった。
幸い硬いガラスを突き破ったことで軌道が逸れ、匠を掠めるように背後の石壁へと深く突き刺さった。
「――ひっ、クソッ、な、なんだよこれ……っ!?」
「窓下に避難して! そのまま先に移動するのよ!」
心臓が頭のてっぺんで跳ねるような衝撃。命を狙われたという生々しい現実に、全身の血が引いていく。
華奈に背中を強く押され、姿勢を低くして窓際の死角へと滑り込むと、壁に突き刺さった太矢を見つめる。
「おい、華奈……これ、どういうことだよ!? 誰に狙われたんだ!?」
「私だって分からないよ……っ。貴族の間で不満が上がっている事は聞いていたけど、本当に命を狙って来るなんて……」
昨晩、ウィラードから「匠が狙われている」と聞いたとは言えず、華奈はうまく誤魔化した。
だが、何も知らない匠は、初めて耳にする『貴族たちの不満』という言葉から、大切な幼馴染が自分の知らないところで理不尽な悪意に晒されていたのだと容易に察してしまい、腹の底から怒りが湧き始める。
「華奈……お前、ずっとこのことで悩んでいたのか」
「これもそうだし、色々よ……」
世界最強の力を与えられながら、そのせいで醜い政治の泥沼に巻き込まれ、護衛まで買って出なければならない彼女の境遇が、ただただ我慢ならなかった。
しかし――。
この襲撃は、すべてミラード王が仕組んだ卑劣な芝居だった。狙いは匠の命ではない。
華奈の心を追い詰め、自ら魔族領へ向かわせるための「警告」だった。
※※※※※
【メルド村】
転移魔法陣が正門近くに設置されたメルド村は、魔物退治の功績と前線基地としての有効性が認められ、絶賛大規模開発の真っ最中だった。
ヒィィィィィ──!
甲高い駆動音が響くと魔法陣が眩しく光り始め、そこへポツンと大きな荷物と、二人の人影が姿を現した。
「うわぁ~、やっぱめっちゃ便利だね!」
輝く光の束から姿を現したのは、金髪美少女のメアリーだ。
高額な魔力を消費する転移陣をポンポン使えるのは、先の討伐報酬で懐がホクホクになっている彼女くらいのものだった。
「お嬢様、ここが貴女さまが運営する村なのですね」
「ペーター、本当に来てくれてありがとうね」
隣にいるキッチリとした身なりの初老の男性は、元・執事のペーターだ。
辺境伯家の経営が芳しくなく、人減らしの一環で引退を余儀なくされていたところを、メアリーに拾われたのだ。
「初仕事は、お菓子の振り分けですね」
ペーターがそう言って目を細める。
メアリーの傍らには山のような大荷物が積まれていた。その中身はすべて大量のお菓子である。
「はーい、みんなー! お菓子買ってきたよー!」
「わーい! メアリーお姉ちゃん、ありがとうございます!」
メアリーが元気よく声を張り上げると、集会場で待ち兼ねていたのか、子供たちが喜び勇んで駆け寄ってきた。
「それでは皆さんお配りするので、一列に整列してくださいね」
子供たちに囲まれ、笑顔で指示を出すメアリー。
彼女は今回の功績で貴族籍を再取得したものの、実家である辺境伯家には戻らなかった。
代わりに名誉貴族の地位を得て、このメルド村の実質的な『オーナー』として、村長と共に共同運営に乗り出すことにしたのだ。
今回の里帰りは、その決意を両親に告げつつ、村の発展に不可欠な「人材探し」が最重要課題だった。そして、気心の知れた優秀なペーターが来てくれたことにより、この村の未来が明るいものになるのは間違いなかった。
「いっぱい買ってきたから、毎日少しずつ食べましょうね~」
あともう少しで十六歳になる少女の手腕は、もちろん相棒であるアングィスの助言あってこそだった。
だが、利発な彼女はもう、神の導きがなくとも自分の足で歩めるほど立派に成長している。
メアリーは満面の笑みを浮かべ、愛おしそうに子供たちへお菓子を分け与えていた。
「お菓子ありがとう!」
元気よくお菓子に飛びつく子供たち。
今はちょうど昼下がり。普段なら農作業に追われている時間帯なのだが、なぜか子供たちは畑に行こうとしない。
「メアリー様、お帰りなさいませ。作物は順調に育っていますよ」
声をかけてきたのは、畑の管理を任せている元・残念受付嬢のエルフだ。
実は優秀な土魔法使いである彼女がいとも簡単に畑を整備してくれたおかげで、この村はすでに子供の労働力を必要としなくなっていた。
「メアリーお嬢、お帰りなさいませ!……って、もう! 授業中にお菓子を渡さないでください!」
続いて現れたのは、王国から派遣されてきた学校の先生だ。
元は詐欺を働いた若い女性受刑者なのだが、そこは元・盗賊の村。入村初日に村長が「上下関係」を力づくできっちり叩き込んだおかげで、今はすっかり真面目に教鞭をとっている。
「「「お帰りなさいメアリー嬢」」」
気が付けば村人全員が集合していた。
村人たちを見渡したメアリーは、大きく息を吸う。
「皆さん、この村の未来を懸けた新規事業を始めます!」
自らの力で居場所を築き始めた少女の瞳には、確かな自信が宿っていた。
※※※※※
【メルド村・領主執務室】
「さて、事業計画をまとめないと……」
村人たちとの打ち合わせを終えたメアリーは、一人執務室へ戻り、村の発展に向けた計画を練っていた。
「メアリー、少し話がある」
「あら、久しぶりの現出ですね。何かご用ですか?」
突然現れたにもかかわらず、メアリーは優しく微笑む。
しかし、その笑顔の裏で、一つの別れが近づいていた。
永らくメアリーの肉体に憑依し、彼女の盾となり、その行く道を導いてきた戦闘神――アングィス。
いま、己の足でしっかりと歩み始めた愛しき少女の背中を見つめ、彼は慈愛に満ちた静かな微笑みを浮かべていた。
「メアリー、もう我が庇護は必要ない。お前は十分に強くなった。……これをお守り代わりに持っていてくれ」
アングィスが差し出したのは、深い深海の如き鈍い輝きを放つ、大蛇の鱗で作られたペンダントだった。
「えっ……それって、もう本当にお別れってことですか……?」
差し出された手とアングィスの穏やかな表情を交互に見つめる。
「ああ。我には、我の果たすべき務めがある」
「えーっ、まだまだ頼りたかったのに……」
冗談めかして笑ってみせる。けれど、その声は少しだけ震えていた。
涙をこらえるようにゆっくりと息を吐き、メアリーは震える手でペンダントを受け取る。大切そうに胸元へ抱き寄せると、小さく頷いた。
「それではな。健やかに生きよ、メアリー」
「……ありがとうございました、アングィス様」
受け取った瞬間、手のひらから持ち主を包み込むような、どこか懐かしくも圧倒的な神気がメアリーの全身へと奔る。
別れの瞬間は、静かに、そして残酷に訪れた。アングィスは名残惜しそうに彼女を見つめたまま、朝靄に溶ける霧のように、さらさらと儚く消えてゆくのだった。
彼はついに彼女の体を離れ、本来あるべき神殿へと還る。
……というのは、あくまで表向きの美しい建前である。
【アングィスの執務室】
『あああ、もう! なんで我がちょっと数十年ほど不在だっただけで、神界もこれほど書類が溜まっているのだ!?』
人知れず神殿へ帰還したアングィスは、執務室に山積みとなった書類を前に、神の威厳もかなぐり捨てて羽根ペンを走らせていた。
帰還したアングィスの新たな敵は、魔王でも邪神でもない──。
山積みの書類だった。
(第36話 終わり / 第37話へ続く)




