第4話「帳簿の行間」
朝一番に工房の在庫帳簿を開き、原料の残量を数えた。
オリーブ油の瓶が三本。ヤシ油が一瓶半。苛性灰の袋が二つ。ラベンダーの乾燥束が十二。カモミールが八。蜂蜜が壺に半分。山羊乳は明後日、丘の向こうの牧場から届く予定。
数字を帳簿に書き込みながら、ペンが止まった。
在庫を数える。記録を取る。消費量から次の仕入れ時期を計算する。この手順は、三年前から一日も変わっていない。そして、三年よりもっと前から、この手が覚えている習慣だ。
帳簿のページをめくった。数日前に挟んだ召還命令の手紙を通り過ぎて、さらに前のページへ。原料の仕入れ先と単価の一覧。季節ごとの売上の推移。ロットごとの品質評価の記号。すべて私の字で、一行ずつ積み重なっている。
三年分の記録。
ふと、別の帳簿のことが頭をよぎった。
三年前、王宮に残してきた帳簿。伯爵令嬢として王宮に出入りしていた頃、私は同じように記録をつけていた。王宮の調度品の発注記録。納品された品物の数量と品質。支払い伝票との照合。それが私の仕事だった。仕事というよりも、習慣だった。数字を並べて、合っているか確かめる。それだけのこと。
あの帳簿には、聖女リディアの慈善事業に割り当てられた予算の不明金に関する記録も含まれていた。予算として計上された金額と、実際に慈善事業に使われた金額の差。その差額がどこに消えたのか。私は告発するつもりで記録したわけではない。数字が合わないことに気づいて、合わない事実を書き留めただけだ。
あの帳簿は、まだ王宮にあるのだろうか。勘当された時、私の私物は処分されたはずだ。しかし帳簿は私物ではなく業務記録だった。廃棄されたか、書庫に眠っているか。
考えても仕方がない。あの帳簿は私の仕事の記録であって、告発のために作ったものではない。記録は事実を残すためにある。誰かを傷つけるためではない。
でも。
あの記録がなければ、不正は永遠に隠されたままだ。
帳簿を閉じた。今日の在庫確認は終わった。次は仕込みの準備だ。過去のことを考えている暇はない。今の私の帳簿は、石鹸の原料と売上の記録で埋まっていればいい。
午後、ドロテアさんが工房に顔を出した。
珍しいことだった。ドロテアさんは普段、工房に来ることはあまりない。通りで顔を合わせれば声をかけてくれるが、わざわざ訪ねてくるのは何か用がある時だけだ。
「邪魔するよ」
ドロテアさんはカウンターに肘をついて、工房の中を見回した。棚に並んだ石鹸。乾燥中のラベンダー。作業台の上の計量器と帳簿。
「相変わらず、きれいに並んでるね」
「ありがとうございます。整理整頓は品質管理の基本ですから」
「品質管理、ね」
ドロテアさんはその言葉を繰り返して、少し笑った。
「あんた、たまにそういう難しい言葉を使うよね。品質管理。ロット。官能検査。この町でそんな言葉を使うのは、あんただけだよ」
「……癖です」
「うん。知ってる」
ドロテアさんは棚の石鹸を一つ手に取った。ラベンダーと蜂蜜の石鹸。一番の売れ筋だ。鼻に近づけて、匂いを嗅いだ。
「いい匂いだ。うちの宿の客にも評判がいい。先月、行商のベルタが二十個まとめ買いしていったろう。隣町でも売れてるらしいよ」
「ベルタさんには感謝しています。うちの石鹸を広めてくれて」
「広まるには理由がある」
ドロテアさんは石鹸を棚に戻して、私の目を見た。
「セレナ。あんたの石鹸が売れるのは、あんたが嘘をつかないからだよ」
「嘘、ですか」
「鑑定印がなくても、あんたの石鹸は信用されてる。鑑定印士に品質を保証してもらってるわけじゃない。それなのに、うちの町の人間は誰もあんたの石鹸の品質を疑わない。なぜだか分かるかい」
分からなかった。自分では、普通のことをしているだけだと思っている。原料を選んで、配合を記録して、同じ条件で作る。気温が変わったら配合を調整する。出来上がったら匂いと泡立ちと肌触りを確かめる。記録に残す。それだけだ。
「あんたは、自分が何をやっているか、全部説明できる。聞かれたら数字で答えられる。この原料はどこから来て、どう配合して、どれくらい乾燥させたか。全部帳簿に書いてある。その帳簿を、あんたは誰にでも見せる。隠さない」
「当たり前のことです。記録は確認するためにあるんですから」
「それが当たり前じゃないんだよ、この世界では」
ドロテアさんの声が、少し低くなった。
「鑑定印がなければ信用されない。鑑定印士が印を押して初めて、品質が保証される。それがこの国の商売の形だ。でもあんたは、印なしで信用を作った。記録と実物で。三年かけて」
私は黙っていた。ドロテアさんの言葉が、胸の奥に落ちていく感覚があった。自分の仕事の価値を、他者の言葉で聞くのは初めてだった。
「だからさ」
ドロテアさんは腕を組み直した。
「あの手紙のことがどうなるにせよ、あんたの仕事の価値は、あんたが一番分かってなきゃいけない」
手紙。帳簿に挟んだ手紙のことを、ドロテアさんは知っている。封蝋の紋章まで見えたかどうかは分からないが、数日前に届けてくれたのはこの人だ。
「……ドロテアさん」
「返事はいらないよ。言いたいことは言った」
ドロテアさんは手を振って、工房を出ていった。扉が閉まった後、カウンターの上にパンの包みが置かれていた。いつの間に置いたのだろう。麦の穂亭のパンではなく、ドロテアさんが自分で焼いた硬めの黒パン。三年前、工房が軌道に乗るまでの半年間、毎朝ドロテアさんが出してくれていたのと同じパンだ。
あんたの石鹸が売れるのは、あんたが嘘をつかないからだよ。
嘘をつかない。
三年前、私は嘘をつかなかった。帳簿に事実を書いた。数字が合わないことを報告した。それだけのことで、すべてを失った。
でも、嘘をつかなかったから、今ここにいる。マルシェの町で、嘘のない石鹸を作って、嘘のない記録をつけて、嘘のない信用を積み重ねている。
帳簿を開いた。召還命令の手紙の封蝋が、ページの間から赤く覗いている。
自分の手で守る。この工房も、この記録も、この町で積み重ねたものも。過去のために戦うのではない。今の私の仕事を、今の私の手で守る。
帳簿に今日の在庫を書き込み、仕入れの予定を記入した。来週の原料費、銀貨八枚。売上の見込み、銀貨十枚。帳簿の数字は嘘をつかない。
ドロテアさんの黒パンを一切れちぎって、口に入れた。硬くて、素朴で、噛むほどに味がする。三年前と同じ味だ。
夕方、リネットが駆け込んできた。
「セレナさん! 町役場に貼り紙が出てます」
「貼り紙?」
「王都からの通達みたいです。三日後に王宮文官が到着するって」
手が止まった。
三日後。
召還命令の手紙には、詳細は使者が通達すると書いてあった。その使者が来る。王宮の紋章を掲げた使者が、この町に。
リネットが不安そうに私の顔を見ている。
「セレナさん、大丈夫ですか」
「大丈夫よ」
声は落ち着いていた。手も震えていない。帳簿のペンを置いて、リネットの方を向いた。
「明日も朝から仕込みをするわ。いつも通りに」
リネットは頷いた。何か言いたそうな顔をしていたが、「分かりました」とだけ言って、帰っていった。
工房に一人残された。
窓の蝶番は静かだ。カイさんが直してくれた窓から、夕風が入ってくる。棚の石鹸が整然と並んでいる。帳簿は開いたまま、今日の記録が書き込まれている。
三日後、使者が来る。
私は帳簿を閉じて、二階へ上がった。明日の朝も、記録をつけるところから始める。それだけは変わらない。




