第20話 眠らぬ狩人――捨てられた者たちの地下
その日の夜。
地上の喧騒が嘘のように消えた酒場の地下室で、
ロザリーナは冷たい床に横たえられていた。
暗い倉庫のような広い空間――
壊れた椅子、樽、古い酒瓶、干からびた食料。
その薄暗い隅に――
両手両足を粗縄で縛られたまま転がされている。
◇
階段の上、
地下へ降りる扉の前で、見張りの男が二人、だるそうに話していた。
「けどよ……あの女、いい身体してたなぁ」
「やめとけ。
グラ様が“いたぶるから絶対殺すな”って言ってただろ。
傷つけたら俺らも死ぬぞ」
「殺しゃしねぇよ。
ちょっと楽しむだけだ」
下卑た笑いが、地下室のドアを睨む。
その死角――
陰に身を潜める女が一人。
仮面の奥の目を伏せ、床に伸びる男たちの影を見ていた。
「……やめとけ!」
男は仲間の制止も耳に入れず、
ニヤニヤと笑いながら、ドアの鍵を開け、
階段をひとりで降りていった。
◇
その少し前――
ロザリーナは、
意識が水底から浮かぶように戻ってきていた。
「……っ……ここは……」
ぼやけた視界が形を結ぶ。
薄暗い壁に貼られた紙へ焦点が合う。
――粗い筆致で描かれた自分の顔。
青銀の瞳、栗色の髪、双剣。
(……私の手配書……)
ロザリーナは深く息を吸い、
後ろ縛りの手を腰の下に滑らせ――
しなやかな体の可動域を最大限使って、
ぐい、と腕を腰の下から腹側へ通した。
(……よし)
その瞬間――
木製階段の軋む音。
階段を降りてくる巨漢の影。
ロザリーナは即座に横たわり、眠ったふりをする。
◇
下りてきた男は、
意識が戻っているなど露ほども知らず、
いやらしい笑みで短剣を握り近づいてきた。
「よぉ、ねえちゃん。……お楽しみといくか」
腕がロザリーナの首へ回り、
体を起こそうとした瞬間――
(……今)
ロザリーナは縛られたままの右手を拳にし、
親指を前へ突き出して――
男の喉元へ一直線に打ち込んだ。
グゴキィッ――。
鈍い手応えと共に、親指の骨まで痺れる痛みが走る。
喉仏が砕け、悲鳴すら漏らせず男は
目をむいて後方に倒れる。
(騒ぐ暇は与えない)
充血した目で、男は酸欠の魚のように口をパクパクさせ――
やがて動かなくなった。
ロザリーナは倒れた男の短剣を蹴り寄せ、
器用に握り、縄を断ち切る。
次は足――
そう思った矢先、
再び階段を降りる足音。
(また来るのか?)
ロザリーナは振り返りながら縄を切る。
影が階段を下りてきた――
「へぇ。助けは必要なかったみたいね」
女は足元に倒れている見張りの男を一瞥した。
喉元を潰され、即死している。
薄布のヴェールが揺れ、
翡翠の瞳がロザリーナを見下ろす。
階段上のドア近く。
もう一人の見張りは、女の短剣で、静かに片付けられていた。
◆◇◆
「……何者だ?」
立ち上がったロザリーナは短剣を握り直す。
女はゆっくり降り立ち、両手を広げた。
その手には、鞘に収まった双剣が。
「味方。……少なくとも、今は」
声は軽いが、奥の色は深かった。
「私はベル・サフィール――北の地ブルームロアの者。
抵抗を捨てずに生きている者たちが西にいる――そう聞いて、
ここまで来たの」
「私はロザリーナ。……どうして私を?」
ベルは壁を指す。
そこには貼られた手配書。
「あなたが酒場に入った瞬間に分かった。
あの粗い絵でも、瞳の色は誤魔化せないもの」
ベルは歩み寄り、ロザリーナを覗き込む。
「グラ=シャルンに追われているということは、
――私の敵じゃない」
彼女は店主の部屋から盗んできた双剣を、ロザリーナへ差し出す。
「それと……眠り薬。
効果が切れるのが早すぎるわ」
「……?」
「牛でも二晩は動けなくなるほどの薬。
数時間で意識が戻るなんて普通じゃないわ」
ベルは肩を竦める。
「あれは強い薬よ。
たぶん副作用が出る。
しばらくは嘔吐と眩暈が残るはず」
暗い地下室に、
二人の女の影が並んだ。
ロザリーナは、手渡された自分の双剣を腰に戻した。
そしてベルの瞳を正面から射抜くように見た。
「――目的は?」
ベルは薄笑いを浮かべる。
舞い子のそれであり、獣のそれでもある。
「私の目的はもう達したわ。
――あなたを助けること。
……まあ、必要なかったみたいだけどね?」
ちょうどその時――
階段の上から別の足音。
ロザリーナとベルは視線を交わし、
静かに気配を沈めた。
「まずは、ここを出るわよ」
ベルが身を翻そうとした瞬間――
「……待って!!」
ロザリーナが背後の細い気配を捉え、振り返った。
「――誰だ!?」
暗がりの隅。
膝を抱え、息を殺してこちらを見ている小さな影。
酒場で料理を運んできた少女――
足首は縄で繋がれ、汚れた薄いゴザの上にしゃがみ込み、震えていた。
ベルは振り返らず吐き捨てる。
「まずは逃げるわよ」
だがロザリーナは応じず、
背を向けて、少女の方へ歩き出した。
「……足手まといになるわよ」
翡翠の瞳が、縛られた少女に冷たく向けられる。
「それに――その子、あなたを罠にかけたんだよ」
ロザリーナは一言も返さない。
少女へ歩み寄る。
怒っているのか、哀れんでいるのか――表情は読み取れない。
少女の瞳が揺れ、肩が逃げ場を探すように震え、
やがて耐えきれず――
顔を上げ、大きく口を開けて、
「――うわあああぁぁ!!」
と泣き出した。
涙がボロボロとこぼれ落ちる。
その瞬間、ロザリーナは膝をつき、
そっと左手で少女の口を覆った。
「……見捨てることは、しない」
低い声。
冷たいはずなのに、静かで、不思議と温かい声だった。
ベルは階段で足を止めた。
(……嘘でしょ。
このルール無用の絶望世界で……
まだ、そんなことを言える人がいるの?)
ロザリーナは縄を断ち切り、
小さな身体を抱き上げる。
そのやせ細った震える腕が、彼女の胸にしがみついてきた。
「大丈夫。……もう大丈夫だ」
その言葉は、
冷たい地下の空気を真っ二つに裂いた。
ベルは薄布の奥で唇を揺らした。
「……あなたって、本当に……」
何かを言いかけて――飲み込む。
ベルは、酒樽に掛けてある布を引き千切ると、
ロザリーナの胸に少女を包み、切れ端を背へ回して強く結んだ。
「その子を見捨てないなら――ちゃんと落とさないで」
短い言葉。
ベルは微笑み、階段を指した。
「――行くわよ。
この村は、敵だらけだから」
ロザリーナは少女の頭を片手で添え、
階段へ踏み出した。
二人の女と、一つの小さな命を包んだ布。
そしてそのはるか遠く――
黒い大軍が、
砦へ向けて静かに進軍を始めていた。




