十三話「淡い願い」
カイはボロ馬車に乗って、崖から去っていった。
家へ帰ったのか、当てもなくどこかへ旅だったのか、そこは分からない。が、私から離れていってくれたことが、私にとっては一番の救いで。彼がどこへ行ったかなんて、正直、どうでもよかった。
彼と共に行かずに済んだ。
今はそれだけで十分。
「……大丈夫?」
ジェネもかなり雨に濡れていた。お金がかかっていそうな刺繍が美しく煌びやかなコートも、湿っていた。だが彼は、そんなことはあまり気にしていないようで。彼が、今回の一件で濡れたことに関して、不満げな顔をすることはなかった。
「ありがとう、ジェネ。私に、力を貸してくれて」
礼を述べると、ジェネは、口元に微かに笑みを浮かべる。
「力になれて良かったよ」
控えめにそう言って、それから、数秒空けて続けた。
「一旦あっちへ移動しようか。あまり濡れても体に悪いしね」
それから私は、ジェネと一緒に、いつもの場所へ行った。
これまでも多くの時間を二人で過ごした、あの岩場へ。
一瞬にして崖から岩場へ移動する。
そこは雨が降っている様子はなくて、静かな空気を漂わせていた。
「ねぇ、ジェネ。ここは雨が降っていないのね」
岩を組み合わせたような滑らかではない地面に座り、濡れた衣服や髪の重みを感じながら、私はジェネに話しかける。すると、びしょ濡れにもかかわらず呑気に背伸びをしていた彼は、さらっと答える。
「そうだね。ここは外の世界とは少し違った世界だから」
「違った……世界?」
「そう。ここは人の生きる世界とは違う世界」
普通の人間がいきなりこんなことを言われたとしたら、多分、ただ戸惑うことしかできなかっただろう。彼の言葉の意味を理解することなどできず、彼を「おかしな人」と思ってしまったかもしれない。
でも、私はジェネが起こす奇跡を幾度も目にしてきた。
人になり、蛇になり。
彼が姿を変えるところも何度も目にした。
だから私は、彼が話す少し不思議で奇妙な話も、本当のこととして聞くことができるし、受け入れることもできる。
「だから、外は雨降りでも、ここは雨降りじゃなかったりするんだよ」
「そうだったの」
「ま、外と同じ天気の日もあるから、絶対はないけどね」
ジェネは軽やかな口調でこの場所の天気について簡単に解説してくれた。さらにそれから、「体を拭ける物が必要だよね。持ってくるよ」と、気遣いの言葉をかけてくれたのだった。
穴の奥の方へと歩いていく人型のジェネの背を眺めながら、私はぼんやり「ジェネが婚約者だったら良かったのに」と思う。
彼は人ではない。人の姿にはなれても、私たちとは種族が違う。だから、私と彼が婚約者になるなんてことは、きっと無理だろう。そんな可能性、期待するだけ無駄だ。
でも、もし。
もしも、彼と共にあれたなら。
不意にそんなことを考えた。
ジェネを婚約者になんて、できっこない。先ほど挙げたように、種族が違うというのもあるし、また、彼には想い人がいるというところも、その理由だ。
彼は、かつて私と似たような境遇にあったその女性を、愛している——きっと今も。
そんなことを一人で考え込んでいるうちに、奥へ行っていたジェネが目の前にまで帰ってきていた。
「どうかしたの? マリエ」
彼は手に白いタオルを持っている。
「あ……いえ。何でもないわ」
「もしよかったら、これを使ってよ」
手渡された白いタオル。
使った様子のない、美しいものだ。多分、新品だろう。
私はそれを、戸惑いつつも両手で受け取った。
「ありがとう。ジェネ」
「どういたしまして」
タオルで顔を軽く拭く。頬を撫でる感覚はとても優しく、まるで、心優しい誰かが指で撫でてくれているかのよう。高級感に満ちたタオルは、とても優しく、しかもどことなく良い香りがする。
「これ、なかなか良いタオルね。触り心地が素晴らしいわ。こんな物、どこで手に入れたの?」
「誰かが崖に落としていった物だよ」
ジェネがさらりと発した答えに、思わず大きめの声を発してしまう。
「落し物!?」
しかし彼は少しも慌てない。
落ち着き払って、言葉を返してくる。
「うん。少しだけ砂がついていたから、そこだけ水で軽く流して、干しておいたんだ」
「使って大丈夫なの!?」
「大丈夫だよ。僕、落し物は、結構活用しているんだ」
それでいいのか?
若干そう思ってしまった。
「どうせ取りに来ないしね」
「……まぁ、ジェネがそう言うなら」
彼と言葉を交わす時間は、やはり楽しい。
この世の嫌なことなど、何もかもすべてを忘れさせてくれる——そんな素晴らしい奇跡が、ここにはある。
できるなら、この幸福な時間を手放したくない。
だから、私は口を開いた。
「ねぇ、ジェネ。少し聞きたいことがあるのだけれど……いい?」