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断罪された悪役令嬢の帳簿が王宮の嘘を静かに見抜いていく。ただし不器用な辺境伯の想いだけは見抜けない  作者: 月雅


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第3話「蝶番と手袋」

あの手紙のことは、誰にも言わないつもりだった。


帳簿の間に挟んだまま、数日が過ぎた。朝の仕込み、品質の記録、リネットとの作業、常連客への販売。日常は変わらない。変えるつもりもない。あの手紙は、帳簿の中に封じ込めたまま、私の日常の一部にはさせない。


木曜日が来た。


朝から窓の蝶番のことが気になっていた。カイさんが「来週直す」と言っていた。あの人は言ったことは必ずやる。一年の付き合いで、それは分かっている。


午前の販売を終えた頃、工房の扉が開いた。


「いらっしゃいませ、カイさん」


カイさんは片手に工具の入った革袋を提げていた。もう片方の手には、いつもの手袋。右手だけの、深い茶色の革手袋。


「窓を見る」


「あ、はい。お願いします」


短い言葉で用件を告げると、カイさんはまっすぐ窓に向かった。前回は石鹸を買いに来ただけだった。今日は道具を持参している。この人は本当に直すつもりで来たのだ。


カイさんは手袋を外して革袋に入れ、工具を取り出した。蝶番のネジを確認し、枠との接合部を指で探る。慣れた手つきだった。


「枠が少し膨張している。湿気だろう。ネジを締め直すだけでは再発する」


「どうすれば」


「蝶番の受け側を少し削って、遊びを作る。そうすれば枠が膨らんでも干渉しない」


カイさんは革袋から小さな鑿を取り出して、蝶番の受け側を丁寧に削り始めた。木屑が作業台の上に落ちる。私はそれを手で払おうとして、手が止まった。


帳簿が開いたままだった。


今朝の仕込みの記録をつけた帳簿。そのページの間から、あの手紙の深紅の封蝋が覗いている。カイさんの作業位置から、帳簿までは腕を伸ばせば届く距離だ。


私はさりげなく帳簿を閉じようとした。しかし遅かった。


カイさんの手が止まった。鑿を持ったまま、視線が帳簿の封蝋に向いている。赤い封蝋の上の紋章。翼を広げた鷲と交差する剣。


一瞬だった。カイさんの目が、ほんのわずかに見開かれた。すぐに視線を窓に戻し、何事もなかったように鑿を動かし始めた。


でも、私は見た。あの紋章を見た時のカイさんの反応を。驚きではなかった。あれは、理解の表情だ。あの紋章が何を意味するか、この人は分かっている。


「大したことではないんです」


私は自分から口を開いていた。言うつもりはなかったのに。


「仕事の書類です。気にしないでください」


カイさんは手を止めなかった。黙って蝶番の削りを続けている。木屑が静かに落ちる音だけが工房に響いた。


作業は丁寧だった。削った面をやすりで整え、蝶番を嵌め直し、ネジを締める。窓を開閉して、動きを確かめる。かたかたという音は消えていた。


「これで当分は持つ」


「ありがとうございます。本当に助かりました」


「ついでだ」


カイさんは工具を革袋にしまいながら、窓枠の向こうを見ていた。マルシェの東通り。石畳の上を歩く町の人たち。その日常の風景を、この人は何を考えながら見ているのだろう。


革袋を閉じたカイさんが、カウンターの方に戻ってきた。いつものように石鹸を一つ選び、銀貨を置く。今日はカモミールの石鹸を手に取った。


「カイさん」


「何か」


「なぜ、窓まで直してくださるんですか。石鹸を買いに来てくださるだけで十分なのに」


カイさんの手が、一瞬止まった。石鹸を包む紙を受け取る手。右手には、いつの間にかまた手袋がはめられていた。


沈黙があった。この人は感情が動くと黙る。それも一年で分かったことだ。


「……石鹸の品質は、工房の環境に左右される」


商売の話に変換された。やはりそうだ。この人は石鹸の価値が分かる人で、だから工房の状態にも気を配る。それが合理的な説明だ。


カイさんは包みを受け取り、扉に向かった。


しかし、扉の前で足を止めた。振り返らずに、背中を向けたまま。


「何か困ったことがあれば、言ってほしい」


声が、いつもより低かった。言葉数が少ないこの人にしては、感情の乗った一文だった。


「……はい」


それだけ答えた。カイさんは頷くように首を動かし、扉を開けて出ていった。


工房に一人残された。


窓を開けてみた。するりと滑らかに動く。かたかたという音は、もうしない。蝶番が直っただけなのに、工房の空気が少し変わった気がした。


なぜこの人は、ここまでしてくれるのか。


石鹸に商業的な価値を感じているから。この土地に長く住んでいて、工房の繁盛が町の利益になると考えているから。そういう合理的な理由はいくらでも思いつく。


でも、「言ってほしい」という言葉の温度は、合理性だけでは説明がつかなかった。


考えるのをやめた。考えてはいけない。好意を信じることは、裏切られる準備をすることだ。三年前に学んだ。


帳簿を開いた。封蝋の赤が目に入る。カイさんはこれを見た。見て、何も聞かなかった。聞かないということは、分かっているということなのか、それとも気を遣っているだけなのか。


分からない。分からなくていい。


私は今日の販売記録を帳簿に書き込んだ。カモミール石鹸、一個。銀貨一枚。カイ。


ペンが止まった。名前の横に何か書こうとした自分に気づいて、首を振った。記録は事実だけでいい。余計なものを書き込む必要はない。


夕方、リネットが工房に来た。


乾燥棚の確認を終えて、カウンターを拭きながら、リネットが窓を見た。


「あれ、窓の音がしない。直ったんですか?」


「カイさんが直してくださったの」


「えっ、カイさんが? 工具持ってきたんですか?」


「ええ」


リネットは窓に近づいて、蝶番を指で触った。開けて、閉めて、もう一度開けた。


「すごい、全然がたつかない。プロの仕事じゃないですか」


それから、何かを思い出したように目を丸くした。


「あ、そういえば。カイさんの手袋、今日初めてよく見たけど、あれ相当いい革ですよね」


「手袋?」


「右手だけのやつ。あたし、お父さんの仕事柄で革のことちょっと分かるんですけど、あの色と光沢は安い革じゃないです。仕立ても良かった。指の縫い目が均一で」


リネットの父親はパン屋だが、以前は革問屋で丁稚をしていたと聞いたことがある。


「お金持ちなのかな、カイさん」


「さあ……。もらい物かもしれないし」


「もらい物であの手入れはしないですよ。自分のものとして大事にしてる手袋です、あれは」


リネットは何気なく言っただけだろう。でも、その言葉は、直されたばかりの窓の蝶番のように、私の中のどこかにかちりと嵌まった。


カイさんは商売に異様に詳しい。この土地の法律にも通じている。そして、高価な革手袋を丁寧に手入れして使っている。


商人にしては、不自然だ。


「リネット」


「はい?」


「明日の仕込み、少し早めに来てくれる? ラベンダーの在庫が心許ないの」


「了解です。朝一で来ますね」


リネットが帰った後、工房で一人、帳簿を閉じた。


窓から夕風が入ってくる。蝶番は鳴らない。カイさんの手で直された窓は、静かに風を通していた。


「言ってほしい」


あの言葉が、まだ耳に残っている。


嬉しいとは思わなかった。ただ、戸惑っている。なぜこの人が、ここまでするのか。石鹸の品質のためだという説明を、今日は素直に受け入れられなかった。


でも、それ以上は考えない。考えてはいけない。


好意を信じることは、弱くなることだ。


私は弱くなるわけにはいかない。

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