第45話 獣王の落胤――蒼は斬れず
西に沈みかけた太陽が、
戦場を横から――抉るように照らしていた。
焼けた空が、
崩れた土嚢、倒れ伏した投石器、
放棄された黒帝軍の本陣――
そのすべてを、逃げ場のない赤で塗り潰す。
矢も、怒号も、
すでに途切れている。
残っているのは――
屍の血の匂いと、深く抉られた大地。
踏み荒らされ、押し潰された戦場の“重さ”だけだった。
その中央で。
蒼と、
世界に放たれた
“獣王の落胤”。
二つの存在が、
互いを測るでもなく――
ただ、向かい合っていた。
◇
この戦場では――
剣士としての常識が、
あまりにも容易く、崩れ去っていた。
通常の斬撃。
正確な間合い。
積み上げてきた技量。
そのすべてが、
一切、意味を持たないという宣告。
それでも。
ロザリーナは、
一瞬だけ歯を噛み締め――
次の瞬間、地を蹴った。
速い。
ただ、
圧倒的に、速い。
「……止めなければ――」
双剣が、
同時に――消えた。
一閃。
二閃。
三閃。
雷が、
連続して叩き込まれる。
蒼銀の軌跡が、
幾重にも重なり、
空気そのものを切り裂いた。
肩。
胸。
脇腹。
首元。
斬る。
刻む。
断ち切る。
――それを、
「……まさか……」
城壁へ駆け上がってきたクレセントが、
息を呑み、声を漏らした。
視界に映る光景を、
思考が拒絶する。
理解が追いつくまで――
ほんの、わずかな“間”が必要だった。
「……たった、一人で……
あの“化け物”と……斬り合ってる……?」
あり得ない。
クレセントは、知っている。
あの蒼が、何を意味するかを。
ロザリーナと、最初に出会った村。
八将・グラ=シャルンを、
正面から圧倒してみせた――あの色。
剣が振るわれた、その瞬間に。
“勝敗が決まる”剣。
恐怖も。
威圧も。
力そのものを――静かに、断ち切る。
絶望を裂くための、蒼。
それが――
(……効いて、いない……?)
刃は届いている。
動きも、速さも、間合いも。
何一つ、狂ってはいない。
それでも――
相手は、揺るがない。
だが、それは――必然だった。
グラを喰らい。
ヴァルザークを退け。
そして、ベニバラとアズを叩き潰したドルグでさえ、
“戦い”として成立させなかった存在。
八将の三巨頭ですら、
単なる“通過点”としてきた。
それは絶望そのもの。
――ライザリオン。
それを“兄”と呼べる者が、
たった一人で向き合い、
なお、生きて立っていること自体が――
もはや、奇跡だった。
(……これ、戦いじゃない……)
勝つための剣でも。
殺すための剣でもない。
“砦の命を守る側”が、
必死に抗っているだけの――現実。
クレセントの背筋を、
氷のようなものが、
音もなく――這い上がっていった。
◇
それでも、
ロザリーナは、止まらなかった。
――舞うように、位置を変える。
前へ。
横へ。
背後へ。
斬って、
斬って、
斬り続ける。
だが――
ライザリオンは、
倒れなかった。
斬撃は、
赤黒い外皮に吸い込まれ、
何事もなかったかのように――弾かれる。
血は、出ない。
肉も、裂けない。
(……効いてない)
視界が、
わずかに揺れる。
呼吸が乱れる。
胃の奥が、
きり、と軋む。
(……毒……)
喉の奥に、
鉄の味。
吐き気を噛み殺し、
ロザリーナは踏み込む。
――止まらない。
止まれば、
終わる。
◇
その瞬間。
ライザリオンが、
初めて――動いた。
踏み込み。
右手の槍が、
一直線に突き出される。
――腹。
ロザリーナは、
反射だけで剣を振った。
弾く。
だが――
ガギィィン――!!
爆ぜるような衝撃。
左腕に、
凄まじい反動が走る。
次の瞬間。
剣の柄が――
砕けた。
折れた剣が、
火花を散らしながら宙を舞う。
ライザリオンの槍は、
黒帝軍が誇る伝説の鍛冶士の“作品”。
軽く、
そして――折れない。
振り払えなかった、
その一瞬。
槍の先端が――
蒼い軽鎧を貫いた。
「――っ!!」
腹を突き抜ける、
冷たい衝撃。
ロザリーナは即座に――
槍の柄を左手で掴んだ。
必死に。
指が食い込むほど、強く。
そのまま――
後方へ退く。
槍は、
致命に届く寸前で――止まった。
だが。
ライザリオンは、
止まらない。
両手で、槍を握り直す。
一歩。
踏み出す。
――ぐっ。
さらに、
深く。
腹の奥が、
灼ける。
内側を、
削り取られるような、
鈍く、逃げ場のない激痛。
次の瞬間――
身体が、僅かに浮いた。
ロザリーナごと、
槍が上へ引き上げられる。
腹を、
真一文字に裂こうとする力。
止められない――桁違いの怪力。
歯を、
きつく噛み締める。
眉が、わずかに歪み――
視界の端が、白く滲んだ。
だが、
悲鳴は出ない。
(――このままじゃ)
その言葉と同時に、
蒼銀の瞳が、
一度だけ――冷える。
一切の迷いが、消えた。
判断は、
一瞬。
右手の剣を――捨てた。
両手で、槍の柄を掴む。
歯を食いしばり、
腰を引き、
腕の力だけで――
腹から引き抜く。
血が、噴き出した。
「……終わらせる」
その声は、震えていなかった。
視界に映る、
変わり果てた兄。
「ごめんね、――兄さん」
同時に。
後ろ足で、
地を蹴る。
身体が、
尻から宙へ浮き上がる。
槍の柄を平均台のように掴み、
それを支点に――前方へ反転。
左膝を畳み、
右脚を限界まで伸ばす。
そして――
持ち上げられた力を、
そのまま回転力に変えて。
右足の踵に、
全体重を掛けて――
ライザリオンの脳天へ、叩き落とした。
――ゴンッ!!
鈍く、重い音。
頭蓋に、
確かな衝撃。
斬ったのではない。
骨を砕く、
外部からの打撃。
ライザリオンの膝が、
一瞬だけ――沈む。
だが。
次の瞬間。
顔が、ゆっくり上がった。
赤黒い瞳。
効いていない。
なにも――。
そこには、
抵抗すら、存在しなかった。
◇
ライザリオンは、
ロザリーナが掴んでいる槍を――
横へ、ずらす。
体重を預けていた支点が――消える。
「……っ」
ロザリーナの身体が、
落ちる。
背中から――
ライザリオンの足元へ。
次の瞬間。
力一杯に、
蹴り上げた。
腹へ。
――ドンッ!!
内臓が、
潰れる。
息が、
一気に吐き出される。
「――がっ……!!」
身体が、
宙を舞った。
夕陽に染まる戦場を、
一直線に――
敵本陣跡へ。
逃げ散った黒帝軍の本陣。
その周囲に積み上げられた――
土嚢の壁。
次の瞬間。
――ドンッ!!
背中が、
強かに叩きつけられる。
布袋が潰れ、
土が爆ぜる。
肺が、
悲鳴を上げる。
「――――っ!!」
ぶはっ……!!
口から、
血が――噴き出した。
ロザリーナは、
土嚢にもたれるように、
崩れ落ちる。
視界が、
白く揺れる。
血を流す腹を押さえ、
起き上がる。
顔を上げた向こうに――
ライザリオンが、
静かに歩いて来ていた。
獣の呼吸。
赤黒い瞳。
倒れた“障害物”を、
処理しに来る――
捕食者の足取り。
「……剣が、ない」
ロザリーナは、
周囲を見渡す。
剣が役に立たないことは、
分かっていた。
それでも――
素手よりは、ましだった。
本陣の中。
鈍く、光るもの。
――黒帝軍の剣。
ロザリーナは、
ふらつく脚を叱咤し、
そこへ向かった。
呼吸が、乱れる。
視界が、歪む。
そして彼女は――
この戦場が“人間のものではなくなった”と、
最初に理解してしまった。
その背後で、地面がきしりと鳴った。




