第5話「使者の靴音」
三年前、私は王宮の人間に指を突きつけられた。あの時と同じ紋章が、今、この町の入口に見える。
マルシェの大通りの向こうから、馬車が一台、ゆっくりと進んでくる。幌の側面に金糸で刺繍された鷲と剣の紋章。王宮文官局の紋章だ。馬車の前後に護衛が一人ずつ。計二名。軽装だが腰に剣を帯びている。
町の人たちが足を止めて、馬車を見ている。パン屋の前でリネットの父親が腕を組み、仕立屋のおかみさんが窓から顔を出した。マルシェに王宮の紋章が入ってくることは、ほとんどない。
私は工房の前に立っていた。朝の仕込みを終えて、看板の汚れを拭いていたところだった。手に持った布をエプロンの紐に挟んで、馬車が近づくのを見ていた。
逃げるつもりはなかった。逃げる理由もない。ここは私の工房で、私の町だ。
馬車が町の広場で停まった。御者が降りて、扉を開ける。中から一人の男が降り立った。二十代後半。黒い上着に白い詰め襟。文官の正装だ。靴が新しい。王都の石畳を歩くための靴であって、マルシェの砂利道には合わない。
男は広場を見回し、それから町役場の方へ歩いていった。護衛の一人が馬車に残り、もう一人が男の後ろについた。
まず町役場に向かった。それは正規の手続きだ。王宮の使者が領地内で活動するには、管轄の行政機関への到着届が必要になる。
一刻ほど経って、工房の扉が鳴った。
「失礼いたします」
広場で見た男が立っていた。近くで見ると、顔立ちは整っているが表情が硬い。生真面目そうな目。手には革の書類鞄を抱えている。
「王宮文官局三等書記官、オスヴァルトと申します。セレナ殿でお間違いないでしょうか」
「セレナです。姓はありません」
「承知しております」
オスヴァルトは一瞬だけ目を伏せた。その仕草で、この人が私の過去を書類として把握していることが分かった。元伯爵令嬢。勘当。平民籍への編入。姓の抹消。すべて書類に書かれているのだろう。
「本日は、王宮文官局より正式な召還命令をお届けに参りました。お受け取りいただけますでしょうか」
「拝見します」
オスヴァルトが書類鞄から封書を取り出した。先日届いた手紙と同じ封蝋。ただし、こちらは厚みがある。正式な書式だ。
封を開けた。
文面は明瞭だった。「国益に資する技術の保有者」として、セレナを王都へ召還する。猶予期間は本状到達日より三十日。期限内に出頭しない場合は王命不敬として法的処分の対象となる。発布者は王宮文官局長。その下に財務卿の副署がある。
三十日。
「オスヴァルト殿。いくつか確認してもよろしいですか」
「はい。ご質問があれば、職務の範囲でお答えいたします」
「この命令に対して、法的に留保される条件はありますか」
オスヴァルトは少し間を置いた。私がその質問をすると思っていなかったのかもしれない。
「ございます。当該領地の領主が『領民保護宣言』を発布された場合、召還は法的に停止されます」
「領民保護宣言」
「はい。ただし、発布権限は領主本人に限られ、代理は認められません」
私はその言葉を頭の中で反芻した。辺境伯。この町を治めている領主。名前は知っている。顔は知らない。ヴェルナー辺境伯。この町の人たちが時折口にする、領都に居城を構える領主。
その人に助けを求める、ということだろうか。しかし私は平民の石鹸職人で、領主と話をする手段など持っていない。
「もう一点。この猶予期間について、延長の規定はありますか」
「付帯条項として、現地の状況に基づき、使者の裁量で最大二週間の延長が認められております」
「つまり、あなたの判断で延長できる」
「はい。ただし、延長の根拠となる事実が必要です」
オスヴァルトの声には揺れがなかった。命令の内容を正確に、過不足なく伝えている。忠実な文官だ。
「なお、私の護衛が定期的に辺境伯領の領都首府まで早馬を往復させ、王都からの追加指示を受け取る体制となっております。猶予期間中、私はこの町に滞在いたします」
監視、ということだ。三十日間、王宮の目がこの町に留まる。
封書を丁寧に折り畳んだ。手は震えていない。声も震えていない。三年前の夜会で指を突きつけられた時は、何も言えなかった。言葉が出てこなかった。今は違う。
「オスヴァルト殿」
「はい」
「三十日の猶予があるのですね」
「はい」
「でしたら、まず私の仕事を見てください」
オスヴァルトの表情がわずかに動いた。眉が上がったのは一瞬だけだったが、確かに見えた。
「仕事、ですか」
「あなたは私を『国益に資する技術の保有者』として召還しに来た。であれば、その技術が何であるか、まずご自分の目で確認されるのが筋ではありませんか」
オスヴァルトは黙った。数秒の沈黙。それから、小さく頷いた。
「……確かに、それは道理です」
「明日の朝から仕込みを始めます。工房はいつでもご覧いただけます。帳簿も開示します。仕入れの記録、配合の記録、品質の記録。すべてお見せします」
前世で身に染みた手順だ。クレームが来たら、まず現場を見せる。数字を見せる。説明するのではなく、事実を見せる。相手が何を期待して来たかに関係なく、現場の事実は一つしかない。
オスヴァルトは書類鞄を閉じ、姿勢を正した。
「では、明日朝、改めて伺います。本日は到着届と命令の伝達のみとさせていただきます」
「承知しました」
オスヴァルトが扉を開けて出ていく時、一瞬だけ振り返った。工房の中を、もう一度見た。棚に整然と並んだ石鹸。作業台の上の帳簿と計量器。壁に掛けられた乾燥中の薬草の束。
何かを言いかけたように見えたが、結局何も言わずに出ていった。靴音が遠ざかる。マルシェの砂利道に慣れていない、硬い靴底の音。
夕方、リネットが工房に来た。
「セレナさん、あの人と話してましたよね。王都の文官さん」
「ええ。召還命令の正式な通達を受けました」
リネットの顔が曇った。
「どうするんですか」
「仕事を見せる。まずはそれだけ」
「……それで大丈夫なんですか?」
「分からない。でも、逃げるつもりはないわ」
リネットは唇を結んで、しばらく黙っていた。それから、私の隣に来て、乾燥棚のラベンダーを一束取り上げた。
「あたし、明日の仕込み、手伝います」
「ありがとう」
リネットが帰った後、工房を片付けた。明日の仕込みの準備。原料の計量。道具の洗浄。帳簿を開いて、明日使う分の在庫を確認した。
ふと、窓の蝶番に目が行った。
今日は木曜日だ。
カイさんは来なかった。
先週も来なかった。使者の到着予告が出た日から、一度も来ていない。
リネットが言っていた。「今日もカイさん、来ませんでしたね」と。私は「そう」とだけ答えた。
窓の外を見た。夕暮れの空が、工房の窓枠の中に収まっている。カイさんが直してくれた蝶番は、まだ静かだ。
三年前は、何も言えなかった。何も持っていなかった。
今は違う。この工房がある。帳簿がある。三年分の記録がある。この町の人たちがいる。
召還命令の封書を、帳簿の間に挟んだ。先日の手紙の隣に。封蝋の赤が二つ、ページの間から覗いている。
明日の朝、いつも通り帳簿を開くところから始める。それだけは、誰にも奪えない。




