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第49話 反撃前夜――敵になる者たち

闇の底から、

激流の音だけが這い上がってくる。


崖の縁には、

もう――

獣の気配はなかった。



「……よし」


ニコルは、

短く息を吐いた。


クレセントの肩を、

軽く叩く。


「しっかり生きてるな?」


「は……はい。

 心臓、まだ喉元にいますけど」


「十分」


それだけ言って、

ニコルは踵を返した。


二人は並んで歩き出す。

砦へ向かわず――

敵本陣跡へ。


まだ、

終わっていない仕事を、

進めるために。


沈黙の戦場。


土嚢は崩れ、

投石器は横倒しになり、


黒帝兵の死体が、

“撤退”という言葉の残骸のように、

無秩序に散らばっている。


その中央。


土嚢の陰に――

ロザリーナが凭れていた。


布で腹を押さえ、

血が、

指の隙間から地面へ落ちている。


「……ロザリーナ」


ニコルが声を掛ける。


彼女は静かに顔を上げた。


蒼銀の瞳は揺れていない。

だが、

呼吸は浅い。


「……大丈夫」


声は、

少し掠れていた。


「……まだ、立てる」


ニコルは、

それ以上、何も言わなかった。


ただ――

口笛を吹く。


高く、短く。


次の瞬間。


蹄の音。


白馬が、

瓦礫を跳ね越えて走って来る。


ニコルは手綱を掴み、

ロザリーナの肩を支えた。


「無理すんな」


「……分かった」


彼女は逆らわない。


白馬に押し上げられ、

背に回されたニコルの腕から、

確かに――

生きている温度が、

伝わってくる。


「砦に戻れ」


ニコルは、

馬の首を軽く叩いた。


「――治療所へ直行だ」


ロザリーナは、

一瞬だけ、彼を見た。


何か言いかけて――

やめる。


白馬の腹を蹴る。


夕闇の中へ、

蒼が遠ざかっていく。



ニコルは、

その背を見送ると――


軽鎧の留め具を、

一つずつ外し始めた。


金属音。


鎧を脱ぎ、

剣を外す。


「……隊長――何を?」


クレセントが、

思わず声を上げる。


ニコルは振り向かず、

装備一式をまとめて――

彼の胸へ押し付けた。


「持って行け」


「え……?」


「砦に。――落とすなよ」


クレセントを向いた。


その顔には、

いつもの軽口はない。


「マクレブに、遊撃隊の中で、

 “精鋭”を十人選んで連れて来るように」


一拍。


「鎧も、武器も、

 持たせるな」


クレセントの喉が鳴る。


「……素手で、ですか」


「そう」


即答。


「それで、

 ここに来い」


理由は、

説明されなかった。


だが――

クレセントは、

それ以上、何も聞かなかった。


「……了解です!」


ニコルの鎧と剣を抱え、

走り出す。



一人残されたニコルは、

足元へ視線を落とした。


「あれがいい」


少し先に転がる、

小柄な黒帝兵の死体。


裂けた鎧。

血に染みた布。

グラの三つ目の紋章。


「……悪いな」


誰にともなく、

そう呟く。


ニコルはしゃがみ込み、

その鎧を――

剥がし始めた。


留め具を外し、

血が固まった鉄を引き剥がす。


臭い。

ぬめり。

冷たい死。


それでも、

手は止まらない。


やがて――


黒帝兵の鎧を身に着けた、

ニコルが立ち上がった。


星月のマントはない。

純白の柄の細長い湾曲剣も、

白馬もいない。


そこにいるのは――


半獣でも、

遊撃隊長でもない。


ただ、

血濡れた黒い鎧を着る存在だった。

戦場の影へ溶け込むように。


ニコルは、

砦の方角を一度だけ見た。


(……殿下、

 次に会うのは夜明けだったよねぇ)


――◇――


◆大教会の聖堂◆


聖堂の扉が、

叩き割るような勢いで開いた。


「――陛下ッ!!」


荒い息。


飛び込んできたのは、

後ろを守るもの。

砦防衛副官――オルフェン・カーンだった。


彼の鎧は血に濡れていない。

刃を受けた傷もない。


ベニバラ、ガルデン。

二将軍の補佐として、

この砦の“壁と数字”を預かる男。


鍛え上げた肉体ではない。

短く刈り揃えた髪には、早くも白いものが混じり、

目の下には、連日の報告と計算で刻まれた、

薄い隈が残っている。


鼻梁には、細い金縁の眼鏡。

考える時に、眼鏡を押し上げる癖。


その双眸には、

城壁の亀裂、

減り続ける物資と食料。

そして積み上がる死者の数が、

消えない残像として焼き付いていた。


オルフェンは数歩進むと、

その場で膝を折り、

石床に拳をついた。


息を整える間もなく。

だが、声は崩れない。


ヴァレンティスは、

老司祭バルノアが横たわる祭壇から、

半歩離れて、ゆっくりと振り返った。


「報告せよ」


短い声。


オルフェンは、

一度だけ深く息を吸い――

歯を食いしばった。


「殿下。

 砦・守備隊の死者――

 二十七名」


声が、僅かに掠れる。


「民間から動員された兵――

 死者、十九名」


一拍。


「教会裏に退避していた民間人――

 被害者、なし」


その言葉だけが、

一瞬、聖堂に留まった。


だが、続く。


「重軽傷者――

 四十三名。

 うち数名は……

 今夜を越えられるか――」


言葉を切る。

続きを、飲み込んだ。


「そうか。

 時間は無いが、出来るだけ手厚く葬ってくれ」


ヴァレンティスはそれだけ言い、

祭壇の上の神の像へ視線を向けた。


(はりつけ)にされたその姿は、

救いを約束するものではなく、

ただ――そこに在るだけだった。


半歩だけ距離を保ったまま、

彼は目を閉じた。


二十七。

十九。

四十三。


その数字を、胸の奥に刻みつけた。


数字に何も感じなくなった瞬間、

王は、王でなくなる。


だから――

彼は、忘れなかった。


祈らない。

赦しも、求めない。


ゆっくりと、目を開ける。


磔にされた神は、

何も答えない。


それでいい。


ただ、

この戦争が終わるその日まで、

その数の重さを、

一人で持ち続けると――決めただけだった。


――◇――


◆敵本陣跡◆


しばらくして――。


ニコルの背に、

足音が、複数――近づいてきた。


鎧も剣もつけてない、軽い足取り。


一定の間隔。

息の揃い方。


「……来たな」


ニコルが振り返る。


闇の向こうから、

十の影が現れた。


先頭には――

中隊長マクレブ。


その後ろに、

選び抜かれた遊撃兵たち。


誰もが、

疲労と緊張で顔を硬くしながらも、

目だけは、死んでいない。


そして。


彼らは――

立ち止まった。


「……っ」


誰かが、

言葉を失った。


敵の血と泥にまみれた、

黒帝兵の鎧。


それを身に着けて立つ、

白銀髪のニコルの姿。


星月のマントはなく。

白馬もなく。


遊撃隊長の面影は、

どこにもなかった。


「……隊長……?」


誰かが声を上げる。


「隊長、それ間違ってますよ。

 ――敵の鎧です」


マクレブが、

戸惑いを隠さずに呟く。


ニコルは、

それに答えず――


短く、言った。


「お前たちも、着ろ」


一瞬。


誰も、

動けなかった。


「……は?」


誰かの喉から、

素の声が漏れる。


「これを……ですか?」


視線が、

足元へ落ちる。


転がる死体。

裂けた腹。

虚ろな目。


まだ温度の残る、

敵兵の亡骸。


その中の一人が、

思わず叫んだ。


「あ、本陣跡に、

 まだ予備の新品が――!」


言い終わる前に。


「ダメだ」


ニコルの声が、

鋭く落ちた。


全員が、

びくりと肩を揺らす。


「新品は使うな」


ニコルは、

一歩前へ出る。


「――死んでる奴らから、剥がせ」


空気が、

一段、冷えた。


「……なに、言って……」


誰かが、

顔を歪める。


「これ、着て……

 何をするんですか……?」


声は震えていた。

恐怖よりも、

理解できないことへの拒否。


ニコルは、

しばらく黙っていた。


そして――

ゆっくりと、言う。


「俺たちは、

 ――今から敵になる」


短い。

説明でも、

命令でもない。


ただの事実だった。


「……っ」


誰も、

それ以上は聞かなかった。


兵たちは、

互いに視線を交わし――


一人。

また一人。


歯を食いしばりながら、

死体の前に膝をつく。


留め具を外す。

黒い血。

肉片のこびりついた鎧を、

引き剥がす。


「……うっぷ……」


吐き気をこらえるような声。


「……冷てぇ……」


指が、

震える。


それでも。


遊撃隊は、

誰も逃げなかった。


――なぜなら、

隊長の無謀な無茶には、

慣れている。


やがて――


十人全員が、

黒帝兵の鎧を身に着けて立った。


遊撃隊の精鋭。

だが、

誰一人として、

誇らしげな顔はしていない。


そこにあるのは、

覚悟と嫌悪と、

取り返しのつかなさだけ。


ニコルは、

足元の重厚な兜を拾い上げた。


顔全体を覆う、

黒帝兵の兜。


無機質な鉄。

視界を狭める面当て。


それを――

ハーフマスクの上から、

ためらいなく、被る。


金属音。


――カン。

世界が、鉄の縁で切り取られた。


その瞬間。


兜の中で、

ニコルの表情は、

完全に消えた。


遊撃隊長ニコルは、

もうそこにいない。


いるのは――


敵の皮を被った、

“餌”でも“兵”でもない存在。


ニコルは、

低く、短く告げた。


「……馬で追いつくぞ」


行き先は、

まだ誰にも告げられていない。


だが、

全員が分かっていた。


ここから先は――

戻るための作戦じゃない。


夜の戦場に、

馬に乗る黒帝兵の影が、

十一体。


音もなく――

夜の闇へ溶け込んでいった。


✦✦✦ 【第3⃣幕終了】 ✦✦✦

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