第八十八話
「さて、余も戻るとしよう」
皇帝は席を立った。そしてヘライトスの取引相手の貴族に言う。
「そなたは急がなくて良いのか? ヘライトスの邪魔をした者に死が与えられても、余はヘライトスを罰するつもりは無いぞ?」
貴族は顔色を変えた。皇帝を証人とした契約を履行しないだけなら命までは奪われないが、履行の邪魔をしたとなれば話が別だ。
「へ、陛下! 私もご無礼ながら、御前を失礼いたしとうございます!」
「うむ。許す」
血相を変えて飛び出す貴族を見送りながら、皇帝はほくそ笑んだ。
ヘライトスは訓練場に入る寸前に「ぎゃっ!」と言う悲鳴を聞いた。急ぎ訓練場に入れば、少年が剣で突かれて膝立ちに仰け反っている。少年は痛みから逃れるように、そのまま二、三歩進むが、直ぐに地に臥した。すると今度は、剣を突き付けていた小隊長――先日と同じ人物――が少年を蹴り飛ばす。少年は亀のように丸まった。その背中には血が溢れんばかりに滲んでいる。
「止めんか! 馬鹿者が!」
ヘライトスは声を荒らげる。ずんずんと少年に向けて歩いて行く。
「その少年は私が面倒を見ることになった! 今直ぐ連れて行くぞ!」
「そのような通達は受けておりません」
振り向いて、ヘライトスを認めた小隊長は言った。
「お前達への通達は追々来る。とにかく少年は連れて行く」
「通達も受けずに引き渡すことはできません!」
小隊長は顎をしゃくるようにして隊員に指示を出し、ヘライトスの前に人の壁を作らせる。
「何と頭の固い……」
足を止めざるを得なかったヘライトスは無駄だと思いつつも、仕方なく契約書を開いて見せる。前例が極めて少ないこの契約書の意味するところを知るのは、皇帝に面会できるような限られた人物だけだ。
「これが証拠だ」
「おい」
小隊長がヘライトスの壁になっている隊員に指示を出し、隊員が契約書を取り上げようとするのを、ヘライトスは障壁で阻む。指を突いた隊員が小さく呻き声を上げた。
「触れるでない。馬鹿者が」
小隊長が不快さを隠すことなく表情に浮かべ、ヘライトスの許までつかつかと歩み寄って契約書を一瞥する。しかし、その意味するものが解らない。騎士団長からの命令書でないことだけは確かだ。
「とにかく、通達も受けずに引き渡すことはできません」
そして「お引き取り願え」と顎をしゃくるようにしながら隊員に指示を出し、自らは踵を返した。隊員らは先日と同じように壁を作ってヘライトスに躙り寄る。
ヘライトスは言う。
「退け」
だが、隊員は退かない。
「もう一度言う。退け」
やはり隊員は退かない。その隙間からは小隊長が少年をまた蹴飛ばすのが見える。
「ええい! もう一刻の猶予もならん!」
その瞬間にヘライトスから膨れあがった魔力がバリアを形取り、どごどごどごと言う連続した鈍い音と響かせる。その音一つ一つが壁を作っていた隊員を大きく弾き飛ばしていた。
宙を舞って地面に落ちる隊員ら。幾人かは気を失った。
これには小隊長も驚きを隠せず、少年を蹴るのを止めてヘライトスを凝視する。
「お主、止めろと言うたのが聞こえなかったとでも言うつもりか?」
ヘライトスは小隊長に迫る。小隊長は叫ぶ。
「乱心だ! 宮廷魔法士殿が乱心なされた! 取り押さえろ! 多少乱暴にしても構わん!」
訓練場に居た騎士らがヘライトスを取り囲んで剣を抜く。
「剣を抜いたからには容赦はせぬぞ?」
ヘライトスは警告した。しかし騎士らは包囲を縮めるばかり。
「愚かな」
ヘライトスが呟いた瞬間、その周囲に火炎が巻き起こる。そこかしこで悲鳴が響く。炎は剣を持った騎士らの手を焼き焦がしていた。
火炎と共にヘライトスは歩む。包囲していた騎士らはそれに合わせて後退る。ヘライトスは数歩歩いたところで少年に炎が当たらないように火炎を消したが、もう小隊長を含めて後退るばかりでヘライトスを止めようとする者は居なかった。
ヘライトスは少年の傷を目の当たりにする。
「何と痛ましい……」
手を差し延べるが、横目で周囲の様子を窺っていたらしい少年は「ひいっ」と悲鳴を上げて後退る。ヘライトスは肩を落とした。
「それほど怖い思いをさせてしまったか。私が不甲斐ないばかりに……」
少年をここには一刻も置いておけないと、ヘライトスは移動で少年を浮かばせる。突然のことに少年がパニックを起こすが、我慢して貰うしかない。こうでもしなければ少年を無傷で運ぶことが難しい。
騎士団長ワーグはヘライトスが少年を訓練場から連れ出そうとしているところに駆け込んだ。内部の惨状に目を瞠る。
ヘライトスもまたワーグに気付く。
「ワーグよ、部下が大事と申したな? ならばあまり私を怒らせてくれるな」
ヘライトスはそう言い残して訓練場を後にした。
そして、訓練場に居た十数名が騎士として再起不能となっていた。




