第50話 夕暮れの死域――高級娼婦の館へ続く街道
――少し前。
夕暮れ時。
村はずれの小高い丘の上で、
ベルは足を止めた。
昼の熱気を孕んだ風が、
薄布の裾を揺らす。
下方――
高級娼婦の館・紅灯亭へ続く細い街道に、
女が一人、追い詰められていた。
高級娼婦だ。
衣装は乱れ、足元はもつれている。
囲むのは、十人ほどの男たち。
山から下りてきた山賊。
すでに顔は血で汚れ、
古傷だらけの肉体。
身に着けているのは軍服でも鎧でもない。
熊の毛皮めいた、粗末な軽装。
動物を裂くための刃。
獣じみた笑い声。
(……多いな)
村の酒場を渡り歩く踊り子――
ベルは瞬時に距離を測る。
背から、ギターのような弦楽器。
リュートのケースを静かに外し、
中から弓を引き抜く。
革が、かすかに擦れる。
矢は届く。
だが、全員は止められない。
一人が、女の腕を掴んだ。
「逃げるなよ、楽しませろよ」
女は声を上げなかった。
叫べば、終わると知っている。
――そのとき。
匂いが、変わった。
酒でも、汗でもない。
甘く、冷たい。
バニラとアンバー。
(……?)
ベルが息を詰める。
街道の反対側から、
ひとりの男が歩いてきていた。
華奢な身体。
無造作に羽織った外套。
夕陽を受けて、
銀砂を溶かしたような長い髪が揺れる。
山賊の一人が気づき、嗤った。
「おい、金づるだ」
「丸腰じゃねぇか」
男は立ち止まる。
胸元が大きく開いた純白の絹シャツ。
瑠璃色の瞳。
その視線が、
女と山賊の配置を――
一瞬で測る。
「……邪魔だ」
声は低く、静かだった。
山賊たちが、大声で笑う。
「何様だよ」
「剣もねぇーのに、何ができるってんだ?」
ベルは、丘の上で弓を構えた。
(あれは……八将……)
啼くカラス亭で見た男。
それは、
剣士でも、魔術師でもない。
男は、前へ踏み出す。
――距離が、死んだ。
五歩。
四歩。
――三歩。
ベルの背筋に、
嫌な感触が突き刺さる。
男は右手を握った。
小指だけが、ゆっくり前へ向く。
次の瞬間。
一人目の山賊が、
ただ――崩れた。
見えない。
音がない。
額に、針で穿ったような小さな穴。
理解が追いつく前に、
二人目、三人目。
ベルの視界で、
人が点として消えていく。
(あれは、
魔獣化異能術――?)
剣を振り上げた男の腕が止まる。
振り下ろされる前に、
頭が後ろへ弾かれた。
血は、ほとんど飛ばない。
倒れる音すら、遅れて来た。
――静かすぎる。
残った山賊たちが、
一拍遅れて事態を理解する。
「……は?」
「な、何が……」
次の瞬間。
また一人、
胸を押さえたまま膝から崩れ落ちた。
血は吹き出さない。
五、六、七人――
気づけば、地面に倒れていた。
八人目。
眼球が揺れ、声が途切れた。
あまりにも、正確。
ベルは息を殺したまま、
丘の上から数を数えていた。
(……なにが起きてるの?)
倒れた者たちは、
皆――男に近い。
残った二人は、
街道の外縁。
馬を繋いだ岩場の近く。
――距離。
(……三歩半以上……?)
男は、もう踏み込まない。
右手を、ゆっくり下ろす。
その瞬間、
空気が、元に戻った。
静寂が、破れた。
「……ひ、ひぃっ!?」
生き残った山賊の一人が、
声を裏返らせて後ずさる。
「な、なんだよ……魔術師かよ……!」
逃げる。
二人は、
背を向けて走り出した。
男は、追わない。
追う必要がない、
という態度だった。
ただ、
男の瑠璃色の瞳が、
二人の背を一瞬だけ追う。
――測定。
そして、興味を失う。
男は踵を返し、
娼婦のほうへ歩いた。
ベルは、弓を引いたまま、
動けずにいた。
(……わざとだ)
(届くのに……殺せるのに……)
だが、
殺していない。
距離、三歩半。
それが、
彼の“線”だ。
偶然ではない。
気まぐれでもない。
(……射程)
(……あの距離が、
あの男の“絶対領域”……)
背筋を、冷たいものが這う。
その時、
瑠璃色の瞳が、
一瞬だけベルの丘を“なぞる”。
右の口角が僅かに上がる。
男は、外套を脱ぎ、
何事もなかったかのように、
震える娼婦の肩に掛けた。
「帰ろうか」
微笑む。
それだけ。
触れ方は淡々としていて、
慰めでも、優しさでもない。
“処理”が終わったあとの、
当然の動作。
男と女は、歩き去る。
その背に、
血の気配はない。
死だけが、
この場に置き去りにされている。
ベルは、ようやく弓を下ろした。
喉が、
ひくりと鳴る。
(……距離を、
測っていたのは……)
(私だけじゃない)
丘の上で、
ベルはその場に立ち尽くした。
逃げ延びた二人の山賊の背が、
林の中に溶けていく。
そして、
甘いバニラとアンバーの香りだけが、
道の上に残った。
(……あの男)
(近づいたら、終わる)
あれは、剣でも、矢でもない。
距離そのものが、武器。
ベルは、無意識に一歩、
後ずさっていた。
それが、
“狙われていない”はずの場所での、
唯一正しい判断だと――
本能が告げていた。
✦✦✦ 【追加登場人物】Characters ✦✦✦
【◆ 黒帝断罪軍(敵勢力) ◆】
✦ セレファイス=エルド=アルテミス ✦
《黒帝八将:無音の狙殺者》
帝王ザイラスに仕える八将の一人。
剣も弓も持たず、
距離そのものを殺す異端の狙殺者。
砂漠の月光を背負うような華奢な身体と、
銀砂を溶かしたような長い髪、
夜を一滴だけ閉じ込めた瑠璃色の瞳を持つ。
戦場では、薄い金冠を額に戴き、
王族か聖職者か――
いずれとも取れる気配を纏うが、
その瞳に情はない。
戦場にあってなお、
甘いバニラとアンバーの香りを纏い、
武器を持たぬまま敵の懐へ踏み込み、
鋼鉄の鎧ですら貫く、
右手の小指・《星銀爪》が伸び、
瞬きすら許されない距離で、喉元に突き立てる。
――誰にも気づかれぬまま、
“無”へと、葬られる。




