第49話 反撃前夜――敵になる者たち
闇の底から、
激流の音だけが這い上がってくる。
崖の縁には、
もう――
獣の気配はなかった。
◇
「……よし」
ニコルは、
短く息を吐いた。
クレセントの肩を、
軽く叩く。
「しっかり生きてるな?」
「は……はい。
心臓、まだ喉元にいますけど」
「十分」
それだけ言って、
ニコルは踵を返した。
二人は並んで歩き出す。
砦へ向かわず――
敵本陣跡へ。
まだ、
終わっていない仕事を、
進めるために。
沈黙の戦場。
土嚢は崩れ、
投石器は横倒しになり、
黒帝兵の死体が、
“撤退”という言葉の残骸のように、
無秩序に散らばっている。
その中央。
土嚢の陰に――
ロザリーナが凭れていた。
布で腹を押さえ、
血が、
指の隙間から地面へ落ちている。
「……ロザリーナ」
ニコルが声を掛ける。
彼女は静かに顔を上げた。
蒼銀の瞳は揺れていない。
だが、
呼吸は浅い。
「……大丈夫」
声は、
少し掠れていた。
「……まだ、立てる」
ニコルは、
それ以上、何も言わなかった。
ただ――
口笛を吹く。
高く、短く。
次の瞬間。
蹄の音。
白馬が、
瓦礫を跳ね越えて走って来る。
ニコルは手綱を掴み、
ロザリーナの肩を支えた。
「無理すんな」
「……分かった」
彼女は逆らわない。
白馬に押し上げられ、
背に回されたニコルの腕から、
確かに――
生きている温度が、
伝わってくる。
「砦に戻れ」
ニコルは、
馬の首を軽く叩いた。
「――治療所へ直行だ」
ロザリーナは、
一瞬だけ、彼を見た。
何か言いかけて――
やめる。
白馬の腹を蹴る。
夕闇の中へ、
蒼が遠ざかっていく。
◇
ニコルは、
その背を見送ると――
軽鎧の留め具を、
一つずつ外し始めた。
金属音。
鎧を脱ぎ、
剣を外す。
「……隊長――何を?」
クレセントが、
思わず声を上げる。
ニコルは振り向かず、
装備一式をまとめて――
彼の胸へ押し付けた。
「持って行け」
「え……?」
「砦に。――落とすなよ」
クレセントを向いた。
その顔には、
いつもの軽口はない。
「マクレブに、遊撃隊の中で、
“精鋭”を十人選んで連れて来るように」
一拍。
「鎧も、武器も、
持たせるな」
クレセントの喉が鳴る。
「……素手で、ですか」
「そう」
即答。
「それで、
ここに来い」
理由は、
説明されなかった。
だが――
クレセントは、
それ以上、何も聞かなかった。
「……了解です!」
ニコルの鎧と剣を抱え、
走り出す。
◇
一人残されたニコルは、
足元へ視線を落とした。
「あれがいい」
少し先に転がる、
小柄な黒帝兵の死体。
裂けた鎧。
血に染みた布。
グラの三つ目の紋章。
「……悪いな」
誰にともなく、
そう呟く。
ニコルはしゃがみ込み、
その鎧を――
剥がし始めた。
留め具を外し、
血が固まった鉄を引き剥がす。
臭い。
ぬめり。
冷たい死。
それでも、
手は止まらない。
やがて――
黒帝兵の鎧を身に着けた、
ニコルが立ち上がった。
星月のマントはない。
純白の柄の細長い湾曲剣も、
白馬もいない。
そこにいるのは――
半獣でも、
遊撃隊長でもない。
ただ、
血濡れた黒い鎧を着る存在だった。
戦場の影へ溶け込むように。
ニコルは、
砦の方角を一度だけ見た。
(……殿下、
次に会うのは夜明けだったよねぇ)
――◇――
◆大教会の聖堂◆
聖堂の扉が、
叩き割るような勢いで開いた。
「――陛下ッ!!」
荒い息。
飛び込んできたのは、
後ろを守るもの。
砦防衛副官――オルフェン・カーンだった。
彼の鎧は血に濡れていない。
刃を受けた傷もない。
ベニバラ、ガルデン。
二将軍の補佐として、
この砦の“壁と数字”を預かる男。
鍛え上げた肉体ではない。
短く刈り揃えた髪には、早くも白いものが混じり、
目の下には、連日の報告と計算で刻まれた、
薄い隈が残っている。
鼻梁には、細い金縁の眼鏡。
考える時に、眼鏡を押し上げる癖。
その双眸には、
城壁の亀裂、
減り続ける物資と食料。
そして積み上がる死者の数が、
消えない残像として焼き付いていた。
オルフェンは数歩進むと、
その場で膝を折り、
石床に拳をついた。
息を整える間もなく。
だが、声は崩れない。
ヴァレンティスは、
老司祭バルノアが横たわる祭壇から、
半歩離れて、ゆっくりと振り返った。
「報告せよ」
短い声。
オルフェンは、
一度だけ深く息を吸い――
歯を食いしばった。
「殿下。
砦・守備隊の死者――
二十七名」
声が、僅かに掠れる。
「民間から動員された兵――
死者、十九名」
一拍。
「教会裏に退避していた民間人――
被害者、なし」
その言葉だけが、
一瞬、聖堂に留まった。
だが、続く。
「重軽傷者――
四十三名。
うち数名は……
今夜を越えられるか――」
言葉を切る。
続きを、飲み込んだ。
「そうか。
時間は無いが、出来るだけ手厚く葬ってくれ」
ヴァレンティスはそれだけ言い、
祭壇の上の神の像へ視線を向けた。
磔にされたその姿は、
救いを約束するものではなく、
ただ――そこに在るだけだった。
半歩だけ距離を保ったまま、
彼は目を閉じた。
二十七。
十九。
四十三。
その数字を、胸の奥に刻みつけた。
数字に何も感じなくなった瞬間、
王は、王でなくなる。
だから――
彼は、忘れなかった。
祈らない。
赦しも、求めない。
ゆっくりと、目を開ける。
磔にされた神は、
何も答えない。
それでいい。
ただ、
この戦争が終わるその日まで、
その数の重さを、
一人で持ち続けると――決めただけだった。
――◇――
◆敵本陣跡◆
しばらくして――。
ニコルの背に、
足音が、複数――近づいてきた。
鎧も剣もつけてない、軽い足取り。
一定の間隔。
息の揃い方。
「……来たな」
ニコルが振り返る。
闇の向こうから、
十の影が現れた。
先頭には――
中隊長マクレブ。
その後ろに、
選び抜かれた遊撃兵たち。
誰もが、
疲労と緊張で顔を硬くしながらも、
目だけは、死んでいない。
そして。
彼らは――
立ち止まった。
「……っ」
誰かが、
言葉を失った。
敵の血と泥にまみれた、
黒帝兵の鎧。
それを身に着けて立つ、
白銀髪のニコルの姿。
星月のマントはなく。
白馬もなく。
遊撃隊長の面影は、
どこにもなかった。
「……隊長……?」
誰かが声を上げる。
「隊長、それ間違ってますよ。
――敵の鎧です」
マクレブが、
戸惑いを隠さずに呟く。
ニコルは、
それに答えず――
短く、言った。
「お前たちも、着ろ」
一瞬。
誰も、
動けなかった。
「……は?」
誰かの喉から、
素の声が漏れる。
「これを……ですか?」
視線が、
足元へ落ちる。
転がる死体。
裂けた腹。
虚ろな目。
まだ温度の残る、
敵兵の亡骸。
その中の一人が、
思わず叫んだ。
「あ、本陣跡に、
まだ予備の新品が――!」
言い終わる前に。
「ダメだ」
ニコルの声が、
鋭く落ちた。
全員が、
びくりと肩を揺らす。
「新品は使うな」
ニコルは、
一歩前へ出る。
「――死んでる奴らから、剥がせ」
空気が、
一段、冷えた。
「……なに、言って……」
誰かが、
顔を歪める。
「これ、着て……
何をするんですか……?」
声は震えていた。
恐怖よりも、
理解できないことへの拒否。
ニコルは、
しばらく黙っていた。
そして――
ゆっくりと、言う。
「俺たちは、
――今から敵になる」
短い。
説明でも、
命令でもない。
ただの事実だった。
「……っ」
誰も、
それ以上は聞かなかった。
兵たちは、
互いに視線を交わし――
一人。
また一人。
歯を食いしばりながら、
死体の前に膝をつく。
留め具を外す。
黒い血。
肉片のこびりついた鎧を、
引き剥がす。
「……うっぷ……」
吐き気をこらえるような声。
「……冷てぇ……」
指が、
震える。
それでも。
遊撃隊は、
誰も逃げなかった。
――なぜなら、
隊長の無謀な無茶には、
慣れている。
やがて――
十人全員が、
黒帝兵の鎧を身に着けて立った。
遊撃隊の精鋭。
だが、
誰一人として、
誇らしげな顔はしていない。
そこにあるのは、
覚悟と嫌悪と、
取り返しのつかなさだけ。
ニコルは、
足元の重厚な兜を拾い上げた。
顔全体を覆う、
黒帝兵の兜。
無機質な鉄。
視界を狭める面当て。
それを――
ハーフマスクの上から、
ためらいなく、被る。
金属音。
――カン。
世界が、鉄の縁で切り取られた。
その瞬間。
兜の中で、
ニコルの表情は、
完全に消えた。
遊撃隊長ニコルは、
もうそこにいない。
いるのは――
敵の皮を被った、
“餌”でも“兵”でもない存在。
ニコルは、
低く、短く告げた。
「……馬で追いつくぞ」
行き先は、
まだ誰にも告げられていない。
だが、
全員が分かっていた。
ここから先は――
戻るための作戦じゃない。
夜の戦場に、
馬に乗る黒帝兵の影が、
十一体。
音もなく――
夜の闇へ溶け込んでいった。
✦✦✦ 【第3⃣幕終了】 ✦✦✦




