第百九話
マリアンはノックの音に起こされた。辺りを見回しながら、自分が気を失っていたことを思い出す。
その時もう一度ノックの音が響いた。
『どうぞ』
『失礼します。マリアンさんは目を覚まされたのですね』
訪問者はノルトであった。
『起きられたのでしたら仕事を頼みたいのですが、宜しいですか?』
『仕事……。わたしにできる事が有るのでしょうか?』
襲撃された際には役に立つことは何もできず、皆の邪魔をしただけだった。そんな自分が何かできるとは思えないのだ。
『有りますよ。みんな夕食がまだなんです。ペコペコですよ』
『えっ……。あっ! はいっ! 直ぐに仕度させていただきます!』
マリアンは勢いよく頭を下げながら言った。
既に日は沈み、夜の帳が世界を覆う。その闇を貫くように二つずつ次々と光が生まれては線になり、後ろに流れては消える。光は道標。魔王の許へと続く道。
魔法の光が流れ星となって過ぎ去るゴンドラの甲板をサーシャは布を被せたトレイを手に歩く。その視線の先、ゴンドラの操縦台に佇むのはシーリスである。
『シーリス様、お食事をお持ちしました』
声を掛けられ、その言葉を咀嚼してから、シーリスは自分が買い出しに行った先で軽食を食べた切りだと思い出す。だが、空腹は感じていない。それどころか喉の乾きもだ。だからと言って、持ち帰らせるのも違う。空腹や乾きを感じていないのが錯覚かも知れないのだ。
『左様か』
トレイを置く場所を示すと、サーシャはトレイをそこに置いた。そのまま立ち去るのだろうと考え、シーリスは意識をまた前方へと向ける。だが、サーシャはその場に佇んだままだった。
『何用かや?』
『あの……』
サーシャは俯きながら言葉を発する。
『シーリス様は私を怒らないのですか?』
『何故や?』
『魔法が……肝心なところで治癒魔法が使えなかったから……』
サーシャの顔はほぼ真下を向いた。
そしてシーリスは、恐らく今のサーシャにとっては怒りを示されるよりも残酷なことを、躊躇わずに言う。
『あの日、あの時、あの場で逃げし者など当てになどせぬ』
サーシャは下を向いたまま目を見開く。
シーリスが言うのは、魔物猟師の町での事件の際に犯人の母親を治療した時のことだ。治療直後に彼女は亡くなり、サーシャは逃げ出した。そこで逃げ出さずに向き合うだけの心の強さを見せていたなら多少は期待しただろう。だが逃げた。裏切られる期待なら、しない方が良い。必要とされる時に使えない力なら無いのと同じだ。だから端からサーシャにはルセアに対して治癒魔法を使えないものとして振る舞っていた。
サーシャの目から止めどなく涙が溢れた。
エミリーに食事を運んだのはノルトであった。
「エミリーさん、お食事ですよ」
「おう、あんがとよ」
「それにしても、凄まじいものですね」
ノルトは流れる景色に簡単を含めて言った。
「ねえさんだからな」
その答えにノルトは小さく肩を竦める。
「エミリーさんもですよ」
シーリスの出す速度に追従して光球を生み出し続けているのだから、常識からは大きく逸脱している。
「そりゃ、あんがとよ。でも魔法士の高みを目の前で見てるからな。あんまり褒められてる気がしねぇや」
「それは失礼しました」
「いいってことよ」
和むのも僅かな間だけ。エミリーはまた表情を引き締める。
「もう少しで減速に入る頃合いだ。いつでも降りれるようにしておいてくれ」
「判りました」
降りれるようにと言っても、ゴンドラを地上に停泊させた後の気構えが殆ど全てだ。魔王の許に持って行くものは殆ど無い。向かうのもルセア、リリナ、エミリー、オリエ、そしてシーリスの五人で、他の五人は地上のゴンドラに居残ることになる。
打ち拉がれたまま船内に戻ったサーシャは虚ろにシーリスの部屋に臥せるルセアを見舞う。汗を滲ませながら治療を続けるリリナの姿に、胸が締め付けられるように痛む。代わりに治療したいと心が叫ぶ。だが、それ以上に怖ろしいのだ。治療して、それで亡くなるようなことがまた起きればもう立ち直れない。
結局何もできないまま後ろに振り返る。その途中、ふと造り付けのチェストが光ったような気がした。吸い寄せられるようにその傍に行き、開ける。中に有ったカバンが仄かに光って見えた。カバンを開けると、入っていたのは頑丈な箱。ノーラの遺跡で見付かった記憶結晶だ。それを無意識に抱き締めた。
減速し始めたのは夜半前のこと。光球が織りなす光条が徐々に短くなる。光条が光の点に変わったのは夜半になってから。そこから徐々に高度も下げ、光球が横に流れなくなるのと同時に縦への流れも止まる。これまで二本の列だった光球はその位置を変え、数を増やして八方に広がり、眼下の魔の森を明るく照らす。
目的の場所には大きな縦穴が空いていた。中型ゴンドラが余裕で降りられそうな穴が、光球の光の届かない深さまで続いている。
「あたしも上から見るのは初めてだけど、何だありゃ?」
「ゴンドラに乗ったまま降りたくなるけど……」
「それは止めといた方がいいだろうな。あれも多分ダンジョンだぜ? 瘴気が濃いだろうから、あたしらやねえさんならともかく、他の奴らじゃ堪えられるかどうかも怪しいもんだ」
ルセアに限ってはリリナが保護するので問題無いが、他の者まで保護する余力はリリナにも無い。
「予定通り地上に降ろしましょう」
「おう、そんじゃいっちょ停める所を作ってくるぜ」
そう言って、エミリーはゴンドラを飛び立った。
そのエミリーと入れ替わるように今まで仮眠を取っていたクインクトが甲板に上がり、操縦台までやって来る。外の様子の変化を敏感に察知して目を覚ましたのだ。
「代わるぜ」
「ええ、お願いするわ」
シーリスは操縦台から降りようと足を踏み出すが、その瞬間に意識が途切れた。
クインクトは突如として力無く倒れようとするシーリスを慌てて受け止める。
「お、おい! しっかりしろ!」
「わたしは……」
幸いにもシーリスの意識が途切れたのは一瞬だけだった。だが、目眩のようなものは残り、額に手を当てて違和感を堪える。
「大丈夫なのか?」
「ええ。まだ大丈夫」
シーリスはクインクトから離れ、足下を確かめるように最初の一歩を踏み出すと、何事も無かったように先を急ぐ。もう意識を失うような油断はしないと心に決めながら。
「大丈夫ならいいんだが……」
クインクトは不吉さを覚えながらもそのまま見送り、操縦台に上がる。そしてそこに置かれたままのトレイに気付き、被せられた布を捲ってみる。
「手付かずじゃないか。本当に大丈夫なのかよ……」
嫌な予感しか覚えなかった。
地上では炎が噴き上がる。
「ひゃーっははは! 死ね死ね死ねぇ!」
\どっかん/\どっかん/
魔の森の樹木を薙ぎ払うエミリーは平常通りだった。
船内に戻ったシーリスはルセアの許へと向かう。しかしその途中のリビングで、サーシャに遮られた。
『シーリス様、私も連れて行ってくださいませ! これを、彼女を届ける役目を私にお任せくださいませ!』
サーシャは手に持った箱を差し出しながら訴えた。
サーシャが持っているのはシーリスが部屋に置いていた記憶結晶だ。それがここに有るのはサーシャが勝手に持ちだしたからに他ならない。通常なら咎め立てするところだが、シーリスはこの記憶結晶のことをすっかり失念していたことを思い出し、怒りよりも驚きの方が勝ってしまった。それに、サーシャに拘っている余裕は無い。
『良かろう』
『ありがとうございます!』
シーリスはサーシャが礼を言い終わる前に通り過ぎる。『姫様!』と後ろでマリアンがサーシャに荒ぶる声を上げるのが聞こえても、僅かに視線を動かすことも無い。
先に見舞ったのはロイエンの部屋。
『ロイエン、入りしぞ』
返事を待たずにドアを開ける。
『シーリスさん……』
ベッドに横たわっていたロイエンは起き上がろうとするが、頭が持ち上がるだけでほぼ藻掻くだけにしかなっていない。そもそもできる限りルセアの治療を急ぎ、集中するため、ロイエンの傷はルセアの前に簡単に止血されただけで、深いまままるで治っていない。動けるような状態ではないのである。
『動くべからず』
『すみません』
ロイエンは温和しく横たわった。
『間もなく発ちたりし。温和しう待ちたれ』
『はい……。ルセアをお願いします』
ロイエンは悔しげに言った。待つしかできない自分が口惜しいのだ。
そしてシーリスがロイエンの部屋を出る頃には、ゴンドラが着陸に向けて降下し始めた。




